九重自然史研究所便り

昆虫採集と観察のすすめ

熱研よ死ね!

2017-12-06 11:59:31 | 日記



1.熱研よ死ね!
熱研よ死ね!と吐き捨てたい気持ちで長崎を離れた!
 若い頃の思い出の土地を訪れる今回の旅で唯一落胆したことは熱帯医学研究所75周年の式典の二つの記念講演だ。それらは75周年とまったく関係がないお門違いの話だった。私は長く医学系に勤めたから、どちらの話も理解はできるが、なぜ祝典に関係がないこんなお粗末な演者を選んだのか理解に苦しむ。聴衆は確かに医学系の人が多かったが、彼らは私と同じく熱研同門会員たち、つまり熱研のOB、身内の人々であり、主賓ではない。
一番大切にしなければならない主賓は地元の名士や長崎県選出政治家、知事、市長、市・県会議長、文部科学省の来賓、長崎大学学長ら、と他学部の代表、それらの代理、つまり長崎県民の代表である。それら招かれた重要な客人たちは文系の人が多い。だからもし私が所長だったら、医学の専門的な話はやめ、もっと具体的な海外へ派遣された熱研の若い現役研究者の体験談や、熱研が成し遂げた世界的に誇れる研究成果を話すべきだった。主賓は熱研の活動ぶりを目の当たりに見聞し感動すれば、予算を増やすこともできる方たちだ。熱研を何十年も支援してくれた地元の人たちのことを忘れ、医科研の太鼓持ちをする馬鹿者を講演させるとはなんということだ。
今の熱研幹部は熱研が医科研によってつくられたとでも思い込んでいるらしく、二番目の講演者は無礼にも医科研の歴史を始めから終わりまで延々と講演した。所長以下熱研幹部はこの失態をどう繕うのか。長崎に感染症隔離病棟を建てることは私も大賛成で、一つ妥協案を持っており長崎に住んでいれば反対派の説得活動をしたいぐらいだったが、今の熱研では心もとなく賛成できなくなった。
ここに載せたブログは一代前の私たちの時代の熱研の思い出話である。もちろんいちいちメモを取っていたわけではなく記憶だけに頼って書いたから間違いも多いだろう。当時の熱研は部門間で意見の相違はあったが、若手研究者は部門の垣根を越えて語り合い、飲み歩き、そしてそこでつい所長批判に発展することもあったが、一方では部門対抗ソフトボール大会やラボランチンも含めた若者が、昼食時にバドミントンに興じ、あるいは一泊キャンプをやったことがあった。

2.熱研は長崎市民・県民に支援されてここまで発展したことを忘れるな!
戦後、長崎大学には原爆を受けた被害者を救済・治療する原爆後障害医療研究所が設置されたが、風土病研究所は戦前からあった。熱研の前身と北大の有名な低温研究所は同時に設立された。なぜ単科の長崎医大に帝大なみの研究所がつくられたのか理由を聞いていないが、西洋医学の発祥の地を記念したのかもしれない。
私の前の世代で、私が接したのは大森南三郎教授と片峰大助教授だった。戦後、この研究所が存続できたのは、長崎県は離島が多くフィラリア症など寄生虫性疾患がまだ蔓延しており、お二人とその弟子たちが献身的な調査・研究に努めたことは映画にもなった。その後、第一次アフリカ調査隊も長崎県民の大きな支援を受けて送り出されたという。
原虫学を担当する疫学部門は私がその部門の助手になった1年ほど前にでき、旧風土病研究所の建物には入る余地がないので、経済学部の木造校舎を借りて研究した。経済学部教官とはトイレで出会うだけだったが、顔なじみになった一人の先生は、風研の片峰をぜひ学長にしようと言われた。次に細菌学部門ができた際は、医学部の厚生施設に間借りしてスタートした。
私が風研に入った1960代後半は日本の国力が回復し、国内の寄生虫症の多くは撲滅され、風研から熱研に改名し5部門に増え、他国のマラリア対策に貢献するため私も1969年~1972年フィリピン・パラワン島へマラリアの研究で出かけた。この調査時も、長崎県、長崎市、長崎市ロータリークラブなどから資金や顕微鏡2台などを支援していただき、1年ぽっきりのはずの調査が4年続いた。
ウイルス部門は三番目にでき林教授や三舟助手、松尾助手らはまず日本脳炎の研究に取り組んだ。不思議なことに日本脳炎ウイルスは、冬になると豚からも媒介者である越冬中の蚊からも検出できなくなる。この謎を解くため様々の仮説を立て研究され、その一つは私に関係がある研究なので紹介すると、日本脳炎ウイルスは爬虫類の体内で越冬するのではないかと考え、数百匹のヘビが長崎県民の協力で集められ、採血し日本脳炎抗体を検査されたが、芳しい結果は得られなかった。その時、末永先輩が作成した血液塗抹標本は本村先輩が預かり、その検査は「君の勉強になるから」と新米の私に押し付けられた。学者人生には何を見つければよいのか分からないが、とにかく未来を切り開くために上司から命じられた仕事をもくもくやらねばならない時もある。今がそういう時だと思い毎日一生懸命検査した。なるほど偉い先輩の言う通り、ヘビのヘモグレガリンを数種発見し10年後、誰も書かなかった世界一詳しい「寄生原生動物」という大著を書くきっかけになった。

熱研75周年の二人目の講師はよほど大バカ者で、よその75周年にこともあろうに私たちが熱研にいた頃ライバルとして意識していた医科研の歴史を延々と話し続けた。いくらお招きした講師でも、私が熱研所長なら狼藉を働いたに等しい男をやんわりと丁重に、しかしきっぱりと、残り時間が少ないので、そろそろ本題の「医科研以上に華々しい熱研の歴史をどうぞお話下さい。」と皮肉を言い、やめさせただろう。
私が加わったフィリピン調査も長崎市、長崎県、文部省から大変支援を受けた。75周年の式典にも文部科学省から来賓があった。その方はきっと熱研所長や熱研幹部は大バカ者だと上司に報告しているだろう。我々の時代と違い熱研には巨額の研究費が投じられているはずだ。私たちの世代が夢見た海外の研究基地も今の熱研は複数持っている。一度それらをすべご破算にし、熱研改革をしないとだめだと思った。
私は熱研が好きで蔵書をすべてミュジアムに寄贈したが、今はひどいところへ寄贈してしまったとやるせない思いをしている。

3.医科研をライバルと意識していたから書けた大著「寄生原生動物」
私が熱研にいたころ医科研には佐々さんがいた。大森・片峰両先生の気持ちはわからないが、医科研側の人も新しく台頭した熱研を意識していたことは確かである。なぜなら私が中林教授の勧めで月刊誌「熱帯」(8巻4号、176~184, 1974)に「フィリピン・パラワン島・イワヒグ囚人村におけるマラリアの流行−特に1973年1〜2月の流行について」という論文を掲載した。その雑誌の編集者は医科研の先生なので、学会で、偶然、会った医科研の知人から「よく片峰さんが熱帯へ投稿することを許しましたね」と不思議がられた。このように医科研側も私と同年配の人が確かに熱研を意識し、片峰先生が熱研の大ボスだと思っているふしがあった。一方、佐々さんは名前の通り何でもテキパキすすめ、特に本の執筆が早いと聞いた。外国出張すると飛行機内で、誰にも邪魔されず執筆できるので、1冊の著書が海外出張のたびに完成するという話だ。
その話を聞いた時、ちょうど中林先生が大阪に戻られ、次の教授に仕える気持ちはまったくないので、研究所を止める前に熱研に勤めていた証(あかし)として「寄生原生動物」を執筆しようかと迷っていた時だったので、もし私と佐々さんが、まったく同時に同じ資料を使って、その本を執筆するとしたら佐々さんと私のどちらが早く執筆を終わるだろうか、と妙なことを考えた。そして相手がさっさと仕事をする佐々さんであっても、私が一生懸命努力すれば私の方が早く原稿を完成させることができると確信した。
なぜなら佐々さんは東大教授であり、教授として会議に出る、弟子の指導をする、さらに学会にも出なければならない。一方、私は中林先生が大阪に戻られ、塚本先生と二人残されたので、すべての時間を執筆に割くことができる。つまり持ち時間は佐々さんより私の方が何倍も多い。仮想ライバルが大物であればあるほど、ライバル意識が燃え上がり30代の若い私が一生懸命取り組めば大きな仕事ができると確信し、事実そうできた。
その少し前、長崎県生物学会の幹部山本さんから、その学会は対馬を何年もかけて調査したが、どうしても報告書が出版できない、編集の全権を私に任せるから引き受けてくれないか頼まれた。なぜ私にと尋ねると、執筆者は長崎大学教養、教育、水産、医学部の教官と県内の生物学系教員・昆虫や植物愛好家および県外会員で、私はそれらのメンバーの誰とも師弟や後輩先輩の関係がなく、だれにも遠慮することなく思うように編集できるはずだという。実はその前、山本さんらと男女群島調査をした後、山本さんの代わりに私が皆から原稿を集め、その報告書をすぐまとめ出版したことがあった。結局、説得に負けて「対馬の生物」の編集を引き受け、新しい原稿締切日をもうけ、締め切り日以後届いた原稿は掲載しないと執筆予定者に通知した。また学会会員だけの執筆ではものたりないので、私は対馬へ行ったことがある白水隆九大教授を訪ね相談した。そして大阪市立自然史博物館の日浦勇さんを紹介され、協力をお願いし、その本の目玉である対馬産既知昆虫目録と対馬の昆虫関係文献目録をパンチカードを使って短期間で作成した。もちろん、これは公務ではないので夜遅く帰宅してから編集し1976年に出版した。この本はよく売れ、今も古書店では高い値段がついている。編集責任者は著作権者の代表なのに、私に断りなく、長崎で誰かが海賊版が出したという噂を聞いたが本当だろうか?
これは押し付けられた学会の雑用だったが、若い頃に先輩を手伝うなど雑用を引き受けることも、後に思いもよらない場面で役に立つものだ。

4.熱研が燃えていた一番熱い日
 現在も続いている熱帯医学研修課程は熱研が考えたことか、医科研が先だったかわからない。文部省が予算を付けたのは医科研の方が早かった。当時、熱研を改革しようと三舟助教授(その時はまだ助手だったかも)が院生と助手からなる若手研究者の会を作り、片峰所長に報告すると助手はただの助っ人に過ぎない、一人前の研究者ではないと、一喝されたそうだ。
熱研には定期的に開催されている集団会があり、私はトキソプラズマが話題になりだしたころ、その会で「トキソプラズマの話」をし、またフィリピン調査が終わってからフィリピンの話をした記憶がある。演者は大体部門順に回し、自分が取り組んでいる研究の中間発表をした。海外調査隊が帰ってくると、隊員は集団会で報告させられた。
だから片峰先生は、若手研究者だけで、何ができるかと思われたようだが、そんなことで尻尾を巻く三舟先輩ではなかった。塚本、岩永、青木、他に名前を思いだせない1~2名の助教授を網羅して、所内の若者を対象に熱帯医学研修コースを勝手(かって)に立ち上げ、カリキュラムをつくり、院生・助手・助教授がそれぞれ分担して多分毎週講義した。私は次年度に大分医大に転勤するのに、仮想ライバル佐々さんと張り合っているつもりで、執筆しはじめた寄生原生動物の原稿は完成せず、講義どころではなかった。しかし岩永さんの脅迫に近い説得に負けて、結局、4回も講義をした。講義には熱研教授の他に医学部の糸賀教授ともう一人公衆衛生の名前を思い出せない教授が毎回聴講された。熱研内の教授を除く人材だけでも、立派に研修課程の講義・実習ができたのだ。細菌学助教授だった岩永は後に琉大教授になり定年後、沖縄に残り臨床に戻って診療していたが、今は兵庫県にいる。彼は毒舌で知られているが、弟子からは神様のように慕われ、私の知る限りでは、教え子が3人ほど教授になっている。この男のような熱血漢を熱研所長に据えて熱研を大改革しないと、熱研は衰退の一途をたどるだろう。この長いブログに書いたように、私は熱研全体が赤々と燃えていた創業期の活気に満ちた一時期を、助手として過ごせたことを誇りに思っている。だから熱研よ、一度死んで不死鳥のように生き返れという。


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1 コメント

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大変に興味深いです。 (嘉七郎)
2018-01-24 00:15:26
大変に興味深いです。もしよければ、大森南三郎先生の話を機会があったら書いてくださいませんでしょうか?厳しい先生と聞いたことがありますが、どのような先生でしたか?台湾の連日清が大森先生の名前を出してコメントをしているのを見ますが、日本で大森先生の話を語るお弟子さんが居ないのは残念と感じます。
また、大森南三郎先生が師事した森下薫先生についても、何かご存知であれば、是非記事にして頂けませんでしょうか?機会があれば、よろしくお願いします。

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