岩清水日記

「こうして綴ることで想いは深く掘り下げられ、岩清水が湧くように新たな命脈が保たれて、みずからを励ます」平松洋子 

絞首刑について、考えてみたことがあるだろうか。

2011年11月04日 | 司法と裁判員制度


大阪のパチンコ店放火事件1審が結審したニュースを聞いた。
違和感があったのは、死刑執行の手段(絞首刑)が「死刑にある程度のむごたらしさを伴うことは避けがたい」と合憲の結論だったことだ。

この裁判には、死刑の手段についても争われた。
この裁判の内容を深く知りたいと思っていたら、11月4日の朝日新聞社説に掲載された。

「裁判員と死刑 情報公開し広く議論を」と見出された記事を読んで感じたことは、これは広く国民的な議論がなされるべき問題だということだ。

弁護側の主張は「絞首刑は憲法が禁じる残虐な刑罰にあたる」という。
日本国憲法のどこにそのような条文があるか→憲法を読んでみた。

第三十六条  公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

これでしょう。裁判官は公務員だ。

世界の死刑制度の流れは、大きく変わり死刑制度自体がない国も増えているし、続けている国も絞首刑は減っている。

死刑制度を廃止する理由はなにか。
絞首刑を止める理由はなにか。

私たちはきちんと考えてきただろうか。
死刑という刑は人ごとだし、絞首刑という手段についても詳しく知らない。
知りたくもないということだろう。

これでは残虐性について考えようがない。

20世紀の映像を見ると中にハンギングされた遺体の写真がある。
20世紀の前半に公開処刑やリンチによく使われたようだ。
頸椎が衝撃で外れた写真に驚いた記憶がある。

記事にも「今回、オーストリアの法医学者が法廷に立ち、『首が切断される恐れがある』と話した。」
「元最高検検事は死刑執行に立ち会った体験から『正視に堪えず、残虐な刑罰に限りなく近い』と証言した」とある。

この証言を読む限り、絞首刑の違憲性についての結論を簡単に出すわけにはいかないのではないか。

「しかし裁判員制度が始まり、市民は直接、死刑と向き合うことになった。実態をつまびらかにしないまま、究極の刑罰について判断を求めることがあってはならない」という社説の意見に同意する。

広く論議されなければならない。
刑罰は復讐ではないのだから。
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「死刑が増加」 日本を問題視

2009年09月11日 | 司法と裁判員制度
国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」の報告書
朝日新聞9月11日記事

「日本の死刑と精神医療」と題する報告書で、日本はアジアで死刑執行数を増やしている2国の
うちのひとつ(もう1国はパキスタン)だと非難している。

問題視しているのは、
・公判時に責任能力の有無を問われた者
・拘禁中に変調をきたした者
・歩けなくなった高齢者
などの死刑が執行されていること。

06年からの3年間で死刑執行された32人のうち17人が60歳以上で77歳の執行は
他に類をみないという。

また、執行された死刑囚の情報が十分に開示されていない。
死刑囚の拘禁状態も劣悪で、事実上「社会から抹殺されている」

そして、日本政府に対し、刑務所の状況を国際人権基準に合うように改善する。
受刑者とその弁護士が、捜査、公判、上訴の期間におきて法医学的な検査を求める権利を
与えることなどを勧告した。

もちろん、民主党政権の課題であり、アムネスティもそのことを期待している。

※こうして認識を新たにすると、裁判員制度を国民が担うようになったいま、
考えなくてはならないことは、
量刑を決める場合、拘束される環境が国際的に見て劣っていることを前提にする必要があるということだ。

また、77歳の死刑執行が他に類を見ないということを日本人で知っている人はほとんどいないだろう。
もし世界ではそのような高齢者に刑を執行しないということを知らないで判決をすることがあれば
それはとんでもないことの片棒を担ぐことになる。

判決に係わるということは、受刑者の環境を知らないではすまされない。
判決とは受刑者にとって絶対的な権力なのだから。

※写真は大原美術館の中庭。建物は分館、工芸東洋館。こちらも見どころいっぱい。建物もいい。


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3例目 裁判員が語る。

2009年09月04日 | 司法と裁判員制度
青森の性犯罪の裁判は求刑15年に対して、判決も15年となった。
これは昨日の求刑に時点で予想された。

15年以上もでるかもしれないと思った。

公判後、裁判員の一人が実名を明かして、会見に臨んだ。
牧師さんということもあり、社会的責任を感じられたのだろう。

裁判員として裁判に参加し判決を作る。

法曹界に関係ない人々がどのように感じるか一つの見識を示してくれた。

「開かれた裁判を、いかに育てるか」というポジティブな視点があった。

私自身、量刑を決めることに危惧を感じている。

ただ、裁判や犯罪というものを身近な議論の場に載せるという役割は果たしつつあると思う。

その意味で、裁判員制度は成功してほしい。
成功に向けての建設的な意見を書くようにしたいと思う。

※写真は八ヶ岳。
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「裁判員の再記者会見」記事を読んで。

2009年08月09日 | 司法と裁判員制度
朝日新聞8月9日記事より:

61歳の男性裁判員の感想が掲載されていた。

「市民が刑を決める責任の重さは、判決から2日たっても、『頭から離れず、すっきりしない』という」

「判決を裁判長が言い渡す瞬間、法壇から被告をじっと見たという。『青ざめた印象の被告を
目のあたりにして、15年間の自由のない生活に入ると考えたときに、リアリティを感じた』

審理を通じて、刑事裁判に対する見方が変わったという。
『今までは犯人が憎い、厳罰も、と考えたが、必死に生きている中での不幸な結果が
事件になることもある』
被告の不幸な生い立ちや過去に犯した罪なども明らかにされた。
『酒を飲んで問題を起こしてしまう孤独な老人を、共同体の中でどう受け止めるのか』
という社会問題として考えを巡らせたという」

「量刑については、過去の類似事件より、検察側の求刑を被害者遺族の意見を参考にしたという。
議論する上での基準は
『今でもわかりません。弁護側が何年で妥当と思うかも、参考として知りたかった』

※この感想をお聞きして、もし私が裁判員で参加していたら同じように感じるだろうと思いました。
裁判員制度では、量刑まで裁判員が決めることになっていますが、なぜそのようになったのか。
この経過を知っておくべきだと思います。

想像するに、「有罪か無罪か」の判決だけに参加するのでは、膨大な手間暇をかけるに値しない。
量刑判断まで踏み込むべきだということになったのでは。
日本の場合、検察が立件した場合、ほぼ100%有罪になるので、有罪、無罪を問う裁判が
極端に限定されるという事情もあるでしょう。

しかし、量刑判断に踏み込んだ場合、過去の判例より、目の前の検察の求刑、遺族の意見こそが
重要と感じるのは、心理的に当然だと思います。

これが、素人的(=市民的?)反応でしょう。
しかし、よく考えてみれば、検察の求刑自体が過去の判例より導かれているわけで
この過去の判例は、裁判所の判決が減刑してくることを織り込み済ということになります。
すなわち、バランスをとっているわけですが、今回はこのバランスの一方のみを
はずしたということです。
そのはずした当事者にならざるをえない裁判員が、刑の重さを負担に思うのは当然でしょう。

裁判員が量刑まで決めるということには、まだまだ配慮が必要だと思います。

最後に、社会問題としても考える必要があるという意見(洞察)を深めるということがぜひとも必要です。
というのは、裁判員にとって、社会問題(社会的責任を含めて)をどのように量刑において
配慮されるべきかなど、判断ができないはずですから。

事件が複雑になればなるほど、判断が難しくなります。
手に負えなくなることでしょう。

現時点で明らかになったきた問題点(量刑について)の検討を至急進めるべきです。
全国で一斉に始まるようになれば、どこかの事件で大きな問題になるのではないかと考えます。

※写真は8月8日夕日その2。


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一審の持つ意味。裁判員制度スタート。

2009年08月08日 | 司法と裁判員制度
裁判員制度が「模範的」スタートを切ったとの報道を見聞しています。

時間をかけた準備。
裁判所、検察、弁護士間の連携。
裁判員の選定。

どのように打ち合わせがなされたのか、ほとんど知らないのですが、
不透明な印象を持ちます。

最近の私自身のものの捉え方を少し引いて見てみると、「経過が見えにくい」ことが
ひっかかりに繋がっているようです。

「どうして、このようになったのか」がわかる。
これが納得の条件になるようです。
「経過の透明化」です。

日本の官僚制度には、顔がないと言われますが、今回の裁判員制度についても
顔があるという印象はありませんでした。

「裁判員制度の顔」をつくることができれば私にはわかりやすかった気がします。
サッカー協会のチェアマンのような対外的な説明者です。
その場合は、特定の「顔」になります。
「顔」が特定できれば理解がはやまります。
「顔」には責任がともないますから、官僚制度にはなじまないのでしょうが、
ここをクリアしなければ、官僚は信頼されないと思います。
官僚は、「名前なくして役職あり」ですが、このバランスを変えていくことでしょう。

特に司法は、まったく顔がありません。
今や、お上の考えだから聞くしかないとは国民は思わなくなっているのではないでしょうか。

さて、第1回裁判員裁判の感想ですが、
特徴としては、
1.「劇場」化したと言われています。
「小泉劇場」という先例がありますが、こちらは演劇関係者から、劇場はあんなものではないと厳しく批判されました。
ですから、「理解されやすい裁判」という程度でしょう。

今まではまったく不親切でした。
裁判を傍聴しようとしても、裁判所のどの場所で行われているかもよくわかりません。
裁判所は、開かれている感じはしませんでした。
もちろん、他の役所もそうです。

その点、法廷の中はわかりやすくなったのでしょう。
評価する点です。

2.量刑が重くなる。
求刑が16年で、判決が15年でした。
裁判員にとっては、量刑の相場というものは知識としてはないといっていいでしょう。
ある裁判員の方は量刑に関してはまったくわからないと言われていました。
その通りではないでしょうか。
そのような状況におかれると、求刑の16年というのが大きな基準になります。
判決の15年は、多くの裁判員が求刑通りでいいと判断したのではないでしょうか。
1年短くしたのは、求刑通りではまずいという考えが採用されたからでしょう。
この結果に検察は「ほぼ完璧」といい、被告弁護側は「対応を迫られている」と
発言しています。

今後の経緯を細かく見ていくことで必要です。
そして、修正することも視野にいれるべきです。

さて、裁判員制度は、一審のみです。
このことがきちんと広報されているとは思えません。

被告側は控訴を検討しています。
控訴審では裁判員はいませんが、今まで以上に一審の判決が重視されることは
間違いありません。
被告側にとって、ますます厳しい裁判になるでしょう、

このような裁判のかたちがよいのか、私にはまだ判断がつきません。

最後に、裁判員の方が
「思ったほど負担にならなかった」
「被告の生育歴を知ると、判決をすることが重かった」と
かなり差のある感想を見聞しました。

負担を軽くしたいのは心情ですが、判決は被告の人生を左右する重い決断です。
刑務所の1年は、塀の外の1年とは比較にならないほど過酷と聞きます。

今は安堵感があるでしょうが、やがて重い負担がかかってくるようにも感じます。
裁判員の「その後」も知る必要があると思います。

※岡山市内総合グランド。スポーツの塔。この池の下には弥生時代の遺跡がある。
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欠落か。検察研究の蓄積。

2009年06月27日 | 司法と裁判員制度
午前中に県立図書館にいった。
「検察」について、学ぼうと思ったからです。
まず書籍を探そうにも日ごろ行かないコーナーなので、右往左往してあきらめかけて時にコーナーを見つけた。
棚一列程度。
少ない蔵書である。
一応、日本有数の図書館なのですが。

その数少ない中には読みたくなる本がなかなか見つからない。
やっと2冊ほど見つけました
なんと、著者はともに外国人。

『アメリカ人のみた日本の検察制度ー日米比較考察』 デイビッド・T・ジョンソン著
シュプリンガー・フェアラーク出版
『名もない顔もない司法ー日本の裁判は変わるのか』 ダニエル・H・フット著
NTT出版(こちらは日本の裁判官について書かれている)

参考文献(『アメリカ人のみた...』)を見てみても、日本語では業界誌や一般書掲載が多い。
書き手は現場の関係者やジャーナリストが多い印象。
社会福祉学などの書物の参考文献に比べると、研究者の書物が少ない。
研究者は少ないのだろうか。
また、外国人が興味を持つ日本の司法というのは、特別なものなのだろうか。
そのような話も聞く。

『アメリカ人のみた日本の検察制度ー日米比較考察』の参考文献は、
欧米19p、日本5p。
圧倒的に欧米が多い。
デイビッド・T・ジョンソン氏は、フルブライト奨学金で4年間日本に留学されているので、
日本語出版で重要なものは読んでいると考えて差し支えないでしょう。

本を少しずつ覗いているが、私の読解力でなんとかなるものか。
まことに心もとない。
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冤罪「足利事件」 菅家さんはなぜ有罪とされたか。

2009年06月27日 | 司法と裁判員制度
この冤罪事件は詳細に検証されなくてはならない。
その見取り図として、有効な記事が朝日新聞6月24日掲載されている(10版34面全面)。
構成
・裁判所の判断の根拠
・弁護側の無罪主張
・足利事件の経緯(年表)
・朝日新聞はどう報じたか
・「虚偽自白は誰にでも起こりうる」研究者の言葉紹介
・再審決定理由(要旨)

この記事は非常によくまとめられていて、事件についての基礎知識を与えてくれる。
この記事を十分消化することで、再審経過が理解しやすくなると考えている。

この冤罪事件の発覚に、「これはなんだ」と目を開かされた。

・刑事訴訟法第442条。検察官は再審に先立って刑の執行を停止できる⇒検察官の権限の大きさを知る⇒
検察の権限を知っておく必要がある。

・裁判所の役割⇒では裁判所の管轄はなんだろう⇒司法と法務の関係⇒裁判所の機能低下があるのでは。

・自白の強要⇒可視化しかない⇒捜査スタイルの根本的改革が必要(日本の捜査に対する不信を海外からよく聞く)。

・当時の新聞報道⇒警察・検察発表の鵜呑み⇒「菅家さん像」をつくる⇒異論の取り上げができない
⇒報道機関の組織(検証の仕組み作り)としての姿勢が問われる。

現在、新聞社自らの検証もかなり進んできたとは思う。
かつて「NHKと政治家」報道で揺れた朝日新聞だが、学んだことは大きい。
もちろんNHKも同様。
私自身は、検察と裁判所の「実態と問題点」を知っておきたい。
特に「検察は戦前との決別ができているのか」という視点で学びたい。

※写真はJR津山線。
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最近の疑問。検察庁と最高裁判所。

2009年06月11日 | 司法と裁判員制度
最近、国民がびっくりしたのは、菅家さんの冤罪事件ですね。
そして、「えっ」と思ったのは、検察庁が出所を指示したこと。

この場合、関係する機関は、行政機関である検察庁と刑務所。
そして、最高裁判所。

通常は裁判所の判決があって後、有罪、無罪が確定し、収監か、釈放が決まるように思っていた。
しかし、今回の冤罪事件をみると、未だ再審は始まっていない。
にも関わらす、出所できた。
裁判所の判断はないはずです。

そうすると、裁判所抜きで、行政機関であり同じ法務省である検察庁から刑務所に
指示命令が行き、検察の権限で釈放ができるということになる。

またまた、そうすると、服役中の受刑者は、受刑中も検察の権限下にあるということになる。
裁判所という機関は裁判のみを管轄し、その他のことは、逮捕⇒起訴⇒刑の執行⇒釈放と
いう一連のすべての行為が、検察の権限となる。
それも、業務独占である。

このように考えてよいのだろうか。
どなたか教えていただきたい。

裁判員制度が始まったというにも関わらず、我ながらお粗末な知識です。
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歴史に時効はない。ふたつの事件を考える。

2009年06月04日 | 司法と裁判員制度
ふたつの事件とは、
1989年6月4日の天安門事件。
2009年6月4日、日本で菅家さんが釈放された足利事件。

ともに当局は、国民にこの事件を忘れてもらいたいと熱望しているだろう。
それがかなわないなら、せめて私の任期中には、表立ってほしくない。
これが、システムズ(壁の人)の保身という習性である。

歴史には時効はないし、虐げられた人々は決して忘れはしない。
中国の日本への思いをみれば明らかである。
そしてイスラエルの思いも同じだ。

しかし、システムズの保身が優先されると、論理に一貫性は失われる。

人のことはよく見える。
自分のことは見えない。

中国とイスラエルのシステムズは、保身のために歴史に大きな汚点を残す。
歴史の厳粛な審判を恐れない指導者は、真の指導者ではない。

さて、足利事件である。
このような冤罪は起こりうるし、現実に起きている。
しかし、検察は保身に走ることができない理由があった。

導入が始まった裁判員制度である。
この足利事件が、再び裁ばかれることになれば、検察や裁判所の非が明らかになる。
長く人々の心に残る。
そのようなことは、これから裁判員となる国民に不安を抱かせる。
早く処理したいと思って当然だ。

明らかなことは、もし、このような冤罪事件を裁くようになるなら(冤罪は結果でしかわからない)、
裁判員は誤った証拠で判断するしかなくなるということだ。
検察が信頼できうるという専門家から出された証拠(類推)を、裁判員は採用するかどうかを
決めなくてはならない。
その際、真実というものは存在しない。
他人の意見(事実らしく思える)を採用するしかない。

たとえば、足利事件をどのように審議すれば、菅家さんを無罪にできるのだろうか。
「17年前にDNA判定を証拠として認めないと判断する」ことである。
どのように考えても裁判員には無理である。

検察は立件した事案は、無理をしてでも有罪にしようとする。
日本の有罪率は100%近い。
立件したら、有罪になることはほぼ確実なのだ。
そのような状況下で、冤罪事件を裁くことになったら、裁判員は十字架を背負うことになる。
菅家さんのように「絶対許さない」といわれることを覚悟しなければならない。
今回の冤罪事件は、国民にも覚悟を求めている。

現在の裁判の限界を認め、その上で裁判員として臨む。
そのような覚悟を持つこと。
その覚悟の必要なことなど、当局が教えてくれるはずがない。

自分で考えるしかない。

写真は、市内中心部の小学校跡。
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【秋葉原事件】 容疑者のことば。

2008年07月14日 | 司法と裁判員制度
1ヶ月目の言葉は「ネットのやつらを見返してやりたかった」。
この言葉を看過することはできない。
仮想の世界といわれるネットだが、ここでは、なにが仮想で、なにが現実なのか、
問うことが重要になる。

ネットの多くは匿名性の世界である。
匿名であるが、仮想ではない。匿名であっても、そこには人間がいる。
容疑者は、その匿名の人間からの書き込みの内容や、書き込まれないことへの
苛立ちを募られる。
ネットの上ではあれ、書き込み相手は、実在の人間である。
そして、ネットならではの歯に着せぬ表現がそこここに見られる。
容疑者自身も、自らの内面を赤裸々に書き込む。
その内面はネット以外では、だれにも話すことができない内容だ。
自らを赤裸々に語る容疑者は、自身の弱みをネットの他者に握られていることに
もなる。
弱いだけの人間ではないと見返してやりたい。

そのことが、凶行への引き金になったと容疑者は言う。
自らの弱みを明かしながら、書いたことは実行する人間だと証明したかったと。
しかし、携帯電話で書き込まれた内容と、現実に起こした殺傷事件は
簡単に繋がるはずのないものである。
このようなことで殺人が行われるなら、私たちの日常は戦場のようなものになる
だろう。

再び、なにが仮想で、なにが現実なのか、に戻る。

実は仮想というものはなかったのではないか。
仮想ではなく、思い込みではないか。
仮想と思われたものは、単なる増幅装置だった。
感情の増幅装置だった。
そして、増幅された憎しみと対照的に、極端に縮小された他者への思いやりが
あったのではないか。

自己愛の裏面である自己放棄。他者排除、思いやりということの放棄。
彼は、このような「自己肥大」の中で、現実には通用しない「彼の中の仮想の世界」に
入り込んだように思う。
「彼の中の仮想の世界」では秋葉原を歩く人々が、彼にとっての現実でなくなり、
単なる物質になってしまう。
殺意は抑制されることなく実行に移された。
その精神は、やはり尋常ではなかったといわざるをえない。

このように書いてきても、私自身、なにも納得できない。
空しい作業をしているようにも思う。
それでも、なにかできることがないのかと。

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【秋葉原事件】 1ヶ月を経過。3ヶ月におよぶ精神鑑定と...。

2008年07月09日 | 司法と裁判員制度
悲惨な事件から1ヶ月が経った。
マスコミ報道もサミットの前に一気に小さくなっていった。

警察に容疑者が逮捕された時点で、本人の情報は一切遮断されるわけで、
新たな情報が極端に少なくなるのはしかたがないが、
マスメディアによる事件背景への追求が、息切れしてしまうのは許されない。
「去る事件、日々に遠し」となってしまっては、被害者やご家族の思いは
報われない。また将来の加害者や被害者の出現を抑止できるものではない。

1が月目のニュースとしては、容疑者の精神鑑定(3ヶ月間)と、容疑者の言葉が
少し警察(検察)から流れた。
この容疑者の言葉は、「ネットの奴らを驚かせてやりたかった」という内容だっ
た。
この2つの内容はどちらも深い意味がある。
考えてみよう。

まず、なぜ精神鑑定を3ヶ月(短くはない)もかけるのかということ。
検察は、犯行時には容疑者に責任能力があったと確信しているという。
それなのに、いやそれだからこそか、簡易鑑定ではなく、本格的な鑑定をする。

これは、外堀から埋めていくという考えなのだろう。
まず不確定な要素はなくしていく。
そして、立件し裁判に持ち込む。
迅速な裁判を進める。
結審が早まる。
これが目的だろう。

今、法務省の最大の関心事は、裁判員制度参上(ではなかった)である。
裁判員制度下では、裁判は迅速を旨とせざるをえない。
市民裁判員には時間的な制限がある。
この秋葉原事件を、もし裁判員制度下で行うとすれば、一番問題になるのは、
容疑者に責任能力があるかどうかの判断である。
それが裁判員にできるかどうかだが、それは無理な話だと思う。
ならばどうする。
確固たる精神鑑定(そのようなものがあるかどうか)を事前にしておくことだと
考えた。
だれが?検察が。そしてその結果を信じてもらうことにしたい。
だれに? 裁判員になるだろう国民に。

しかし、精神鑑定を採用するかしないかは、裁判官の権限なのだ。
現に今の裁判官はそのようにしている。
では、裁判員はその判断をするのか、しないのか。
裁判員と裁判官の権限は違うのか。
私は聞いたことがない(精神鑑定の必要な裁判は裁判員は担当しないということ
なのだろうか。これも聞いたことがない)。

このように考えてみると、検察の考えていることは推測できるが、それがフェアな
ことなのかと問われると、そうではないと思う。
この結果は被告に不利にこそなれ、有利になることはないからだ。

なお、検察官の業務としての証拠調べの内容は以下の通り,
「検察官は,公判請求した事件の裁判に立ち会い,裁判所に証拠を請求したり,
証人尋問を行ったりして被告人(起訴された被疑者)が犯罪を行ったことなどを
証明します(証拠調べ)」
検察庁HPより。
この証拠の中に精神鑑定の結果も入ります。

私は先日の「ベストテレビ」を観て、裁判官の仕事がよくわかった。
なぜ、裁判官が裁判所から出なくても(現場に行かなくても)、判決が
できるのかもわかった。

裁判官は検察の公判資料が妥当かどうかを見るのだ。
十分信頼に足るし資料かどうか読み込むことが裁判官の仕事といっていいと
思えた。
そして、信頼できることが圧倒的に多いと判断される。
このことから、日本は99%以上、立件=有罪となる。
後は量刑の判断となる。時折、無罪判決がマスコミによって報道されるが、
これは例外中の例外なのである。

裁判官は、よほどのことがないかぎり無罪(検察無視)の判決はしない。
ほとんどの判決は、審査ということばの方が適当と思うのだが。

※弁護人の役割については言及していませんが、評価が低いわけではありません。
逆に非常に重要と考えています。念のため。

※写真は七夕祭。
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【秋葉原事件】 専門家から学ぶ

2008年06月21日 | 司法と裁判員制度
手元に2冊の本がある。
とても刺激的な本である。裁判員になる可能性がある私たちには必読の本かもしれない。
裁判員は重大な犯罪にも関わることになっている。
例えば、秋葉原事件のようなケースも関わるかもしれないのだ。

被害者感情を考えれば極刑という判決が当然と考えてしまいがちだが、
ことはそう簡単ではない。
そのことを根拠を持って教えてくれる本である。

1.「犯罪精神医学入門」 福島 章  中公新書
2.「少年犯罪の深層」  藤川洋子  ちくま新書

ともに2005年5月に出版されている。内容的には関連する部分があるが、お互いの
文章を参照することができなかったことになる。

1の福島章氏は、精神医であり、犯罪者の精神鑑定も行っている医療の専門家であり、
2の藤川洋子氏は、ベテランの家裁調査官だ。
立場は違うが、犯罪者心理を把握することが主要な業務と思われる。

1は、副題が「人はなぜ人を殺せるか」とあるように、主に重大殺人事件の
ケーススタディの試みである。池田小事件のT死刑囚の分析に半分以上のページを
割いている。この分析部分は現代人の必読書といっていいのではないか。
一方、2は、家裁調査官という仕事柄、触法少年の心の奥底を探る本になっている。
もちろん「犯罪者と脳」という章立てがあるように最新の研究結果も紹介されてる。
この2冊の入門書を読めば、犯罪者心理の分析がいかに困難なものであるか、
素人なりに分かる気がする。

この両氏に共通する考えは、今の精神鑑定制度がこのままでいいのかという問題意識にある。
世界の司法と日本のそれが、精神鑑定の判定の採用の仕方、そしてレベルにおいて
格差が生まれているのではないという。
特に、現役の国家公務員の藤川氏の疑問にはハッとする。
それは、司法の世界では著明な精神鑑定人(検察、裁判官に絶大な人気がある)の
診断が両者ともに納得できないということだ。
論理に矛盾があり、結果として死刑判決に繋がっていると指摘する。
その鑑定人がだれか、この二つの本を併読すれば判ることになっている。
もちろん、司法界では常識なのだろうが。

この本はかって読んだはずである。赤線も引いてある。しかし記憶にはない。
脳の不思議さ?である。
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【秋葉原事件】 他者を傷つけること。

2008年06月18日 | 司法と裁判員制度
他者を傷つけるということに関しても考えなくてはならない。
このことは、もちろん許されないことである。
それでも、人は他者を傷つける。
そして、そのことが正当化されることはまずない。
他者を傷つけたものの多く(一部例外はある)は、意識,無意識の違いはあるが
悔やむ日々を送っている。
当然、自己正当化はできるものではない。

では他者を傷つけるということを正当化されることがあるのか。
ご存知のように数多くある。
ほとんどの場合は、国家権力(法)からの要請だ。
その場合には壁(心理的抵抗)が低くなる。
例えば、職業でいえば軍人。死刑執行の刑務官(今の法務大臣の下では大変だろう)。
警察官。間接的だが裁判官。そして裁判員。
(裁判員制度では、私自身が他者を間接的に傷つける可能性がある)

軍隊では、人々を殺傷することが任務の中にある。
そこでは、本来人間にあるはずである殺人抑制の高い壁がなくなっている。
ただ単に命令されるから他者を攻撃できるかといえば、無理がある。
法の力だけでは、人は自らを正当化できない。
そのために「正義」という言葉が利用される。

しかし当事者である人間の内面では、「正義」とはいえ、人間の本性に反する行為
が受け入れられないはずだ。
元裁判官が自らの判決に生涯悩んでいるとも聞く。真摯な裁判官なら当然だろう。
戦争から帰ってきた人々が、今もなお当時の行為を語り始める。
60年間口を閉ざしていた自らの体験を赤裸々に語る。
正当化された殺人も、許されるざる行為だったと。

「正義」としても他者を傷つけてしまえば、加害者の内面は苦悩から免れることは
ないと思わなくてはならない。

秋葉原事件の加害者が、これから自らの犯行を反省することになるだろうが、
そこには、本来彼が持っているはずの利他愛の後押しがあるはずだ。
しかし、そのようにならないかもしれない。
反省しないケースも現実にある。
なぜ、反省しないか。
これは、さまざまな原因が考えられる。
このことを考えていくことは、人間の脳の器質にも関わってくることなので
今の私には手に負えない。

例えば、池田小事件。T死刑囚は今は刑場の露となっているが、判決当時、
彼の精神鑑定について新聞に掲載されていた。
鑑定人自身が、「鑑定できない」とお手あげ状態だった。
しかし人格障害であり事件当時には精神障害はなかったと書いてあった。

Tの口からは、最後まで被害者や遺族への謝罪のことばはなかった。
それは、謝罪の意味がわからないことでもあっただろう。
Tには、脳に器質的な変異があったのではないかという意見もある。
日本では、精神鑑定の採用も裁判官の裁量といってもいい。
最近も鑑定を否定していた判決があった。

このあたりのことも裁判員制度になると危惧されることである。
裁判員に精神鑑定ということが、きちんと理解できるのだろうかと。
もちろん、私にその自信はない。

写真はアジサイぽくないアジサイです。


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【秋葉原事件】 孤独と孤立

2008年06月14日 | 司法と裁判員制度
このふたつの言葉が、この事件のキーワードであることは確かなように思える。
わたしたちは、このふたつの言葉の差異を意識しているだろうか。
国語辞典(小学館)によれば、
孤独=ひとりぼっちでさみしいこと。
孤立=ひとりだけで、仲間や助けがないこと。

わたしたちの感覚でも、このふたつの言葉を使いわけているのではないだろうか。
孤独には、さみしさという精神面が強く感じられることに対して、
孤立は、仲間や助けがないというように、サポートレスな状況が感じられる。
秋葉原事件の加害者は、孤独であり孤立状態になっていたといってよい。
ひとりだという疎外感と仲間や助けがないという孤立感が重複していたのだろう。
このような場合は、他者の関わり(なんらかの支援)が必要な状態と考えてよい
と思う。

レビィ・ストロースの文章※
「人間集団を苦しめ、その本性を十分に実現することを妨げる様な宿命的な力、
他に類するもののない欠陥、それは孤立していることである」。
この文章を手がかりにすれば、孤立の深刻さを理解することができるし、
支援策も考えることができると思う。

精神的にも社会的にも孤立した状態に彼が陥っていたことは間違いない。
昨年の秋、一度は帰った青森という土地に再び帰るということはないと
思い詰めただろう。生活を続けるためには就職活動をしなくてはならない。
しかし短期間で退職を繰り返す彼を企業はなかなか受け入れなくなる。
面接時の対応に失望感も増したことだろう。

そして、「年だし」という言葉が書き込まれるようになる。
地方を点々とする彼には友人は出来にくいだろうし、現実にいなかったと
思われる。故郷の同級生にもいなかっただろう。
それでも、彼は「希望のない世界」を生きていかなければならない。
そのような状況(環境)が彼にはあった。
もちろんそのことと、今度の事件の間には大きな壁がある。
それでも、今の時代にはこの壁を飛び越える人間が多くなったように感じる。
そして、その飛躍へ繋がる「ジャンプ台」はなにだったのかと思う。
しかし、今の私にはまだ答えることができない。


視点を変えよう。
孤立の先には、自殺という着地点も待ち構えている。
他者に危害を与えて、加害者も命を絶つという人間も多い。
殺人ということでは同じである。

自殺の「ジャンプ台」に新しく硫化水素が登場した。
最近の傾向だ。このジャンプ台は魅力的にうつるのかもしれない。
具体的なイメージがわくのだろう。
同じような事件が続くことは、屈折した仲間意識ゆえでもある。
自殺では孤立(未来への絶望も含まれる)状態が軽減されれば、
「ジャンプ台」が低くなるのだろうか。
これは可能なように思う。
まずは、孤立という非人間的な状況に陥いる人を少なくする。
陥っている人を支援する。
そのような試みはさまざまな人が行っている。
「夜回り先生」は、そのような人だ。

ここまで書き進めてきて、もうひとつ私の手に負えないことに思い当たる。
私は、加害者が行ったのが大量殺人だということには触れていない。
この事件は、大量無差別殺人であり単純殺人ではない。
この両者の間にも大きな壁があるといわれる。
しかし、このあたりの話になると、専門家の中にも意見が分かれ
到底、私の考えの及ぶところではない。

ゆえに、私が書いていることは、この事件からヒントを得て、
日頃の思いを書いているレベルと思っていただきたい。

※、「福祉哲学」加藤博史著より

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【秋葉原事件】 他者との相互承認 

2008年06月13日 | 司法と裁判員制度
テレビのコメンテーターが秋葉原事件の特集の中で、ぽつりと
話したことばが、心に残った。
加害者の成育歴と職歴を放映した後である。

「彼はわれわれがつくった社会で育ったのだね」。

その番組では、加害者と同年代の若者にも取材をしている。
彼らは、「書き込み」については理解できる(50%)という。
そして、年をとることへの不安があるという。
(キャリアアップが出来ない中、年齢を重ねることは自らの市場価値を
低下させると思っているし、社会の捉え方もそうだ)

あるフリーターの方は、精神的に不安定になってときに、友人が
いなければ立ち直れなかったと話している。
彼女は、加害者の孤独を理解できていた。

2月から6月までの彼の書き込みは5000回という。
想像を絶する数字に思えるが、あの程度の文字数なら、
簡単に書き込めるだろう。異常なことではないと思われる。

このネットとの関わりと同時並行して、彼の転地と職歴を見ていくことも
大切だと思われる。
彼は、両親がいる街から18歳で飛び出し、各地を転々とする。
それは両親との距離を測りながらの転地だったのかもしれない。
昨年一度、地元に帰っているが、諸事情があって離れてしまう。
このことが非常に重要だと思われるが、今日はこれ以上この話は進めないように
したい。

表題の 「他者との相互承認」について考えてみたいと思う。
読書中の、「知的障がい者の成年後見の原理」細川瑞子、
「福祉哲学」加藤博史両先生の言葉から刺激を受けて。

まず、細川先生は、テイラーの考えから対話的人格概念について説明する。
「人間の人格形成が他者との絶えざる相互承認によって行われるという認識から
出発するのである。周囲の誰からも認められないことは、人間にとって耐えがたい
ことであり、人格は深く傷つけられる。
人間とは、その生涯を通じて、他者との対話によって、人格を維持し磨いていくの
である」

このことが、当然だと感じるのか、はたしてそのようなものかと感じるのかは、
今までの人生の過ごし方によるのかもしれない。
大病した人、多くの苦難に遭った人は、この言葉に深くうなずかれるのではないか。
次の文章は重い。

「他者を承認することができなければ、おそらく人間は自分ひとりで
自分を律することすらできないのではないか」

他者からの承認ではない。他者への承認である。
人は他者を承認することが前提になり他者から承認されるのだ。
人は少年期や青年期に自らの人格を育成していくのだが、
その中で「他者を承認する」ことを学ばなければならない。

では現実はどうだろうか。この視点がさまざまな教育環境にあるだろうか。
この視点があれば、劣等感に苛まれる少年や少女が育っていくとは思われない。

「他者との相互承認」とは、人格形成の育成過程に不可欠だが、
加藤先生が引用する被害者家族の山下京子さんの言葉は
とても重いし真実だと考える。

「自分という人間が内に抱え持っている『獣性』との闘争があって、初めて人間は
人間になれます。人間の心に中には、他人を痛めつけることを感じる魔性が眠って
います。自分の中のそういう残酷な命と闘って、これを征服して、人間は成長して
いくのです。親はそれを教える義務がある」

この文章の中の「獣性」ということばは、動物に対して失礼ではあるが、
このような罪の意識の止揚が、宗教の存在理由でもあると思われる。
人間には原罪意識が必要なのである。
原罪意識から「相互承認」や「社会貢献」は近いところにある。

唐突だが、社会貢献は貢献する人自身を救うと言われる。
社会に貢献することが、人格形成に繋がるのだ。
ならば、「彼」の環境のなかに、彼を社会貢献に向かわせるものはなかったの
だろうか。

その可能性は低いのではないだろうか。

※鉢に植えたバジルが顔を出したところ。
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