蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

モラルの破壊

2017-04-12 | 国際
まさしくメリル・ストリープが危惧した事態だね。米ユナイテッド航空が力尽くで乗客を引きずり下ろし。

「衝動的な侮辱を公の舞台で権力のある人物が演じれば、それはすべての人々の生活に浸透します。なぜなら他の人々も同じことをしていいという、ある種の許可証を与えるからです」ストリープは、こう述べた(1月11日付け、東京朝刊)。トランプが選挙キャンペーン中、障害のある記者の動作を真似て侮辱したことを指している。

普段、乗客に愛想を振りまく乗員が仮面をかなぐり捨ててキバを剥き出したのは、心理的に「ある種の許可証」を与えられたからに他なるまい。

ついでに言うと、引きずり下ろされた乗客はアジア系かヒスパニックかアメリカ先住民か、どう見ても非白人だったけど、違うかね。

半世紀前、マーティン・ルーサー・キング師が「私には夢がある」とスピーチしたとき、彼は人種融和を通じて市民のモラル向上を訴えていた。その実現に向かってコツコツ積み上げてきた人々の努力が、トランプという米国史上屈指の悪逆大統領によって一気に突き崩された。トランプはモラルを破壊した。

この上、北朝鮮に弾頭ミサイルをブチ込んで東アジアの安定を力ずくで破壊したりなんかしないでくれよな。とばっちりを食うのは、こっちなんだから。
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ブラック・ユーモア?

2017-04-10 | 社会
筒井康隆が40年ぐらい前に発表した小説に『大いなる助走』というのがある。文壇と文学賞を徹底的に風刺したブラック・ユーモアの傑作だ。

前半、文芸同人に参加している金持ちの中年女性が出てくる。彼女は友人に対する見栄だけで参加していて文才などは元よりないから、作品を合評会でこっぴどく扱き下ろされる。

初めは平静を装っているが、同人たちの遠慮のない悪口にキレてしまい、逆上して差別用語満載の悪罵を吐き散らす。「カカカカカカ下層階級の。百姓の。……(作品の価値を)あなた方は生まれつき分かりません死ぬまで分かりませんエエエエエエエエ分かりませんとも」(手許に本がないので、記憶で書いてます)

これだけじゃピンと来ないかも知れないが、前後の文脈を合わせて読むとハラが痛くなるほどおかしい。初めて読んだ当時、電車の中など人前で不意に思い出し、こみ上げてくる笑いを抑えるのにオレは苦労したものだ。

これに対して、慰安婦像に関する「侮辱的」ブログ。あれは、笑って読める文章かね。

といっても、何もネトウヨ諸氏のいう反日親韓スタンスで筒井をバッシングしようってんじゃないよ。

正直なところ、対馬の盗難仏像返還停止以来、オレは韓国が嫌いになった。最近の韓国は、あまりに筋の通らないことが多い。大使館と領事館前の慰安婦像設置だって、嫌がらせ以外に建設的な意味があるとは思えない。

だから、筒井のブログがどれだけ韓国民の神経を逆なでしたか、元慰安婦の心を傷つけたか、なんてリベラルの常套句は使わない。

しかし「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」−−これって筒井が得意とする風刺といえるか。むしろ一昨年、シャルリー・エブドがムハンマドを侮辱した事件を連想させないか。

風刺は、弱者が強者に対抗する手段の一つだ。弱者が使うからこそ、広く共感を集めることが出来る。強者が対等以下の存在を風刺すれば、それは弱い者いじめでしかない。

フランス国内で少数派の移民は、強者ではない。韓国の元慰安婦は、日本に対する強者ではない。

筒井のブログを読んでオレが感じたのは、ユーモアではなく寒々とした精神の荒廃だった。川島永嗣の腕を4本にしたり、福島原発事故後に3本足の力士のマンガを描いたりしたフランス人を思い出した。

かつて筒井康隆は、オレの最も好きな作家の一人だった。新刊が出るたびに、飛びつくようにして読んだ。しかしどんな才能も、老化には勝てない。読むに耐える小説を書いていたのは2003年の『ヘル』ぐらいまでだ。『聖痕』なんてホント、箸にも棒にもかからない駄作だったもんなあ。

あのブログは「炎上狙いもあった」などと言ってるが、それは後付けの理由だろう。実のところ、筒井はトシのせいで自分が何を書いているのかさえ、よく分かってなかったと思うよ。
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「一線を越えた」

2017-04-07 | 国際
「毒ガスで無実の赤ん坊まで殺害した。アサド政権は多くの一線を越えた」って、どのツラ下げて言えるんだよ。白々しい。

そもそもオマエが「アサドの退陣にはこだわらない」などと声明するから、あの殺人鬼が調子こいて毒ガスをバラ撒いたんだろうが。

「私は非常に柔軟な考えの持ち主だ」って、要するに方針ブレまくりってことだろ。定見も哲学もないってことだろ。そんなクズが超大国のボスになってること自体が危機なんだよ。

「今の私には責任がある」? 笑わすんじゃないよ。責任を自覚してたら、なんで悪魔アサドを調子づかせるような声明を出せるか。オバーマが盗聴したとか、証拠もないツイートを垂れ流せるか。

これまで民主国家ではどんな権力者も、ブッシュのようなアホですら、メディアの背後にいる国民への配慮を忘れなかった。キサマは、その最低限の配慮を捨てた。悪しき手本を作った。おかげでこの国でも今村とかいうバカが、記者をうるさいと怒鳴りつけている。

権力者としての一線を越えたのは、トランプよ、オマエなんだよ。
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窮鼠反って……

2017-03-24 | 政治
ああ、おもろ。偽証罪で放り込むぞと脅してペシャンコにしてやるつもりだった証人が、意外にタフ。逆に政府に噛みついて酷い怪我を負わせてしまった。

「人払いして100万くれた」「想定外の値下げでビックリした」「政府職員からファクスが来た」「大阪府知事にハシゴを外された」

親分にケチを付けられたってんで、維新の議員が顔を真っ赤にしてアンタがハシゴから落ちたんだよとなじれば、「それ、質問ですか」。

もはや失う物がない人間は、強いよ。もうこうなったら何もかもぶちまけてやる、だもんね。屁理屈答弁をくり返す財務省理財局長の浅ましい隠蔽姿勢と、あまりにも対照的。ほとんど好感を覚えてしまった。

もくろみが裏目に出た与党側は大あわて。物証がない、ないことは証明できない、なんぞと汗だくの防戦だ。第一ラウンドは、どう見ても籠池側の圧勝だよな。官邸はいずれ、あらゆる手段を講じてあのオッサンの抹殺を謀るんだろうけどね。

いや〜、政権交代時以来の政治ショーを堪能しました。籠池がんばれ。
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アマリア・ロドリゲスの掘り出し物

2017-03-21 | 音楽
"Self-titled" Ducretet-Thomson DLP-1003
短命だったレコード会社デュクレテ・トムソンのライセンスで、超短命だった日本ディスクが発売した10インチLP。デュクレテ(と日本では呼ばれてるが、正確にはデュクルテだろう)は、フランスのラジオメーカーがやっていたレーベルだが、60年代初めに廃業した(倒産?)。日本では、ズート・シムズのLPでジャズファンに知られるレーベルだ。

デュクレテは店じまいしたとき手持ちの原盤をフランス・コロンビアに譲渡したのだが、コロンビアはそれらをさっぱり復刻しようとしない。やっと今世紀になって下記のパリ・ライブをCD化したほかは、スタジオ録音をいくつかコンピレーションに混ぜ込んだだけ。おかげでデュクレテ原盤のアマリアは、大半がレア盤になっている。このレコード(1958年、アマリアのデュクレテ初録音)も、その一つ。

日本盤はビクターのカッティングとプレスだが、当時の日本のレコード製造技術は低水準だったから低音に力がなく、フォルテが歪みっぽい。オリジナルのフランス盤が欲しいところだが、いまとなっては鳥取砂丘で一粒のダイヤを探すようなもんだろうなあ。

先日eBayに出品されていたので、すわ、と色めきたったが、よく見たらベネズエラ盤だった。

もっとも、昔の日本盤には珍ライナーという余録があります。「ファドは楽しい音楽です。酒を飲み、太鼓をたたいて踊りながら歌います」。よくまあ、これだけ口から出任せ並べられたもんだよ。

"Paris 1960" Ducretet-Thomson 310V026
何年か前にポルトガルでCD化されたから、デュクレテ原盤のアマリアでは比較的にレア度が低いが、LPである点がミソ。なんせポルトガルEMI(コロンビア)のCDって、どれもこれも技師の耳が狂ってるんじゃないかと言いたくなるような音質だもんね。ごく短期間だけ販売されたオリジナル・フランス盤LP。

アマリアの回想録『このおかしな人生』の巻末ディスコグラフィで、1957年のオランピア・ライブとされているアルバムである。正しくは、モンパルナスにあったミュージックホール、ボビノでのライブ。あのディスコグラフィは、データがなくて弱ったとか言い訳してるが、それにしてもミスが多すぎるよね。年代も間違ってるし。

会場の違いか(セーヌ左岸のボビノは、右岸のオランピアと違って気さくな下町のホールだった)パリの空気に慣れたのか、アマリアはよりリラックスして伸びのび歌っている。ホール・コンサートというより、クラブかカフェでのライブみたい。

"Amália of Portugal" Columbia 33CS5
アマリアの日本デビュー・アルバム。世界的にはセカンド・アルバム。当時、ポルトガルではまだアマリアのLPは出てなかったんじゃないかな。

50年代、巧みな音作りで定評のあったイギリス・コロンビアのカッティングとプレスである。栄光の緑金レーベル盤。「暗いはしけ」が異次元の高音質で入っている。"Son loucas !" の叫びが豊かな身体的共鳴を伴って、全然やかましくならない。息遣いと体温まで感じられる。いままでのアマリアのレコードって、なんだったんだ。

アマリアは若いころからマリアテレーザ・デ・ノローニャのような甘く優しい声を持っていたわけじゃないが、70年代以降のリイシューLPやCDの硬く険しい声は、リマスタリングやノイズ・フィルタリングによって作り替えられたニセの声だってことが、これを聴くとよく分かる。

ただし、ジャケット・デザインだけは映画『過去を持つ愛情』のスチル写真を使った日本コロムビア盤の方が雰囲気があって断然いい。その日本盤がいまeBayに出ているが、VGグレードで120ドルじゃ、ちょっとね。

ちなみに、eBayに出ている日本盤て、なんであんなに高いのかね。ヤフオクなら1000円でも買い手がつかないようなレコードが、50ドル、70ドルの値付けで出品されている。もちろん全部、日本から。先だっては、アマリアの日本ライブに500ドル、『コン・ケ・ヴォス』の白レーベル盤に400ドルなんて法外なぼったくり値段が付けられていた。

出品者はおそらく日本の工業製品に対する世界的な信用に便乗してるんだろうけど、日本カッティングの洋楽ポピュラー、特にモノラル盤は概して音質がよくない(理由はこちら)。あんまりアコギな真似してると、自分で自分の首を絞めることになるんじゃないかねえ。

"At the Paris Olympia" Columbia KL-5019
アマリアを語るとき必ず引き合いに出される有名なアルバム。LP、CD時代を通じて何度リイシューされたか分からない。

しかし、名演であると同時に音質が酷いことでも有名だ。現行のライス盤CDは特に酷い。ノイズ・フィルタリングで細かい響きを削りまくった上にコンプレッサーでピークを潰して見かけ上の音量を底上げするリマスタリングで、アマリアの声がキンキンギスギス。10分と聴いてられない。

その酷い録音が、この日本初回発売盤(日本コロムビアが60年前に発売した)だとウソのように快適に聞こえる。アマリアの声が少しも尖らず、温かくなめらかに響く。奥行きの深いホールの空気感が生き生き伝わってくる。このレコードで聴くかぎり、上記60年ライブよりも音がいい。

日本盤で? 上で言ってることと矛盾するんじゃね? イーエしないんです。だってこれ、プレスは日本でもカッティングはイギリスだもん。50年代の日本コロムビアは、洋楽のレコードを大体において提携先から輸入した金属原盤でプレスしていた。だから音質は英コロンビアの緑金レーベル盤と変わらない。

これ、捨て値でヤフオクに出ました。待てば海路の日和あり。

"No Café Luso" Columbia 8E174-40319/20
CDを手に入れたからもうエエわと手放してまい、あとで死ぬほど後悔したレコードの一つ。いつか買い戻さなと虎視眈々狙っていたら、ついに出てくれましたよeBayに。

イエ日本盤ならちょくちょくヤフオクで見かけましたよ。でもさあ、どうせ買い戻すならやっぱりオリジナルでしょ。

味気ないダブルジャケットの日本盤と違ってボックス入り。珍しい写真満載の解説書つきという、持ってうれしい見て楽しいセットである。レコードはこうじゃないとね。実用一点張りのCDじゃないんだからさ。アマリアのシルエットを描いたピクチャー・レーベルもうれしい。

ところで、アマリアってマリア・カラスと似てるんだよなあ。どこが似てるって、オリジナルのレコードとCDではまるで別人になってしまうところ。CDが悪いんじゃなく、レコード会社が古いアナログ録音をCDにトランスファーするとき関所のように通過させるデジタル・ノイズフィルタリング・プロセスがその元凶だ。

レコード史上最悪のこの凶暴なプロセスは、大なり小なり声の響きを破壊してしまうが、アマリアとカラスの声は特にダメージを受けやすい。それだけ微妙で豊かなニュアンスを含んだ声なんでしょうね。

CDに入ってる二人の声は、いわばカルシウム分が溶け出してスカスカになった骨粗鬆症の骨。

そういうわけで、カラスの初版LPはあらかた買い尽くしたから、いまはせっせとアマリアを漁ってます。
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