北風と太陽・保存版 統一教会から娘を家族のオープンな話し合いで取り戻した父kokoroのブログ。

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幼いころの淡い思い出  これも「堕落」なのだろうか

2010-05-17 23:57:39 | 心の手記

 

NHK朝の連ドラ「げげげの女房」を家族全員で楽しんでいる。

オープニングに紙芝居に集まる子供たちのフィルムが流れる。

 

小さいころを思い出す。水あめをしゃぶりながら近所の仲間とみていたなぁーと。

多い時は20人ぐらいいたであろうか。テレビが普及する前の時代である。

毎日この画面を見ていると、水あめの臭いを思い出す。

 

当時、なぜか我が家にはテレビがあった。

力道山の出るプロレス中継、歌謡曲番組の時間になると、お隣の家族が全員我が家に集まってきた。

 

隣家には同じ幼稚園にかよっていたタキちゃんがいた。

くりっとした目がかわいい女の子だった。

でも彼女は隣町に引っ越していった。

それっきり音信不通となった。

 

浪人して予備校に通い始めた時、後ろから「○○ちゃんじゃない」私の幼名を呼ぶ声が聞こえた。

一目みて彼女とわかった。くりっとした瞳はそのままであったが、長身でスラットしたかわいい女性に成長していた。

 

私の顔立ちは、女性にもてるほどのものではなかった。

折角出会えたのに、声が上ずって、何を話したか忘れてしまった。

その夜は、眠れなかった。

 

以前ブログで書いた、まさしく、寅次郎に恋の悩みを相談した甥っ子のミツオを思い出す。

 

http://blog.goo.ne.jp/kokoro2442/d/20090909

「寅さん 性について語る」

 

 

おそらく、男性、女性を問わず、だれにもそんな思い出があるのではないだろうか。

 

Youtubeに、幼い時に分かれた男女が、成人して出会うことになったstory musicがある。

 

これを見るたびに、ほのぼのとした思い出として、タキちゃんを思い出す。

 

食口の皆さんにも見ていただいて、幼いころの淡い思いを蘇らせほしい。

 

これを、  原理では「堕落」と言うのだろうか。説明できる方がいれば、お願いしたい。

 

歌は、わが青春時代によく聞いたビーチボーイズ。

 

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5 コメント

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 お久しぶりです。お忙しい中、定期的にブログの... (コアバリュー)
2010-05-21 11:08:10
 お久しぶりです。お忙しい中、定期的にブログの更新があり毎回読ませていただいてます。以下、記事への私見です。
 統一原理は確かに「性の問題」≒「堕落の原因」という独自の教義がありますが、他宗教においても「性の問題」=「人間の悪い心」に近い考えがあります。イエス様も情欲をはっきり否定しているので、カトリックの牧師は一生独身です。また、仏教も性愛については抑制するべきであると考え、それゆえに異性との交流を断ち出家します。
 kokoroさんは「人間の異性に対する性的な思いは自然なこと」とお考えのようですが、こうした高等宗教の教義にはどのようにお考えなのか教えていただければと思います。
 また、少し統一原理を誤解されているようですが、異性に対して、興味を持つことが堕落ではありません。自分の欲望を満たすために、神に逆らい天使と結ばれたことが堕落なのです。ただ、堕落の一線に至らないために普段から、異性への思いには注意が必要と考えいるのです。
 自分の妹や娘が結婚することは「幸せ」なことだと思いますが、妹や娘が不特定多数の男性から性の対象として見られていたら「嫌悪感」を感じるかと思います。「愛の対象」として異性をとらえることは素晴らしいことですが、「性の対象」として異性はみることがいけないと統一原理は考えているのです。
ビーチボーイズ、いいですね。「カレン」という番... (ヨシュア)
2010-05-22 00:09:12
ビーチボーイズ、いいですね。「カレン」という番組がありました。主題歌をビーチボーイズが歌っています。小学生のわたしはカレンに憧れました。アメリカっていい国だなと思ッテました。「うちのいパパは世界一」という番組もありましたね。

コアバリューさんは、年令は若いようですが、まじめな好青年だと感じます。まじめなだけに悲惨です。というのは文鮮明が、多数の女性と性の行為をしてきたこと自体を知らないようなので。
僕は、ようつきあいきれませんがよろしくお願いします。
どんなに正当化しても複数女性との「性の行為」はわたしには罪としか思えません。

コアバリューさんへ (kokoro)
2010-05-22 01:03:33
コアバリューさんへ

久しぶりのコメントありがとうございます。コアバリューさんのブログ、ときどき気にしながら、読ませていただいています。
以前のコメントでの議論が中途半端になっていて申し訳ありません。

お尋ねの件ですが、まずこのブログで皆さんに思い出してもらいたいのは、3,4歳のころ親の前でも、異性の子供たちの前でも裸で飛びはねていたころの記憶と思春期を通して性に目覚めて行く、人間なら誰しも体験する過程です。
人間が人間である以上、その成長を通して、陰部を隠すようになる。自然の流れです。
 
私自身の世界観でこの問題について述べるとなると長くなりますので、聖書を通して理性的に考えてみたいと思います。

もし原理で言うように、エバが蛇と性交渉した時点からその後の人類は堕落し、腰を隠すようになったというのならば、3,4歳の子供たちはなぜ腰を隠さないのか説明できますか。
善悪を知る木の実を食べる以前と以後の違いは、まさしくそこにあり、食べた事により、男女の性の違いを知り羞恥心が生まれ、陰部を隠したというのが聖書の記述です。
もし原罪があるとするならば、神が食べてはいけないと言った木の実を、エバとアダムが食べた事にあるわけで、エバが蛇と性交渉したなどと聖書には書かれてない話を、あたかも聖書の真意がそこにあるかのごとくオカルト的「堕落論」を展開し、全人類はサタンの血統だといって、世の中の善の部分に目をつむり、悪の部分だけを引き合いに出して人間の否定、人間社会の否定しているのが統一原理の本当の姿ではないでしょうか。
堕落論を信じている人は、逆にいえば堕落してほしくなかったと思う気持ちがあるのだとおもいます。しかし、エバが実を食べなければ、アダムとエバは性に目覚めることなく、子孫を残すことはできなかったのではないでしょうか。コアバリューさんも私もこの世にはいなかったと思います。
人類は子孫を残してこそ人類が次の世代へと続いていくものだと思います。
子供は愛情の結晶、その結晶を生み出す性を大切にすることが肝要かと。
そのために、自分の子を残す相手について、相互に愛情の持てる人物がもっともふさわしいのではと思います。
コアバリューさん、まじめな方とお見受けします。人生は一度だけです。本当に愛し合える伴侶を自らの意思で決めることが自分の人生に責任を持つことになると思います。
神頼みは、責任放棄ではないでしょうか。
 3,4歳の子供たちが腰を隠さないのは、知能と体の... (コアバリュー)
2010-05-24 01:03:52
 3,4歳の子供たちが腰を隠さないのは、知能と体の発達の問題です。人間の堕落と関係ありません。
 自分が「男」「女」という認識がほとんどなく、体のつくりにも大きな差がない状態で「羞恥心」が生まれないのは自然なことのように思います。
 原理では、陰部を隠すこと行為自体を否定はしません。ただ「性」対してうしろめたい思いを持ったり、不特定多数の異性に対し、情欲の思いを持ってしまう事が堕落の根本であるといっているのです。
 繰り返しになりますが、多くの高等宗教が情欲を否定しようしているのはまぎれもない事実です。

>エバが実を食べなければ、アダムとエバは性に目覚めることなく、子孫を残すことはできなかったのではないでしょうか。
 原理講論第2章第3節(3)を読んでいただればと思いますが、エバは時がくれば実を食べる(アダムと性的関係を持つ)ことが出来ました。原理では「時ならぬときの時のことを願った」とい書いていますが、未完成期間(心が成長する前)に関係をもったことを堕落としているのです。
 また、ご指摘の通り、原理は聖書を象徴的に真理が書かれているものとしています。よって、聖書にない記述も原理講論には書かれています。それに対して、キリスト教徒の中には聖書の言葉を全て真理として考えている人もいます。例えば、天地創造6日間の話を文字通り6日で、世界が創造されたと本気で考えています。しかし、たいていのキリスト教徒の人たちは、科学的なことを認めつつ聖書を、神の啓示による教訓の話としてと捉えているように感じます。(もちろん教派や牧師さんの信仰観の違いは大きいと思いますが)
「原罪」の考えかた一つとっても、カトリック、プロテスタント、東方正教会、ユダヤ教などで、同じで聖書を基にしているにも関わらず見解が大きく違います。世間的には批判の対象にされていますが、統一原理の思想もその一つの見解です。
>ヨシュアさんへ
 コメントへの反応ありがとうございます。ブログを書いたり、人のブログにコメントするような性格なので、文鮮明先生の噂や
御家庭への反論本などの情報は一通り知っているつもりです。kokoroさんがご指摘する祝福のことも含めて、近いうちにブログに、個人の見解を書きますので、よろしれば読んでみてください。
コアバリューさんへ (kokoro)
2010-05-24 11:51:13
コアバリューさんへ

>3,4歳の子供たちが腰を隠さないのは、知能と体の発達の問題です。人間の堕落と関係ありません。
 >自分が「男」「女」という認識がほとんどなく、体のつくりにも大きな差がない状態で「羞恥心」が生まれないのは自然なことのように思います。
> 原理では、陰部を隠すこと行為自体を否定はしません。ただ「性」対してうしろめたい思いを持ったり、不特定多数の異性に対し、情欲の思いを持ってしまう事が堕落の根本であるといっているのです。



コアバリューさんの素直な人間的な感覚を感じています。しかし原理をもう一度読んでみてください。以下原理講論3色版P101(第2章堕落論第1節罪の根(2)人間の犯罪)の引用。
 
創世記二章25節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(旧約聖書創三・7)。
もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば、人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。しかるに彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。(引用終わり)
 
これがコアバリューさんの信ずる原理です。これで明らかですよね。
陰部を隠すことを原理では、エバとサタンが性交したからだと言っているのです。
私は、陰部を隠すことは、人間が動物とは違って、成長するに従って、性の目覚めとそれをコントロールしようとする理性の成長があるからだと思っています。そのことは、コアバリューさんと一致できないのでしょうか。
(北風と太陽「アダムとイブ 聖書から学ぶこと」を参照していただければ)
http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2009/09/post_b121.html
  

木の実を食べて腰を隠し、情欲をコントロールする理性という着物をエデンの園から去る二人に神は与えたと私は聖書を理解しています。
コアバリューさんが言われた「・・知能と体の発達の問題・・」は幼児期にかぎらず性に目覚め、大人になっていく人間にもあてはまることですね。
むしろ情欲をコントロールする理性の成長を促すのが宗教人としての役割かと思います。
  
 >繰り返しになりますが、多くの高等宗教が情欲を否定しようしているのはまぎれもない事実です。
    
ある僧侶の方に最近お聞きしましたところ、今日の日本の仏教界の高僧と言われる方のご子息の多くは恋愛結婚だそうです。
コアバリューさん、恋愛結婚はいけないのか、「情欲」という言葉を否定のために思考されるのはあなたの自由だが、あなたの恋愛結婚まで否定していいものか、一度しかないあなたの人生をもういちどよく考えてみてほしい。あなたならきちんと考えることができるはずだ。
  
(このコメントは5月24日ブログ記事に一部挿入)

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