近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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平成28年11月31日 川端康成「伊豆の踊子」研究発表

2016-12-20 18:09:01 | Weblog

続きまして、遅ればせながら、10月31日に行われました、川端康成「伊豆の踊子」読書会についてご報告致します。
発表者は三年山内さん、二年鷹觜さん、一年望月くんです。司会は二年長谷川が務めさせていただきました。

「伊豆の踊子」は言わずと知れた川端康成の代表作のひとつです。
研究初期は作者と語り手とを結び付けて論じる、作家論的なものが多く見られます。これらの論では「孤児根性」の解消が重大な問題となっており、この言葉が、肉親を相次いで亡くした作者川端と語り手とを結び付ける原因となっています。研究史の転換点となったのは、上田渡論です。「孤児根性」の解消に拘泥しても、〈私〉の物語内容を読むことができても、テクスト全体を読むことはできないと指摘しています。
今回の発表では、「孤児根性」の解放という読解を解体する要素を拾い上げながら、「孤児根性からの解放物語」という読みが否定された後の本作をいかに読んでいくかという点に論点を絞って考察がなされました。
「伊豆の踊子」をいかに読むかということに論点が絞られたため、副題は「読者の目」とされています。

発表要旨としては、まず、語りの形式についての考察がなされました。本作は一人称過去回想体で語られていきますが、時間構造の操作がなされず、語られる「私」の思い違いがそのまま語られていき、一人称過去回想体という形式が主張されません。これらは、読者とテクストの距離を縮め、語られる「私」と旅の時間を共有するような効果を持っていると考察がなされました。こうした語りの特徴が、「孤児根性からの解放物語」を読者に素直に受容させてしまう要因の一端を担っていると結論付けられました。
発表者は、「孤児根性からの解放物語」として「伊豆の踊子」を読むことは、「私」の主観に取り込まれてしまっているという意見を認めつつも、語る「私」が「孤児根性からの解放物語」を目指したからには、そういった読みをすることも大切なのではないかという問題を提起しました。
「孤児根性からの物語」を解体していくことが、本作を鑑賞する態度として望ましいのか、「孤児根性からの解放物語」が「私」
の誤解だとしても、「私」の誤解を承知した上で、「孤児根性からの解放物語」を語る「私」を肯定的に評価することの可能性についてを発表者は主張しました。

質疑応答では、まず、「孤児根性からの解放物語」として「伊豆の踊子」を読んでいくことについての検討に拘泥したあまり、先行研究への問題提起に留まり、作品の考察に至っていない点について指摘されました。
旅芸人への差別意識から逃れ得ず物語を閉じる点、「私」の独善性が書き込まれている点、語られる「私」が「何も考えていなかった」ことが語られる点から、これらを暴くものとして作品が意図されているという意見が出ました。語る「私」は、語られる「私」のこれらをそのまま提示することによって、語る「私」の問題点を暴いてゆくと考えられます。
また、今年の後期テーマが「旅の文学」であることもあり、本作における「旅」についての討論がなされました。本作には地名や時間が精密に書き込まれており、旅であるという意識がはっきりと書き込まれています。旅芸人にとっての「旅」は生活の一部ですが、「私」にとってはあくまで消費される娯楽に過ぎず、こういった認識の差も、語る「私」が暴き出している要素であるという意見が出ました。
語る「私」の語り方によって、語られる「私」の問題点が暴き出されるテクストとして、「伊豆の踊子」は重要な意義を持つという結論に至りました。

今回の発表では、先行研究の問題点を精密に検討した点が評価されていました。しかし、その先の作品考察こそが重要であると気付かされました。
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