天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「にほんごであそぼ」について(男子力のポテンシャル、最後に暴走・罵倒)

2016-11-25 21:02:13 | 映画・テレビドラマなど
毎日、朝の条件が許すかぎり、NHKEテレ「にほんごであそぼ」から、「0655」、「シャキーン」に至るまで、一連の番組を愛視聴しておりますが、本日は、「日本語であそぼ」について言及します。
 この番組は、日本語の面白さや、近代の日本芸能や、文化を扱ったり興味深いところではあります。殊に、洋楽から唱歌に係るまであらゆる楽曲に対応し大きな鳥の模型を肩に乗せたシュールな姿(説明が難しくまことに超現実的な姿です。)の藤原道山さんの、尺八演奏は聞くべき価値があります。ほかにも、人形浄瑠璃の太夫の語りや、人形の操作など、こどもが見るにはきわめて貴重なものです。そのあたりは、演者も心得ているようで、底辺を広げるためにか(?) 大変前向きです。そのほか、着ぐるみ仮装の元大相撲のコニチャン(小錦)が歌い、幼児と遊戯をするのも、面白いものです。
先ごろのヒットを挙げれば、東京近郊のてまり歌なのか、「一番初めは一の宮、・・・・・・・・」から始まり、十番まで行くと地元の東京心願寺まで帰っていく、お寺社づくしの数え歌ですが、その選択といい、大変興味深いものです。日本中の名刹、鎮守を巡り、最後は自分のなじみ深い寺に帰ってくる、たぶんその歌詞は軒端遊びのパターンなんですね。われわれとは文化圏が違うので、私は生まれて初めて聞きましたが、関東圏の人によっては思い入れのある、慣れ親しんだ数え歌なのでしょう晩節の吉本隆明が、「○番目は、どこだったのかなー」と述懐していたといいますが、その状況や幼児期の 記憶への執着(?) が、感覚・体験的にも私にもよくわかるところです。
 この番組は、「恋そめしわれ」に代表されるように、ごく目立たない普通の男の子、女の子たちが、グループでレギュラー出演しているようですが、その年代間で差があるところも笑えるところです。最初はこどもこどもしていた筈のこどもたちがだんだん年を経て育っていき、わが子(孫)を見るようなその好ましいような変化がカメラを通して見えるようで楽しみでもあります。観ている我々にも、彼らの、「時分の花」のかわいさ、その良さがよく伝わってくるのです。私の個人的な好みでは、「恋そめしわれ」、「あさき夢みし」、の彼女たち(「ちーむ・をとめ座」)の行く末を観たいとおもいますが。
 このたびの、その評判がどうなのか今まで知らなかったところですが、新たに、ちょうど思春期前期の変声期にあると思われる、男ども三人の歌及びダンス「華麗に(もてる男の)鼻濁音(びだくおん)」が始まっています。てるみくん、あもんくん、かいとくん、「ちーむ☆ひこぼし」の命名で、現在、とても膾炙しているようです。私、このたび、日本語に鼻濁音が在ることを、初めて知りました。殊に西日本では、使用する文化がない、ということも聞きましたが、ところで、昔、「がきデカ」のこまわり君の、「ん、がア―」という一発ギャグはありましたが、あれも何を隠そう鼻濁音なんですね、彼は決してもてなかったが、しもぶくれがかわいいこまわり君であったわけですが、先の、てまり歌と同様に、私の知らなかったことはいくらもあるものです。
 しかしながら、「恋そめしわれ」、「あさき夢みし」のヒットで、「をとめ座」に押されるばかりであり、いまいち精彩を欠いていた、例の男組3人組(途中であと2人加わる。)、彼らの奮闘と、彼らが操る鼻濁音が、美しい日本語でない、というつもりは毛頭ありませんが。

  (ここから暴走します。)

 しかし、なぜ、曲名が「華麗に鼻濁音」なのか、よく理解できないところです。はっきり言って、私のような長州人としては聞き苦しい。もし、鼻濁音といえばフランス語、フランス語をしゃべるのはフランス人、フランス人はよくもてる(ワンダフルラバー(優秀な愛人)ということですかね。)、良くもてるのには鼻濁音、といった、安易な連想の八艘とびにつながっているのだろうか、と勘繰ってしまう。

 昔、昔、その昔、近所のおねいさんに、「アラン・ドロンを見ると、体の芯までしびれる」と教えていただいたことがあり、「いい男とはそういう人なのか」とこども心に思い、その時の呪縛からか、「サムライ」(最近有料BS放送の放映があったぞ、寡黙で禁欲的な殺し屋の生と死を描いた印象に残る映画でした。)という映画を、最初に見たとき、「何とかっこいい」と、こども心(小学校高学年だったと思う。)に思いました。俗にいう「苦み走ったいい男」というやつですかね、その後も、昔、日本のブランド既製服、「ダーバン」のアラン・ドロンによるコマーシャル、「ダーバン、セ、レレガンス、デュロ、モデルヌ(Tの責任聞き取り)」(1974年、昭和49年)で、その時、是非、ダーバンのスーツを着たい、と強く思ったわけです。一張羅のダイエーのスーツしかなかった私も、人並みに、良いスーツを着て、もてたかったのでしょうね。
 しかし、その後は、女性にもてる鼻濁音の男を知らず、フランス人にそんないい男もいないじゃないか、と思っていました(知らないだけかもしれないが。しかし、そうとも思えない。)。そして、当然、極東の日本人と同様で、デブもいれば、ハゲも、不細工な奴もいるわけですが。
 ただ、一人、後年日本にも来た、「言葉と物」の著者のミシュル・フーコーのその魁偉ともいうべき巨大な禿頭と造作の大きい容貌とその存在感にびっくりしました。これも知識人なのだと、その時、やっぱり、異人さんというのはいる、と心底思った次第です。

 手元に本がなくなり、うろ覚えになってしまいますが、良い時代の内村剛介が、彼の「生き急ぐースターリン獄の日本人」という著書で、ロシアラーゲリ(強制収容所)での、極限状況における様々な人種の生態を描いた一節があり、先進国人である筈のフランス人は、食い物に汚く徹底した自己主義であり、むしろその鼻音も聞き苦しい、むしろ、後進国の(ラーゲリに入れられた)ロシア人の方が、おおらかで、人間性も豊かである、とも書いていたと思いだします。
 それからまたずっとあと、例の「シャルリ騒ぎ」を経て、こいつら(その扇動と盛り上がり方を見てフランス国民の多くも)、結構バカじゃないか、と私は思ってしまいました。
 要は、外見など大してあてにならないのは確かなことなのですが、しかし、かの、エマニュエル・トッド氏は、写真で見ても外見もいい男であり、そのうえ自立した知識人としても社会学者としても十分に買える人であります。しかし、彼が肩入れする、「自由」、「平等」、「博愛(実は同胞愛)」が、現在の世界規模で、どれだけ有効なのか、疑義がないわけでもないですが。
 
 結局、私には、フランス人が過剰に自負するように(嘘とは言わせないぞ。散々見てきたからな。)、たかだかフランス民族語の「鼻濁音が、ステキ」とはあまり思えないわけです。こういうのを、悪しき「共同幻想」というんじゃないのですかね。
 深読みすると、現在この番組のMCを勤める、シャンソン歌手、美輪明宏(1935年生まれ)氏の影響下の作られた歌かなと思ってしまうのです。彼の、政治的・社会的発言を私は評価しません(彼をモデルにした野田秀樹作の「MIWA」という劇はとても良い出来だったが。)。
 彼の生育した時代はいざ知らず、我々の世代では、欧米系の国々に対する幻滅で、さすがにコンプレックスは希薄になったように思われ、また、短大・高専・大卒の人口割合が40%を超えるようなこの国で、逆に一部の文化人のように欧米国家が社会・国家的にも、理念的にも、先進国であるという虚妄の偏見に、今更、すがる必要などないじゃあありませんか。
 多くの日本人が「どこの民族国家も、ちょぼちょぼや」、と思っており、鼻濁音云々は、同様に英語において「もてる男はRとLをきちんと分けてしゃべれる」という安いテーゼと似たようなものです。他国民にとっては、等しく陳腐で無意味な見解である、という意味で。

 「日本語は美しいぞ」、私は、田村隆一や、鮎川信夫、あるいは吉増剛三の良い詩は、きわめて美しいと思う。古典でも、あるいは樋口一葉の「たけくらべ」など、その朗読だけを聞いていても、慰藉と、民族語日本語の美しさをわれわれに与えてくれる。最初に小学校の学校放送で聴いて当時心底感心した覚えがある。もともと「にほんごであそぼ」は、古き美しい日本語を、若い世代に継承する試みではなかったのか、と思うところです。
 また、明治以降の近代の先人たちの苦心と多大な労苦による達成で、ランボーも、ファーブルもこなれた日本語で読めることはありがたいことです。

 当該楽曲は、当該番組に登場していた、三味線演奏家、「うなりやベベン」の作詞ということになっています。この曲は、「ことばあそび」、お遊びかもしれない。しかし、もし、彼が、おフランス人、おフランス語に、過剰の意味を感じ、迎合しているのであれば、そんな質の悪い共同幻想には早くおさらばした方がいいですね、また、このたび、そんなつまらない伝承(悪しき共同幻想を)を、反復継続することで、次のまた次の世代に継承しない方が良いですね、と思います。

 私、EU内部での、フランス政府及びそれに同調するフランス国民の身の処し方、グローバリズム全肯定に深く苛立っています。そして、一般的に、欧米国家の、バイアスのかかった考え方と、それを意識化することもなしに、他の文化圏の違う民族国家に、独自文化・宗教を貶め、その価値観を押し付ける傲慢さに同じく深く苛立っています。
 私は、今後とも、愚かな日本政府が過剰に迎合した、TPP条約を通じた、一部、米欧金融資本の、国境を超える暴虐に対し、引き続き、闘っていきたいと思います。

 ところで、男の子3人組、思春期前期の、「ちーむ・ひこ星」、てるみくん、あもんくん、かいとくん、彼らが操る鼻濁音が美しい日本語でない、という議論はしません。それは、受け取る恣意でしかないような問題でしょうから。

 しかし、もう一つ、この良質な番組において、一言申し上げたい。
 宮澤賢治の素朴な詩(?)「雨ニモ負ケズ」に乗せて、その辺のフツーのおっさんに、自分の生きざまを、「素朴に」、自己肯定させるのはやめろ、あれは見苦しい。
 今後、あんな調子で、そこらあたりのおっさんが、あちこちの街角で、ストリートミュージシャンのように、つぶやきだしたらどうするのだ。非常に不快である、あれは男の病だ。賢い(あるいは徹頭徹尾リアリストである)女どもは、あんな無様な真似は決してしない。
 おやじよ、長くつぶやくのはブログだけにしろ、それがまっとうなやり方です。

 かつて、それぞれの方言で、あの「雨ニモ負ケズ」を原典のとおり朗読させる試みは、あれは「にほんごであそぼ」らしく面白かった、はずなのですが。

 これからも、「にほんごであそぼ」のスタッフの方々の、様々な、優良な取り組みを期待しています。

思い出すことなど(小学校の卒業アルバムをのぞいて)その6 その②

2016-11-18 19:06:28 | 日記
アルバムに戻ります。
わが、6年2組クラスは、女性のT村先生の担任ですが、このクラスは、5年生から6年生、同じメンバーで過ごしたクラスで、自分では居やすいクラスでした。担任は、40歳の半ばくらいの年齢でしたが、折り目正しい、信賞必罰のタイプの方でした。当時こちらも、少しは団体生活に慣れたかもしれず、前よりは要領よく小学校生活を過ごしていました。ただ、こどもは現実家で冷酷なもので、成長期を通じて知らず知らずに付き合う友達が変わってくるんですね。このクラスにおいても、時間を経て、そのまま今も付き合っている友人もほとんどいないところです。
特に覚えているところは、T村先生は、読書が、あるいは生徒に読者をさせるのが非常に好きな先生でした。自分自身で色々な教科を教えることに自負心を持っていたと思われますが、たぶんあの先生は、国語が一番好きであったのだと今でも受感されます。それに併せて、生徒に対し、読書感想文を書くことが大いに賞揚され、たびごとに、先生の朱書で長文の書き込みがされ、生徒に帰ってきます。私自身、運動神経も鈍く、特に得意な学科もなかったわけですが、読書体験と読書感想文だけは非常にほめられ、大変うれしかった覚えがあります。私のように、くすんで見えるような子でもほめて、伸びるところは伸ばす方針だったのでしょう。こどもにも自負心が必要なんですね。当時、それをきっかけに学校生活が楽しくなっていったこともたしかです。
当時、何かのきっかけで、クラスの幾人かで、休日に先生の家に行くこととなり、皆(5~6人)でバスに乗り、先生の家に行かせてもらったことがあります。にこやかに迎えてもらいましたが、ちょうど、来訪した際に、立派な書斎に通され、授業の準備でしょうか、きちんと勉強されているようで、その広い書斎と蔵書の多さに、こどもながら圧倒されました。こども心に、初めて見た、知性ある人の姿だったんですね、今はよくわかります。
生涯、現場を選ばれ、最後まで、子供たちと向き合い担任として生き方を貫かれたよう
です。なかなか厳しく、狷介なところもありましたが、個人的には、「読書」への意欲を教えていただき、長く教わり、今思えば「恩師」といえばこの方かなと思いますが、常に、きちっとスーツを着こなされ、生徒に対し、背筋を伸ばした方でした。そういえば、このたび私たちの卒業アルバムの寄せ書きに、「本を読む生活を」と書かれていたことをこのたびアルバムの寄せ書き中で現認し、「やっぱりな」とほほえましくも納得しました。
小学校もクラブ活動を行う、ということとなり、担任の影響ではないですが私も「読書クラブ」に入りました。「読書クラブ」で、クラブ活動に係る私自身のうろ覚えの記憶を書きたてれば、当時、学芸会で、「大岡さばき」を、生徒の脚本で上演させてもらい、登場人物の魚屋が、とおりすがりの町娘の役で出演した下級生の女の子に、「ねーちゃん、いい脚してるな(だったと思う。)」と呼びかけ、「いやーね、エッチ」と答えさせる、アドリブを入れ、とても受けました(児童にですが)。創作劇を許していただいたT村先生には、ちゃんと、前思春期のユーモアを理解していただいたですね。むしろ、当時、男ども皆で、ちょっとかわいかったその下級生をなだめ、納得させるのに苦労した覚えがあります。
その後T村先生は残念ながらすでにお亡くなりになっていますが、退職後、大活字の書道を始められたそうであり、そういえば、その後、市美展出展とか、私も広報で見たような覚えがあります。水彩画も、音楽も得意で、小学校教師としての自己の目標とそれに向かう努力を怠らなかった方であり、かえすがえすも、何故、20数年前の同窓会で、なぜもっと長くお話しできなかったか、と、今でも後悔しています。しかし、今思い起こせば、その当時、何を話すべきか、考えても話す言葉がなかったんですね、もう少し時間をもらえば、その過ぎ去った時間をほぐすことは可能だったかもしれませんが、私のようなものではつい余計なことをしゃべりだしそうです。
自分の社会生活のある側面で、自己の仕事の責任以上に他人に「親切」を施すことはできる、しかしそれは瞬間瞬間のものかもしれない。実際のところ、良い出会いとはそのようなものかもしれません。小学校高学年で出会ったかの先生は、今思えば、私の社会的自立を助けていただいたんですね、生徒との間で、節度のある、また狎れないを許さないその態度を思い出すたび、「T村先生」と聞けば、今でも、背筋を正す思いがします。

高学年では、直接指導は受けませんでしたが、6年1組のT田先生に、小学年低学年時
の担任となり、その授業では、社会科が最も楽しかった覚えがあります。当時は、うちの父親の腰が定まらずあちこちで働き、今思えば、我が家に父親不在の時期で、生まれて初めて、男親から、今思えば規範意識を教えていただいたように思います。この先生の指導のもとに、私は生徒の最前列のその前の特待席に一人で座って(座らさらせて)おりました。そのうち、普通の席に戻してもらったはずですが、それが「多動性」だったのか、どこか家庭的な、あるいは人格的な欠損があったのか、それはやっぱりわからないところです。それは、それなりの熟練度が高い教育者だったらわかる問題なのかもしれませんが。
T田先生は、当時、まだ、20歳代の熱血青年教師でしたが、いわゆる宗教文学者「宮澤賢治」に傾倒され、学芸会で、「シュプレヒコール「人間の手」」というのを企画され、「手、手、人間の手」と、舞台から身振りを加え、全員で客席に叫ぶ、前衛劇のようなその劇は、私にとって今も強い印象があります。宮澤賢治の作品というのは小学生に多大な影響を及ぼします。その「過剰な倫理観」のためですかね。そういえば、高学年で、T村先生に、相互で鑑賞を求められた友人たちの読書感想文は、「よだかの星」、とか「なめとこやまの熊」とか、宮澤賢治の著書を扱ったものが多かったですね。
20数年前再会を果たした同窓会の際(まだ先生は現職だった。)に、「宮澤賢治がお好きなんですか」と私が聞いたとき、T田先生は「なぜだかわかりますか、彼は、農民文学者だからですよ、私も農民ですから」というのが、その答えでした。その後、私も、宮澤賢治フリークを続け、後年、実際に花巻市の「宮澤賢治祭」まで行ったこともあり、やっぱりこの先生にも、多くを負っている、とその時思いました。
T田先生について、私の最も大きな思い出は、小学校低学年時に、クラス全員で自転車に乗って、砂利道を一時間くらいかけて、K市、米川、高垣(こうかけ)の秘境、白雲(しらくも)の滝を観に行き、滝つぼのそばで、飯盒炊さんをしてとてもうれしかったことであり、私は、当時、忙しい親に一緒に遊んでもらった記憶がほとんどなく、大変うれしかったことを、今も忘れられません。「父」は厳しく、また、同時に、優しくあるべきなんですね。当時のT田先生も、まだ、30歳前の熱血教師でしたが、たぶん周囲の反対を押しきって実行されたであろう、その行事をしていただいた恩義とか、人としての親切のようなものは今も忘れられません。今思っても幸せな思い出であり、やっぱり、ありがたいことに、先生方は私たちの人性で、一生涯「先生」であり続けるのですね。


 思い出すことなど(小学校の卒業アルバムをのぞいて)その6 その①

2016-11-17 16:32:02 | 日記



このたび、友人のご厚意で、小学校の卒業アルバムを見る機会をいただきました(自分のものは亡失)。
これを機会に、当時の小学校の現状(?) を振り返ってみたいと思います。

私たちは、昭和42年度のY県K市立H小学校という田舎の小学校の卒業生です。したがって、昭和43年3月にH小学校を去ったこととなります。
まず、当時の時代状況を考える必要があるかもしれません。こどもが感じる程度でしたから、その認識など大したことはないかもしれません。しかし、昭和37年(1962年)皆が入学したころは、まだまだ多くの家庭は貧しかったと思います。まだ、テレビの普及もままならず、自家用車もっている人は少なかったはずです。しかし、決して裕福でもなかった我が家にも、小学校高学年までにはカラーテレビが入り、自家用車も入り、クーラーは入らなかったにせよ、実感としての貧しさはだんだんに薄れていき、右肩上がりの時代に入って行ったのでしょう。
中井久夫という臨床精神科医の本(「「思春期について考える」ことについて」(ちくま学術文庫))を読んでいると、「学童期のこどもは徹底的にリアリストである、大人が顔を赤らめるほど、世俗的な利害や価値を信奉し(ということであれば自己利害のみと、冷徹な計算で行動し、場合によっては権謀術数も辞さない)」、と触れられていましたが、良く納得できました。表向きは小心、純情で温和そうに思えるかもしれないが、こどもながらそれだけじゃやっていけない(学校で生きのびていけない)から、嘘もつくし、卑怯な真似もする、まだ十分に人格も形成されない時期はそのようなものでしょう。その後、中学校時代とは、心身共に表現の乏しい時期(灰色のような、凡庸で、沈滞した、周囲との折り合いも悪い状況)が続く、とも言っています。自分のことながら、確かに、灰色の時代ではあったと今は思えます。しかし、世相を考えれば、同世代と話すと、いかに万国博覧会(1970年、大阪吹田市千里丘陵において開催)の印象が大きいかが実感を持ちます。私たちより少し上の世代である山下達郎が歌う「アトムの子」ではないですが、科学技術の恩恵で、2000年はじめくらいは普通の庶民が宇宙旅行をできるかもしれないくらいは信頼できる、などと漠然と考えていました。社会的な階層を超え、平等をもたすものは、科学技術の進展の恩恵くらいのもの、と当時皮肉に考えていたわけではありませんが。
アルバムに戻ります。
最初に、職員室棟と、講堂の左方向から見た写真が載り、花壇とあの懐かしいソテツの植え込みが見えます。遠景ですが、新築間もないあの輝ける学校プールが見えます。職員室棟は、木造モルタルの二階建てで、決して新しい建物ではありませんが、職員室に呼ばれたこと、その時の不安と期待のないまぜになった、当時の自分の気持ちにいつでも戻れるような気がします。かの棟の二階には、当時は学校として努力してその充実を目指したのでしょう、小学校にはもったいないほどの規模の図書室がありました。後年、中学校でその図書室の貧しさに失望しましたが、図書室が開いていないときは、やむを得ず、廊下側のガラス戸を無理やり開いて、高い書架を乗り越え、忍び込み、自由気ままに利用させていただきました。当時を思い出せば、ゴンチチの「放課後の教室」のメロディがいつも流れてくるような気がします。窓を開けるわけにもいかず、閉めきった部屋で、黄色く変色した偕成社などの黒表紙の本の紙のにおいや、書架から剥離した乾いたニスの独特なにおいが今も立ち込めているように思われます。当時、莫大な数の物語を読んだと思いますが、今、少しも覚えていません。おお、前思春期よ、わが図書室よ、わがアジール(避難場所)よ、その校舎の写真の右上には、気取った(私の主観)K校長の写真が載っています。
続いて、当時の教職員の集合写真となります。
教職員全体で23人です。当時私の学年だけでも、2クラス90人くらいであり、単純に考えて全校550名弱として、この人数で学校経営をしていたのですね。30人クラスなど夢のまた夢ですね。6学年、各2クラスとして、最低12人の先生が必要になるとして、また、23名のうち、校長、教頭を含め、男職員が8名しかいない、というのにはびっくりします。人数配分を見ると当時もまた、激務だったのですね。
私事を申し上げれば、当時は、先生の人事異動による入れ替わりも少なく、品さがれることながら、「覚えていろよ、くそばばあ」という先生も写っていますが、それはもう、鬼籍に入られた方(あるいはお浄土へ旅立たれたかもしれず)であり、個々の皆様においても、恩讐の彼方ということになりましょう。私以外の生徒には別の感想があるかもしれません。しかし、あの方には小学校の教師は向いていませんでした。
当時、ほぼ2年間単位の持ち上がり(教師・生徒とも同じ単位で学年が上がっていくこと)であり、生徒としても合わない先生になれば地獄の苦しみであったかもしれないが、それよりも厳しい状況は、当時、生徒たちの個々の家庭の中でも不断にあったかもしれないことであり、こどもにも悩みの種はいくらもあるのです。
私たちのクラスは、学年2組であり、男性のT田先生と、女性で学年主任のT村先生と二人でしたが、ひいき目で言いますが、お二人とも、毅然と、りりしく立たれています。
続いて、6年1組の集合写真です。総員で43名です。
さすがに懐かしい顔が並びますが、幼稚園以来ずっと顔ぶれが変わらない同級生も多く、学童期の顏つきを見ていると懐かしい思いです。我々の担任学年2人と特殊学級(当時はそういっていた。)の担任、校長、教頭が付き添います。児童たちのなんとそのかわいいことか、卒業後、中学校・高校と相まみえることとなりますが、ここまで時間が流れ、年齢がかい離すると、おー、偉い、偉いと、抱き上げたくなるようなところですね(嫌がるでしょうが)。
余計なことですが、早熟な子の内にはそのうちそのまま目立たぬままになってしまう子もいるし、思春期のくすみを経て生まれ変わるような子もあれば、その後も見た目では目立たぬ中に埋没していくようなこどもたちもいるのですね。天の配剤というか、良し悪しも別にして、誰にとっても人性とはままならぬものです。
続いて6年2組の集合写真です。総員が46名であり、やはりより懐かしい友人たちです。
思えば、良いことも、悪いこともあった。本音で遊び、戦い、嫉妬し、いじめ、いじめられたような記憶があります。その後の時間と自分自身による記憶の改ざんを経ても、明らかに、こいつにはいじめられたな、と思えるクラスメートもいます。今思えば、彼も、明らかにネグレクトの状態であり、どうも、同様な状況であった、私の存在が気に障ったのだと思われます。中学校に入ったころは、その対応が明らかに変わって友好的になりました。こどもの知恵ではあるでしょうが、こちらも、やむを得ず、それなりに応酬していましたので、それだけのことですが、今になって彼らのかかえた問題が視野に入るのはありがたいことです。当時の友人のうち、金持ちで家に新しい雑誌や、おもちゃがある家にはみんな参集し、場合によっては、それらを借りたままにしようということもやっています。あいつを仲間外しにしようとしたことも、その反対もあります、合従連衡というのですか、仲間内での駆け引きはいくらもあることです。当時皆貧しかったせいか、おごる、おごれよという仁義も、至極普通のことであり、それらを踏まえると、私自身、良い子の範ちゅうでは決してなかったことですね。中井久夫氏がいう、小学生は「徹底したリアリスト」というのがよくわかります。
私は、小学校低学年の時、注意力散漫ということで、皆の席の最前列の前に、さらに一人別に席を与えられて座っていました。今思えば、注意力散漫というか、「多動性の障害」ではなかったかと疑います。
それが長年の疑問であり、晩年の、それなりに老いた母のそばで、ボケ防止のためとも思い、何度となく昔語りをさせ残った記憶を総ざらいさせていましたが、さすがに私の「多動性の障害」については聞けませんでした。その後、母にとって家が落ち着いた際の、私に対する反動のような過干渉を思えば、それどころではなかったのであろうと思われます。ただ、幼児期に、育児怠業だったのか、かつて、亡父母がひそかにそのような話をしているときに立ち聞きしたことがあり、今も疑問が生じることではあります。
実際のところは、誰もが、そのような話はいくつもかかえているのはごく普通のことかもしれません。
しかしながら、私が、教室の後ろの席に座っていれば、何らかの意味で、学級運営の支障となったこと、あるいは個別の指導の必要なこどもは教師の監視が行き届くところに席を設けるでしょうから、その意味であったかも知れません。これも、先にお会いした当時の恩師(?) に聞きそびれました。もしその時、勇気を出して聞いてみても、答えてもらえなかったかも、あるいは忘れられていたかもしれないところですが。
今思えば、小学校の中学年(3年、4年)の頃は、私はほとんど宿題をやっていませんでした。担任の「くそばばあ」が、大嫌いだったこともありますが、公然とひいきをし、手間のかかる子を毛嫌いしていた教師に、よく教室退去を命じられ、外の砂場に座っていました。それに居直るほど確信犯ではないですが、前夜のうちにどうしても宿題をやる気になれなかったところです。耳をつかまれ無理やり教室を引っ張り出され、小心者で皆の前で恥をかくのはとても嫌だったのですが、結局毎晩家では何もせず済ませ、それがなぜだか、今もわからないのですね。

私が、今も忘れられない夢は、月曜日の朝一人で目覚め、寝過ごし、必死に学校まで走り続けましたが、学校では全校朝礼の真っ最中で、全学年が整列する中、さすがに入って行けず、校舎の隅に隠れてやり過ごした記憶で、その時図書室で借りた「シャーロットのおくりもの」(後年シャーロットというクモの物語であることを教えていただきました。)という本を握り締めていたことをよく覚えています。その後、この夢を何度もみて、こども心に悪夢とはこんなことを言うのかと思われました。
思えば、ろくな小学生時代を過ごしたわけではないのですが、卒業写真では、平然と、澄ました顔で写真に写っているのは奇妙なものですね。

いしいひさいち(「ののちゃん」の作家)に触発され、過去を振り返ること その3

2016-11-11 21:33:07 | 時事・風俗・情況
「いしいひさいち」のアルバイト体験の話を読んでいると、トイレ清掃業務が得意で、吐しゃ物にまみれたトイレ清掃はもちろん、血のついて注射器が落ちていた、とかいかにも、大阪らしい(?) エピソードがたくさんありますが、彼の「バイトくん」においても、町工場の下請けの補助(家内工業)とか、建設現場の下請けの下請けとか、中には手配師のトラックで出勤などともありました。厳しい環境のアルバイトで、バイトの日当が筋肉痛のサロンパス代に足りないというのもありました。その迫真力には及びませんが、引き続き、私の貧しいバイト体験について触れさせていただきます。
 私のバイト先は、クラブの先輩に紹介された学校そばの大衆食堂でした。そこで、皿洗いと出前持ちを1年間やりました。そこは、家族経営で、経営者夫婦と、かの丹波篠山(?)京都北部から丁稚奉公のようにやってきていた、従業員の人が二名おりました。私の勤務シフトは夕方からで、繁忙時間の3時間程度、そこの定食メニューがまかないにつき、時給は750円くらいで、当時とすれば、学生部のあっせんアルバイトと比較しても、決して低いものではなかったと思われます。当時、おじさん、おばさんの年齢に頓着することはなかったけれども、たぶん経営者は50歳代であり、社会人になった息子がおりました。彼は、早く帰った時は、家業の手伝いをしており、こども時代から、手伝いを行い家業に貢献する大事な息子であった、と推し量れます。
 当該職場は、京都の定番の路地(本来京都では「ろうじ」と発音します。)のように、水にぬれた真っ黒いモルタルの土間が店の奥までどこまでも続き、私は、定食やどんぶりものの汚れたどんぶり鉢や小皿を、大きなシンクで洗っておりました。全部で三槽に別れ、最初に荒粗い、洗剤槽、最後に湯を張った槽が設置され、最後に皿、茶碗などの打ち上げ場がありました。繁忙時の食堂はやっぱり修羅場のようなものです。冬でも熱く、当時はまじめな学生でありましたので、ガスの熱気や湯音で大汗をかきながら必死でやっていました。洗剤は、四角の業務用の大缶入りのもので、粗悪で連続して使うと手が荒れたものです。
 出前は、近所の雀荘という貸卓業の店がほとんどでした。学生と、勤め帰りのサラリーマンがほとんどでしたが、最初に言われたのが、貸卓の白い綿布の上には、「出前品を絶対に置かないでね」、ということでした。60歳を超えた夫妻と、化粧気のない顔で髪をひっつめにし、爪を長く伸ばしていた(しかし手入れをしていなかった。)地味な若い女の子が店番をしていました。後で、アルバイト仲間から、その女の子が娘と聞いていましたが、あるときたまたま出前にいったとき、代打ち(メンバーの足りない場合に替わりにゲームに入る店のサービス)をしており、普段の目立たぬ仕草(意識的なものであったかもしれず)や姿と比して、その落差に感じ入った覚えがあります。その後、私の後輩の男が、カレー焼きそばを白布の上にぶちまけてしまい、食堂のおばさんにも、わざわざ、注意を受けました。出前のたびに、広告紙に織り込まれた釣銭を持たされましたが、そのやり方にも深い伝統を感じます。アルバイト学生に対しても、使う立場での伝統があるんですね。勘定を間違えたとき、うぶな私の後輩は、「弁償します」と弁償したらしいですが、そこは商売人で、おばちゃんは、きちんと受け取ったようです。
当時のテレビのコマーシャルで、和装の下駄ばきの女の子が、「おとうちゃん、おとうちゃん、きはったえー」、と、待ち人の訪いに気づき、石畳の路地を駆け抜けるシーンがあり(菓子の「京えくぼ」だったか)ましたが、同様にこちらも薄暗い、モルタルの張られた路地ではあったけれども、同様に、路地から路地へ岡持ちを持って駆け巡っておりました。
 当時の、同僚のフルタイムの方は、それぞれ30台と、40台であり、それぞれ、「将来は、のれん分けをするから」というような約束で、中卒(?) から(本人にはなかなか聞けませんでした。)勤務を始め、職場のヒエラルキーからいうと、バイトくんの私が一番下ですが、私がいないときの出前は30台の職員が行くようで、「出前に行って帰ってこない、Tさん呼びに行って」、と立ち読み中の本屋まで呼びに行かされたこともあります。気のいい人で、「予備(自転車)があるから、サイクリングに行こ」と、何度も誘われました。その上の序列の人が、客の注文に応じ、調理する人であり、雇われ人のトップになります。その方も温和な方でありましたが、大型バイクを乗り回し、非番の時は裏の雀荘で大勝負をするとのことでしたが、あるとき、「(君たちは大卒でええやろが)僕はS学会の指導があり幸せや」と信仰歴を教えてもらったことがありましたが、折伏まではありませんでした。
いずれにせよ、京都の商売屋の伝統は強固で、きちんと職業的分担がおかれ、相互に深く結びついています。いざとなれば、階層トップのおじちゃんが昔取った杵柄で調理やなんやらこなす筈です。かりそめのバイトくんが横はいりするようなものではないんですね。しかしながら、われわれの目からみても、Yというその大衆食堂が今後も隆盛を迎え、長続きするとは思えず、殊に若い方の店員さんが、やる気のないそぶりであったのも、将来への諦めがあったのかもしれません。さすがに京都にも、ファストフードのテェーン店が展開しつつある時代で、別の折に書きましたが、当時京都進出の四条河原町のマクドナルドでは新しい文化の到来であるかのように、アルバイト生にも面接(選別があったんですね。)がありました。
 出前持ちの際にも、雀荘の客(バカ学生)に、「お前が、そばに来たから負けた」とか言いがかりをつけられたり、いつも仕事帰りの大学職員が「兄ちゃん、素そば(かけそば)もってきてや」とか、いろいろな事件・経験がありましたが、今思えば、興味深いアルバイトでした。しかしながら、夏場、バイトが終わると、銭湯に行く時間がぎりぎりになり、いけなかったときは、せつない思いをしたことがあります。
 しかしながら、幸せなことに、「バイトに行かなければ即食えない」というところで、バイトをやらずに済んだのは幸せなことです。たぶん、余裕資金はほとんど、本に替わってしまいましたが、その本の中にも、いまだに読んでいない本があるのは、当時の自分に申し訳ないことです。
 いらざることですが、例の、百田尚樹が私と同時期に在学しており、彼はすでにテレビなどの放送作家なのか働いていたということであり、キャンパスで出会うことも定期試験の時くらいしかなかったかもしれないところです。しかし、試験の時にはピアスをしたり、薄化粧をしたりしていた男(当時はとても珍しかった。)もいたので、ひょっとしたら、すれ違いもあったかもしれないところです。
実は、私、「永遠の0」が出版されたとき、生まれて初めて、ファンレターを出したことがあります(今まで秘密にしていましたが)。さすがに、返事は来なかったですが。



再々々度考、06:55(引き続き「さらば・・・」シリーズ(第4弾)について語る。)その2

2016-11-08 21:16:54 | 映画・テレビドラマなど
私、引き続き、ウイークデイ午前6時55分からのEテレ「06:55」を愛視聴しておりますが、先ごろから、06:55(Eテレの朝番組)を見るたびに、「さらば・・・・」シリーズ(失恋シリーズ)の新バージョンの宣伝流布が行われており、なかなか人気あるシリーズであることが納得できます。
 このたびは、11月7日、月曜日より再スタートしましたが、高円寺(東京都)、豊橋市(愛知)、宝塚市(兵庫県)と移動し、西進するのであろうかと考えておりましたが、一転して東征することとなったようです。このたびは、女の決定的な離反とか、男の失意というドラマ性は排除され、地名の面白さに、主眼が移されたようです。
 最初から彼は、青いレール付きのツーリングワゴンのような車に乗っています。二人でドライブに行くくらいであるので、緊密の度合いは今までよりは大きいようです。プロローグ(序章)で彼は、その車の中で別れを告げられ、色白で髪の長い彼女(北海道出身かどうか暗示するのですかね。)はさっさと降りてしまいますが、ここは八戸港のフェリーターミナルのそばです。この航路は、北海道の苫小牧往復のみらしいですから、たぶん「北へ帰って」いくのでしょう。

「戸(へ)」という語源は、昔々、鎌倉時代に軍馬の生産地で戸は棚のある牧場という意味だそうです。その管理をしやすくする為に平泉から近い順に一と、ニと名前を付けていき八戸が八番目で八戸の地名の由来になったとの事です。現在は、一戸から三戸、四戸がなく五戸から九戸まであります。昔は四戸が八戸の近くに有ったそうです。又、別な由来では鎌倉時代には八戸までしかなく盛岡藩のお家騒動で脱藩した方々が九戸、十戸を作ったのとの話もあります。それではその十戸は何処に存在するかと言いますと十=とお、戸=の、と呼ばれ現在の遠野になったとの由来もあるそうです。(Yahoo知恵袋ベストアンサーより)

 さすがに、東北地方、岩手、青森とつづけば、電車移動とは無理であろうということで、彼も車を用意するのですが(「わ」ナンバーかどうか確認できなかった。)、彼が前回宝塚で拾った鳩笛が、フロントミラーに吊り下げられています。男は、やっぱり、良かれ悪しかれ過去を引きずるのですね、このたびも、お守りの効果が出なかったのは、彼にとっても悲しいことですが。
 いずれにせよ、「戸(へ)」を探す彼の探索は始まります。一戸から、四戸を除き、九戸までたどります。とうその発見に目を丸くした彼も、少し幸せな気持ちになります。広大で緑豊かな東北地方は、牧場、草場が多いという地勢的なまた歴史的な伝統があるんですね。四戸(しのへ)といえば、忌み言葉か何かで、残らなかったのですかね。十戸(とおのへ=とおの)という呼称は、決して悪くはないですが。「知るは楽しみなり」というキャッチコピーがあり、あるいはその反目で「知の悲しみ」という言葉もありますが、どうも、何分か、「知の喜び」はあるであろうが、若いうちからそれだけしかないような日常であれば、お気の毒ですが、彼もまた最後にぶすっとした、暗い顔に落ち着きます。

 ムード歌謡グループ、ロスプリモスによる、今週のご当地ソングは、「さらば八戸」、ということになっています。まだ、二番の歌詞の披露はありませんが、相変わらず、手堅く、上手にまとめてくれます。
 彼の衣装も、変わらず、白いハイネックのセーターと黒のジャケットと上下、プラスチックの黒いロイド眼鏡をかけています。
 どうも、今後ますます、彼の悲劇の様相より、地名の面白さにシフトしていくようです。
 本州の果てまで行ったので、今後は、北海道とか、大逆転して、NHKが受信料徴収率向上(今はとても悪い)を目指す、沖縄とかを目指すのでしょうか。
 「さらば八戸」の二番の歌の披露を含めて、行き先を、見守りたい、と思います。