大阪府高齢者大学校 2013年度 考古学研究科

2013年度考古学研究科がスタートしました。
この一年を、楽しい学習の場にしていきましょう。

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纏向遺跡・桜井市立埋蔵文化財センター・橿原考古学研究所付属研究所

2014年03月02日 | 日記
  2月20日(木)午後から、纏向遺跡で発掘された建物群跡地の現場見学、当遺跡内容を知るために桜井市立埋蔵文化財センターへ、そして当遺跡で出土の多い東海系土器の特別展示をしている橿原考古学研究所附属博物館へ行ってきた。

纏向遺跡の概要
 最初に午前中の授業を含めて数回に渡り教えていただいた中身を織り交ぜながら纏向遺跡の概要を紹介する。
●纒向遺跡は、奈良県桜井市の三輪山西側の東西約2km、南北約1.5kmの一帯に広がる3~4世紀の大規模集落遺跡で、最古の前方後円墳とされる纒向石塚古墳(前方部を三輪山の方向に向けている)、卑弥呼の墓ではないかとの説もある箸墓古墳がある。
●出土土器の特徴として、全体量のおよそ15%が九州から関東にいたる広範囲な外来地域からのもので、その内の49%を東海系の土器が占める。
●遺跡の西部に位置する溝の埋土に含まれる花粉の分析から、中国由来のベニバナ花粉が検出されており、ベニバナは、染物や薬用に用いられていたと考えられている(庄内3式期(3世紀前半))。
●遺跡の東北部に位置する溝状の落ち込み遺構の中から布留式0式期(3世紀後半)に属する多量の土器とともに巾着状布製品(高さ約3.4cm厚み2.4cm)が出土している。内部の遺物の有無を確認する為にX線撮影したところ反応はなく匂い袋ではないかと考えられている。また、近辺で韓式土器が出土しており大陸との交流が想定されている。
●纏向遺跡の全貌については、レーザー測量(50万回/秒照射)に基づいた遺跡の古地理が復原されておりその中で旧河道域も判明している。また現在、河道岸の痕跡が田んぼの畦道として一部残っている。
●纏向川の河道(辻河道)中洲付近で、数年前卑弥呼と同時代の3世紀前半の大型建物を含む建物群が検出されており周辺は3~4世紀における水辺を選定しての神域の可能性が極めて高いと考えられている。この建物群は、東西軸に大型建物(柱穴が南北19.2m、東西6.2m)を含めて整然と並んでおり、大型建物を神殿と考えた場合通常神殿建物は偶数柱であるが出雲大社神殿同様奇数柱の9本・5本の特異性を持っている。
●建物群付近で土坑が検出されており、遺物の年代観から土坑の年代は庄内3式期(3世紀中頃)のものとみられ、その内容や土坑の北端が柱列のラインと重なる事などから土坑は、建物群の廃絶後に掘削され何らかの祭祀が行われたものと推定されている。遺物としては、当遺跡は内陸部にもかかわらず多様な海水魚が確認されている。{ワシ類・タイ科(マダイ・ヘダイ)・アジ科・サバ科・淡水魚の骨や歯}また、種実ではモモ2,700点以上、花粉では多量のサクラ属(モモ型)の存在が確認されている。
 この内容から、居館域の近隣にモモ・スモモの林が広がっていた事が推定されている。

いよいよ纏向遺跡へ
 午前中の講義を聴き、強行スケジュールのため、午後一番の電車でJR森ノ宮を出発、天王寺・奈良を経由してJR纏向へ
 着くと、さっそく駅のプラットホームから午前中の講義で教示してもらった「河道岸の痕跡が田んぼの畦道に残っている」という所を教えてもらった。
その所を探すのに懸命 
先生から「あの少し曲がったところやん・・・・・」「 ブルーシートの・・・・・」との声がかかる・・・・・・
「どれが・・・・・・」「どれが・・・」
少したって・・・
「あれかな・・・・・」 「あった・・・」との声・・・・・・・
 その当時の景色が一瞬今の風景に溶け込んでいく

 その余韻をもって2月9日現地説明会が実施された纏向遺跡第180次調査(大型建物を含む建物群より東側の遺構状況確認を目的とする調査)地へ
しかし、其の現場はすでに埋められ見学はできず。 残念!

 その後、以前発見された建物群跡地の現場へ行き、先生から説明を受けた。
 ここから望む三輪山は雄大すぎる。そして、このあたりにモモ・スモモの林が広がっていたらしい。
しばしのタイムスリップ

   

 纏向遺跡第180次調査資料によれば、「纏向遺跡辻地区には3世紀前半~中頃の建物群・3世紀後半~4世紀前半の建物と区画・4世紀後半の区画溝・5世紀末~6世紀初頭の石貼り区画溝が存在することとなり、各々が首長居館の一部で、辻地区には首長居館が重複して存在している可能性を指摘できます。」としている。
 もう少しゆっくりしたい気持ちがあったがまだ2カ所の見学があるために、ここでの滞在時間40分ぐらいで、バスで桜井市立埋蔵文化財センターへ

桜井市立埋蔵文化財センターへ
 先生から纏向遺跡を中心に講義内容・現地説明を踏まえての説明をしてもらった。出土遺物・航空写真・全体の地図等わかりやすく展示してあった。

         

 特別展では 「 HASHIHAKA ―始まりの前方後円墳― 」と題して
箸墓古墳出土の二重口縁壺型埴輪等の展示があった。
 その中で、レーザー測量に基づいた箸墓復元図があり、墳丘の真ん中当たりを横切る道は、付近の農民が昔、通り道として利用していた痕跡であるという。また、箸墓は、二重の周溝を持っていたらしくその外周壁に当たる痕跡が墳墓後円部後方に田んぼの畦道として今でも残っているらしい。いつか訪れて箸墓古墳の当時の威容を感じてみることにしよう。

 滞在時間30分ばかりで、タクシーで近鉄新ノ口(近鉄橿原線)へ行き、そこから電車で畝傍御陵前へ橿原考古学研究所附属博物館へ・・・・・やっと着いたという気持ちだ。

橿原考古学研究所附属博物館へ
 さっそく展示物のブースで先生の説明が始まる。
 今回の特別展 ―奈良県から出土している古墳出現期の東海系遺物―
 近畿の土器(庄内式・布留式)との相違点は、煮炊き具に脚台が付いた台付甕を用いる点や貯蔵具や供膳具の装飾性が高い点にあり、中でも赤彩されたパレス式土器やS字状口縁台付壺が有名である。また、それぞれの特徴を有する土器でも東海地方の小地域ごとにより少しずつ内容が違っており、遺跡から出土する東海系土器の特徴に注目すれば、その系譜が求められるようになってきているらしい。
 そういう基礎知識を持ちながら、それぞれの遺跡から出土した土器を見ていたが、外観的にはおおよそつかめるが詳細な違いが判らず、
 今までの内容で頭がパンク状態・・・・
 土器の知識不足もありダウン状態に・・・・・・!
 近くにホノケ古墳の石囲い木槨の模型展示があり、わかりやすくほっとした気持ちに・・・・・・
 地域交流・相対年代観での土器編年の知識の重要性を痛感した展示だった。

       
 
 全体を通して強行スケジュールであり疲れ果ててしまった1日であったが、数回に及ぶ纏向遺跡の講義の後の遺跡探訪であったので興味津々の内容であり、纏向遺跡の景色が以前と違う形に見え興味がますます沸いてきた一日でもあった。いつか、ゆっくりと訪ねてみたい。
ところで、祭殿と考えられている大型建物に関連し、石塚古墳の前方部が三輪山に向いていることに興味を持ち、太陽に対する想いを観点に少し調べてみた。
 石塚古墳と三輪山を結ぶ延長線上に田原本町に位置する八尾鏡作神社があり、この線上に立てば立夏・立秋に三輪山からの日の出を拝められるそうだ。ならば、その遥拝施設として石塚古墳が存在したとしたら興味深い。
 石塚古墳が上記施設だとするならば、太陽のエネルギーが一番弱まる冬至には当然何らかの遥拝施設が存在したはずである。それで冬至遥拝のラインとして知られているのが三宅町に位置する石見鏡作神社と三輪山を結ぶラインである。
 このラインを地図上に落しライン上の建物等に注目すると今回の見学地より数百m行ったところに春日神社があった。また今回の大型建物跡から東西軸を東へ数10m伸ばした所がラインとの交点になった。このあたりに遥拝施設があったのかもしれない?
 また、このラインと重なっているようにみえる旧河道岸跡が県営纏向団地東側に地図上で確認できた。
 そしてまた興味深いことに、弥生時代の集落遺跡である唐古・鍵遺跡内での冬至遥拝ライン上に田原本町立北小学校が位置していた。その付近は楼閣を描いた絵画土器の出土地でもある。もしかして、楼閣が遥拝施設という可能性は・・・・・想像を逞しくする。
(写真の上にカーソルを置いて、マウス左で1クリックすると画面が大きくなります)

                                 
(1班:Y・M )


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校外学習:府立弥生文化博物館 (2月13日)

2014年03月02日 | 日記

 今回の校外学習は府立弥生文化博物館で行っている「王の系譜-稲作の伝来からの前方後円墳の成立」の摂河泉シリーズ第1弾「和泉」という企画展へ行ってきました。では和泉とはどのような場所でしよう。
 古代、大阪は摂津、河内、和泉に分かれていて南西部に位置する和泉は、東は大部分を山脈が占め、西に長い海岸線を持つ。山から北西に流れる河川の規模は小さく河川が作り出す平野の面積は狭い。淀川、大和川という大河川が流れた広い平野をもつ摂津、河内と比べると生産力は低く人口も少なかったようです。

弥生時代前期         
 小坂遺跡―石包丁
 池浦遺跡―弥生土器壺
 弥生時代の始まりは、水田稲作の導入、貯蔵用壺の出現、各種の石斧、石包丁といった新しい磨製石器の登場により特徴つけられます。集落の規模は拡大し、水や土地をめぐる周辺集落との緊張関係も高まり、ムラを環濠で囲うようになったのだろう。又大規模な集団作業を指揮するリーダーの役割も大きくなっていった。

弥生時代中期          
 男里遺跡―イイダコ壺
 下田遺跡―銅鐸  
 和泉に根づいた弥生社会は、発展を続け、中期には特に大規模な四ッ池遺跡、池上曽根遺跡といった拠点集落が出現する。池上曽根遺跡では中期後半に最盛期を迎えその人口は500人、またはそれ以上とも推定されている。「漢書」地理志に描写される「百余国」に分かれたクニは、こうした拠点集落を中心とする地域的な弥生社会であったのだろう。

弥生時代後期          
下田遺跡―製塩土器
 観音寺山遺跡―鉄器 
 高地性集落
 弥生中期末、和泉だけではなく西日本の広い範囲で社会に大きな変化が起こり、それまでの拠点集落が消滅し新しい小規模なムラが増加する。池上曽根遺跡も例外ではなく中心部の大型建物が廃絶し、環濠も埋没する、人口も大幅に減りかっての面影は失われて行く。一方で、生活に不便な高台に防御性を高めた高地性集落が出現する。社会を激変させる原因は、大規模な自然災害か鉄をめぐる争いの激化だったのか、決定的な理由は依然謎のままである。

 もう一つ大切な事がありました。
それは、弥生時代最大級の大型建物がみつかりその規模と構造から神殿、倉庫、王の館、といくつもの説が出されているが、まだ定まっていないとの事ですが、この建物は弥生時代中期後葉のものであるが、使用されていたヒノキ柱(柱12)の年輪年代測定で紀元前52年に伐採されたものである事が明らかとなり、それまで中期後葉の年代は紀元後1世紀頃と考えられておりその定説をくつがえす事になり、およそ100年の年代の修正が必要になったとの事。
 

写真の一部は大阪府立弥生文化博物館「平成25年度冬季企画展『王の系譜-稲作の伝来からの前方後円墳の成立』の摂河泉シリーズ第1弾 和泉 リーフレット」より引用しました。

(1班 T・I)


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校外学習(社会の参加活動)  1月30日

2014年02月09日 | 日記
*堺市文化財調査事務所
少し雨模様の中、事務所に着きました。ここは、堺市内の遺跡を発掘調査し出土した土器などの、文化財資料を整理保管する機関です。ここで、遺物の洗浄、ネーミング、拓本をさせてもらいます。学芸員の指導のもと、作業をします。

*洗浄
SKT 1087(堺環濠都市・・1087回目の調査)
  バットに入っている千利休の時代の土器を洗います。付いている煤や、食物の痕跡などを落とさぬように注意して洗います。
「これ何?」の声が上がります。洗っている中に15㎝位の土器片に1㎝位の泥の塊が付いています。なんと便です。堺、千利休の時代の人の残した便!生きた人間の痕跡です。「ワアー」興奮のどよめきです。この喜びが洗浄する醍醐味なのでしょう。洗い終わったら間違えないように、分類された、バットにいれて、乾かします。

*ネーミング
 OOT-23 64(大野寺テンプル・・23回目 整理番号)
 洗浄した遺物を一片ずつに、番号を付けます。白のポスターカラーで版下筆で3mmの大きさの字で出土した瓦の裏側の端に書き入れます。絵の具の濃度の具合で、滲んだりします。相手は紙でなく、瓦だからです。筆を持つのも久しぶりの人も多く、この作業はなかなかに大変でした。

*拓本
 鎌倉時代、行基上人により築かれた堺の土塔を相手は整備する時に出た瓦の拓本です。瓦を製作する時粘土が木型から、外し易いように布をはります。
その布目が瓦に残っています。瓦の上に和紙を置き、水を含ませた脱脂綿で押さえ凸凹を浮かびあがらせます。乾かして、タンポに墨を付け、むらのないように、少しずつ打っていきます。
博物館や資料館に並べられている壺や甕などはこれら地味と思える作業(もっと複雑で難しい作業がある)の積み重ねで成ったものです。その一部を体験出来たことは大きな喜びでした。

*泉北すえむら資料館
陶邑(すえむら)は、「日本書紀」の「茅渟県(ちぬのあがた)陶邑」から名付けられました。古墳時代中頃から平安時代まで500年間、日本最大の須恵器の生産地でした。茅渟の海といわれた大阪湾を望む今の泉北ニュータウン一帯のことで、陶邑は須恵器を作る村でした。

*須恵器
 須恵器という呼び方は、1930年代から使われ始めました。陶器と区別するためです。須恵器は、釉薬を用いないのが基本です。奈良、平安時代、和泉国は、官窯として須恵器を都に納めました。

*アナ窯
 須恵器の色は灰色です。中国殷代の灰陶という焼きものです。5世紀前半、朝鮮半島から伝えられ焼かれ始めます。窯は丘陵の斜面に幅2m、深さ1.5m、長さ8m前後の大きさに掘り、側面に竹を立てて並べ、天井は地表面上に割竹で形を作り、粘土にスサを混ぜて作られた。そして、一度火を入れ乾燥させる。この様な半地下式のアナ窯は、1000基以上あったと推測されます。素焼きの土器は空気中の酸素で明るい土色になりますが、この窯では、焼成の終わりに焚口、煙だしを密封します。その為、空気があたらず、還元状態になり、灰色になります。

*須恵器の移り変わり
 初期須恵器・・朝鮮半島の陶質土器に似ています。しかし、窯によって形に器種に違いがあり、技術者が朝鮮半島の複数の地から渡 来したことがわかります。
第一型式・・・各地で斉一性が見られる様になる。日本化と言えるでしょう。
第二型式・・・須恵器の需要が高まり、量産されてきます。作り方もやや粗くなります。
第三型式・・・盤、皿、平瓶、など供膳用の器が作られる様になります。
第四型式・・・水瓶、鉄鉢、など金属仏具をまねた容器も作られ、円形硯も多くなります。
第五型式・・・須恵器の終焉、そして、シンプルなものへ移っていきます。ロクロの糸切り手法が見られ、量産されます。

*陶邑が消滅した
 500年の間、木を切りつくしてしまい、燃割竹でお料が手にはいらなくなったためです。陶邑の薪争いとして、平安時代の「日本三代実録」にのっています。ここ陶邑では焼かれなくなりましたが、六古窯といわれる、瀬戸焼、備前焼、丹波焼などは、平安時代の終わり頃から始まりました。須恵器は、陶器の母親と言えるでしょうか。須恵器について、資料館の方の詳しく説明を受けました。
(2班  M ・ M)



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校外学習 崇福寺 百穴古墳群方面

2014年02月03日 | 日記
2014.1.23

 抜けるような青空の大阪を出発し、長等山トンネルを抜けると大津京は曇天でした。時折しぐれる中しっかり登山装備の面々が元気に滋賀里の駅に集合しました。この辺りは縄文時代は琵琶湖の波打ち際であったそうだ。正確にいえば現在も地形は日々変化続けているのだろう。最初に参拝した八幡神社の境内には古墳の石と思われる大きい石がごろごろ頭を出していた。
大津市埋蔵文化センター
 神社参拝後 埋蔵文化センターを訪れ、出土品の展示物を拝見する前に、館長さんから6世紀前半~7世紀前半までの古墳に副葬されたかまどのミニチュア炊飯セットを見せて頂いた。

 主な展示品は、真野廃寺、上仰木遺跡、坂本里坊遺跡、穴太廃寺、大津城跡、青江遺跡の出土品であった。特に目にとまったものは、上仰木遺跡の美しい緑色の陶器の破片。中国磁州窯系の陶器「緑裕白地掻落牡丹唐草文梅瓶」12世紀~13世紀(大英博物館所蔵のものと同工品)や皿に描かれた墨書土器、堺のすり鉢。大津城の胞衣壺(あと産を入れた)

石造 阿弥陀如来坐像(志賀の大佛)
崇福寺跡から山中町を経て京都の北白川へ抜ける旧山中越え(志賀の山越え)で、大津側の入り口に位置する場所で旅人が道中の安全を祈願したという。
高さ 約3.5m  幅 2.7m  13世紀頃造られた。

東海自然歩道
東京の「明治の森高尾国定公園」から、大阪の「明治の森箕面国定公園」まで1300キロある道が通っている。

崇福寺跡
崇福寺は天智天皇7年(668)の大津遷都の翌年に建立された寺で寺跡は三条の尾根の上に残っている。
南尾根は、金堂・講堂の跡で白鳳時代の遺物は出土しない。(桓武天皇によって建立された梵釈寺ではないかの説もある)
中尾根 小金堂・塔跡
 東側の建物は塔あとで、基壇中央部の地下1メートルの所に塔の基礎があり、舎利容器は金銅製外箱・銀製中箱・金製内箱・金製の蓋をもった瑠璃(ガラス)壺からなっており、 壺の中には水晶の舎利三粒が納められていたそうです。
北尾根は 弥勒堂跡です。
 南尾根(金堂・講堂跡)から中尾根(小金堂・塔跡)への移動は狭い山道でした。事故なく完歩しました
壬申の乱によって大津の宮が廃都になった後も繁栄を続け、平安時代十大寺の一つに数えられるほどになったようです。

百穴古墳群              
 際川の谷口部の北側、南北150m、東西250mに広がる古墳群で現在は六十数基が確認されています。いずれもドーム状の横穴式石室を内部主体とした小円墳で直10m前後。被葬者は百済系渡来人、6世紀後半と推定されている。
往時、近江には百済系渡来人の一大中心地であった。飛鳥から奈良・京都へと政治の中心が移る中間に大津京があったこと、渡来人が住みついた理由などを辿る校外学習でした。 

午後は大津市歴史博物館見学
穴太遺跡のオンドル遺構 
7世紀前半につくられた物渡来人が暮らした跡がよくわかる遺構です。



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考古学研究科校外学習;八尾市埋蔵文化財調査センター見学

2014年01月28日 | 日記
日 時:平成26年1月16日(木)Pm2:00~3:00
テーマ:八尾の古墳時代             
はじめに:八尾埋文センターは秋季企画展として、「やおの古墳時代」『邪馬台国時代のムラとくらし』を開催中。この企画展では、邪馬台国が大和盆地南東部にあったという調査成果をもとに邪馬台国時代(3世紀初頭~4世紀前半)の八尾市域の集落動向を通じて、中河内地域の役割を紹介している。
{邪馬台国の女王 卑弥呼:239(景初3)年、魏に使いを送る。魏の皇帝は「親魏倭王」の称号と印綬を授け。銅鏡100枚、刀剣などを与える。卑弥呼247年頃に亡くなる。(魏志倭人伝より)}
見学:原田学芸員から説明をうける。

Ⅰ、邪馬台国時代の河内平野
1、河内平野は沖積平野であり、3C初頭には河内湖があった。北から淀川水系、南から大和川水系の河川が注ぎ、上町台地北端付近で西方の瀬戸内海と繫がる。また、河内湖に注ぐ河川は「小阪合分流路」「萱振分流路」「久宝寺分流路」が確認されている。遺跡はこの河川沿いに成立していた、この遺跡からは外来系土器が多数出土している。
これは全国各地の人達との交流が頻繁であったことが分かる。特に久宝寺遺跡では外洋航海が可能な準構造船(3C中葉)が発見された。 
当時の中河内地域が河内湖を介して水上交通の要衝の地で、西方からの到達点であり、また、東方の大和盆地南部の「人」「物」「情報」の中継地であることを物語っている。

Ⅱ、邪馬台国時代の市域のムラ{河内湖に注ぐ大河川沿いに成立した集落}
1、小阪合流路周辺の集落
大和川の本流で 旭ヶ丘付近で「萱振分流路」と分岐していました。この流域に多数の集落が成立していた。河川は川幅150m以上と想定され、内陸部まで海上交通が可能であり、港湾的な性格もあった。
また「刑部土抗」からは吉備地方の特徴を持つ大量の土器や最古段階の河内型庄内式甕が出土。
2、久宝寺分流路周辺の集落
久宝寺分流路は川幅が約150mの大河川で流域の自然堤防上、後背湿地を中心に集落が広っていた。(3C初頭~4C前半)
これらの集落から「吉備」「山陰」「播磨」「阿波」「讃岐」「東海」「南関東系」の他、朝鮮半島系土器類が出土。生産域としては、久宝寺分流路から導水した水路に沿って水田や畑がある。これらの水路に関わる堤防構築のために、朝鮮半島の起源を持つ「敷葉工法」が採用されており、これらの開発に渡来人の人々が関わっていた。ことが分かる。
3、邪馬台国時代のムラの成立
3C前半の集落は弥生時代後期後半から継続する集落は少なく、庄内期に成立した「庄内型集落」が大半を占める。この外来系土器の増加は初期前半段階に中河内地域で開発に携わった人々の多くが移住民であった、と思われる。
4、邪馬台国時代の墓制と墓域
この時代のお墓は居住域に接近したやや湿潤な後背地に設けられています。

Ⅲ.邪馬台国時代の土器
1、庄内式土器の成立
その存続時間は土器編年や年輪年代測定法などから概ね西暦200~270年前後の数十年と推定。河内平野を中心とする「河内型庄内式甕」と大和盆地南東部を中心とする「大和型庄内式甕」がある。共に体部内面にヘラケズリ技法を用いて薄手で丸底を志向する甕ですが、体部外面のタタキ方向に違いがある。(河内:右あがり、大和:右さがり)
2、河内型庄内式甕の変遷の説明
その形状から弥生形甕をベースとしたA型式と庄内式甕として確立したB型式がある。それらをあわせて「最古(成立期)-古(完成期)-中(盛行期)-新(衰退期)」の4段階の変遷がある。
{最古段階}
体部外面成形にタタキ技法を用いる機内第Ⅴ様式甕と吉備地方の内面ケズリ技法とが融合した折衷型の「A1型式」と連続タタキ技法で製作された河内型庄内甕「B1型式」がある。また、成立期の「河内型庄内式甕」には平底の底部で、胎土に「生駒西麓産」を示す「角閃石を含むもの」と、含まない「在地産」がある。
{古段階(完成期)}
 球胴化が進み底部が尖底を持つ「A2型式・B2型式」に変化。この期以降、B2型式段階で生駒西麓産が成立し、以後大半を占める。
{中段階(盛行期)}
 B型式は、さらに丸底化が進行し、体部中位以下のタタキをハケにより消すB3型式が主体を占める。
{新段階(衰退期)}
 B3型式に比べてタタキの原体幅が細くなり、タタキを施す範囲が上位のみに限定されてB4型式が主体。
 古墳時代前期前半の布留式古相に普及し、中河内地域では、「布留式傾向甕」や「布留式甕」と共伴する。
3、河内型庄内式甕の広がり
河内型庄内式甕が西日本各地に分布した。北は島根県、東は福井県、南は和歌山、西は佐賀県におよぶ。

Ⅳ.邪馬台国時代の土器の特徴と変遷
土器様式には「庄内式」・「布留式」がある。「庄内式」は3世紀初頭に成立。河内型や大和型と呼ばれる庄内式甕が出現。また、口縁部を中心に装飾を施す「複合口縁壷」が出現。「布留式」は3世紀後半に成立した土器様式で布留式甕や小形の精製土器類が中心です。
1、古墳時代初頭前半(3世紀前半の土器)
 特徴:河内型庄内甕の成立から、角閃石を含む生駒西麓産の「河内型庄内式甕の量産体制の確立。
2、古墳時代初頭後半(3C中葉)の土器
 特徴:河内型庄内甕B型式の量的増加や布留系甕の祖形となる、ハケを多用する甕が出現。
3、古墳時代前期前半(3C後半~4C前半)の土器
 特徴:布留式甕の成立や小形精製品種の小形器台、小形丸底壷、小形有段鉢が揃う。

Ⅴ.邪馬台国時代の地域間交流と外来系土器
中河内の各地で集落増加に伴って、他地域からの外来系土器が増加する。外来系土器には、山陰、吉備、摂津、阿波、讃岐、大和、丹波、近江、北陸、東海、南関東地方のほか、朝鮮半島南部のものがある。なかでも、山陰、吉備、東部四国(讃岐、阿波)地方のものが多く、河内湖を介した水運による交流が考えられる。布留式古相が7割以上あり、3C後半~4C前半の交流が盛んであった。
1、外来系土器の主な搬入地域と特徴
1)山陰系
  山陰東部(鳥取県―因幡・伯キ)、山陰西部(島根―石見)から持ち込まれた。庄内式新相以降のものが大半。
2)吉備系
  岡山県南部の足守川、旭川流域から持ち込まれて、庄内式古相から布留式古層にかけ継続していた。
3)東部四国系
  讃岐地方(香川県)及び阿波地方(徳島県)のものがある。搬入時期は庄内式新相~布留式古相が中心、量的には阿波系が大半。
4)その他の地域
  東海(愛知)近江(滋賀)その他。
2、外来系土器からみた各地域の足跡
1)阿波系地域と関わりを示す「10型中央土抗」が発見された竪穴住居。
2)渡来系の土器が発見された 渡来人のムラ(久宝寺、加美)。久宝寺遺跡で3C中葉の「台脚付短頸壷」と「把手付鉢」が出土。共に朝鮮半島南部系土器で、台脚付短頸壺が「軟質炉形土器」、把手付鉢が「軟質両耳甕」の特徴をもつ。土器の鉱物から、朝鮮半島南部から移住した人が久宝寺の土で作った土器であることがわかった。この付近一帯に渡来人のムラが存在したことが推定できる。
   
Ⅵ.邪馬台国時代の中河内地域の役割
1、外来系土器と中河内地域との関係
  土器は移住者の日常雑器や交易品の容器として持ち込まれたと推定。特に、小阪合遺跡や萱振遺跡で出土した、特殊器台、特殊器台形埴輪が中河内地域を介して邪馬台国の中心地であった大和に運ばれたと考えられ、初期の大型古墳に導入された 特殊器台、特殊器台形埴輪を用いた葬送儀礼の成立に中河内地域が関与していた可能性を示す。
2、中河内地域の役割
1)河内湖南岸に位置した、中河内地域は瀬戸内海や河内湖を介した水上交通の要衝の地として西日本一帯の文物集積地の中継点であり、また、大和川水系を通じて邪馬台国の中心部であった大和盆地南東部に向う玄関口でした。
2)中河内地域の遺跡群が邪馬台国時代に急激に増加するのは、このような地理的・交通的要件を備えた地域であったと考えられる。しかし、4C中葉を境として邪馬台国の衰退に連動して中河内も遺跡数が減少する傾向にある。以上から、中河内の遺跡群は、邪馬台国の成立期より参画して邪馬台国を支えた有力な国の一つであったと考えられる。

{コラム} 特殊器台から特殊器台形埴輪へ
『特殊器台は吉備地方で弥生時代後期後半に成立し、特殊壺と共に主に葬送儀礼に使用された祭器です。時期により形状や文様に違いがある。
一般的には「立坂型―向木見型―宮山型」と変化し「都月型」とよばれる特殊器台形埴輪 を経て円筒埴輪へと変化したものと考えられます。
邪馬台国時代に大和盆地南東部で築造された初期の大型古墳には、特殊器台の「宮山型」や特殊器台形埴輪の「都月型」が見られ、吉備地方を中心に発生したこれらの葬送器物が新たな時代の古墳祭祀を象徴する埴輪として変化したようです。』

入手資料:(参考資料)
1、八尾埋文センター 平成25年秋季企画展 展示案内「やおの古墳時代」。
2、八尾埋文センター情報誌「八尾・よろず考古通信」9号。以上。
(写真及び図は上記資料より引用しました)
3班 O・T


                     




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