天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

思い出すことなど(同窓会に出席しての所感、併せ「夕日を追いかけて」について) その4

2016-10-12 21:07:27 | 日記
 先の体育の日に、中学校卒業の同窓会がありました。
 多分、今回で参加が二回目であろうかと思いますが、世間一般の常識(でいいですが)から比べ、少ない(根拠はありませんが)ようにも思いますが、よくわかりません。
 当初、私は、就学のためY県を離れて時、「もう帰ってこない」と誓ったはずであり、その後、就職に失敗して帰郷して以来、できるだけ、地元の友人とは付き合わないようにしていました。このあたりの感覚は、財津和夫の、「夕日を追いかけて」の、一節であれば、「・・・切り捨てたはずの故郷だから・・・」という感覚に似ています。殊に高校時代は、若くして死んだやつもいるし、あまりいい思い出もないので(つい思い起こせば「赤面逆上狼狽」(せきめんぎゃくじょうろうばい)におちいってしまう。)、かつて高校の同窓会に出たこともないわけです。
 私の立場で言えば、「恥をさらして都落ち」ではないですが、卒業後、都会(京都)で就職できず、おめおめと、Y県に帰郷し、現在に至りますが、当時あたかも将来を見越したかのように、「自らをどのように(日常に)埋葬するか」(これで俺の人生は終わった。)などと青臭く考えていました。その後、数十年間の人性において、人並みに苦労はしたはずですが、振り返れば、当時から、とんでもない甘い男でした。一般的に、若者=馬鹿者、なんですね。
 ところで、私の出身中学校は、一クラス40人の7クラス、当時学年300人弱くらいの学校で、昭和45年卒業となります。今回は、学年合同で、女性が40人弱、男が50人弱の参加であり、その後の46年にわたる歳月を考えれば、むしろ多めの人数の出席であったのかもしれません。
 前回は20年前にクラス単位で実施されたと思いますが、このたび偏屈な私が出席したことでもあり、比較的参加者が多かったことにより、何故なのか考察してみました。①男どもは定年退職後初めての同窓会であったこと、②連休の中日であったこと、③女性たちにとっても大きな区切りであり、ただし、遠来の人たちはいなかったこと、などがあげられるところです。
 ①については、自分でとても思い当たるところがあり、20年前と比較していえば、誰が今何をしている、何の役職(社会的地位)についている、などというのは、多くの男にとって煩わしかったところでしょう、よっぽど仲の良かった友人同士は別にして、男は、個々に、押しなべてその限られた社会的関係の中で生きるのです。このたび、皆、一様に退職し、ひとまずニュートラルで対等の立場となったわけです。また、私は、多分今世でもうお会いすることはない、今生の別れとご厚誼にお礼を申し上げたい、と思っていました。あらかじめの自己葬儀へのあいさつです。実際のところ、遠くは関東圏からわざわざ来訪者があり、彼らは一泊するようです。代表者のあいさつの中で、明白ではありませんが、そのような意味の決意の表明が数多くありました。男どもは、一般的に、自分を含め、長年の労苦で、自己の人格を陶冶(とうや)し、思慮深く、思いやり深くなった筈ではありましょうが。時間の経過はありがたいところでもあります。女性たちは、多くが、その夫などがすでに定年を迎えていることであろうし、自己の現在と今後の生活も十分に再構築して、とても落ち着いているように見えました。もし批評を加えるとすれば、どこかの家庭のように、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に、夫を酷しているかどうかはあずかり知らぬところですが(失礼)。
 自己のキャリアについて、多く述べたのは女性でしたが、これも世の趨勢(すうせい)でありましょう。男は基本的に失言を避けます。また、クラスの女性でブログをやっている人もおり、話が盛り上がり、小幸福というべきものでした。

 ところで、このたび、同窓会に出たのは、同時に、わが生涯の「清算」の意味もあり、過去、大学時代、「思想的対立」(?)で、袂を分かった友人と再会を果たすためであり、その後の行方を知らぬ彼と再会を果たしたことです。彼は、浪人して名古屋のミッション系の学校に入りましたが、当時、ジョルジュ・バタイユを巡り大議論の末、決裂し、その後、なし崩し的に会わなくなった古い友人です。彼も、このたび参加しており、ほぼ40年後「恩讐の彼方」に、再会できたのは、うれしいところでした。今となれば、お互いに、ジョルジュ某などという人は、忘却の彼方でありますが・・・。

 再度認識しましたが、当時のマドンナ、あるいは学級委員は今もマドンナであるし、今も学級委員なんですね。
 どうも皆の頭の中に深く刻印されているようです。そのまま、過去に戻ったような感覚に陥ります。
 無謀な男たちが、出来上がってしまい当時のマドンナにカミングアウトし、自爆していました(男ってバカですね。)。彼女は、当時は、また今も実際いい子なんですが、「一年生の時、隣に座っていたよね」と、私も話しかけてみて、見事に忘れられていました(自爆参加)。

 私たちの世代は、広義にポスト団塊の世代で、その若き日といえば、まだ経済的にも右肩上がりの時代でした。先の財津和夫(1948年生まれ)の「夕日を追いかけて」(1978年発売)を聞いていると(私もちろん歌います。周囲はあまり喜びませんが)、彼の時代感覚がよくわかります。彼にとって小、中、高校時代を含めての故郷ですが、出身地、博多に対する愛憎の気持ちがよく伝わってきます。当時、「故郷を出て、世界に雄飛する」くらいの夢は、まだ、いなかの高校生は十分に信じていたんですね。

「夕日を追いかけて」(財津和夫作詞・作曲)

 しばらくぶりの故郷は 大きな街に 姿を変えていた
 からだをゆすって走ってた 路面電車はもういない
 
 悲しみこらえ佇んで 好きだった人 永く見送った
 後姿に似合ってた あの海辺の道 今は車の道

 でも海はまだ生きていた いつも勇気をくれた海だった
 空の星は今も昔のまま 指先に触れるほど近くに

 いつからだろう父は小言の たった一つもやめてしまったのは
 いつからだろう母が唇に さす紅をやめてしまったのは

 永生きしてねの一言さえも 照れくさくて言えず明日は出ていく日
 もどっちゃだめと自分に言った 切り捨てたはずの故郷だから
   ( 中  略 )
 いつだって真剣に 僕は生きてきた筈だけど
 でもいつもそこには 孤独だけが残されていた

 沈む夕日は止められないけど それでも僕は追いかけていく
 沈む夕日を追いかけて 死ぬまで僕は追いかけていく  *
   ( *のリフレインが続きます。 )

 とても良い歌ですが、「こんなのは時代遅れ」と言い切る勇気が私にはありません。
 幼年期以来自己の生活で経た自然と、生育した家族や地域などの社会的関係の総体が、私たちの「現在」を強く拘束することは今も変わってないと思われるからです。そして、故郷を離れ、見知らぬ土地を目指すことも、多かれ少なかれ男(女) どもにとって「自然」と思われるのです。
 1978年あたりは、チューリップの全盛期であろうかという時に、作られた歌ですが、自分たちの<表現>を、東京で追及するため、彼女と別れ、親を棄て、東京に移り住み、現実と渡り合い、残ったのは表現者としての<孤独>だけであった、という厳しい独白です。「沈む夕日」が何の暗喩(あんゆ)かは分かりにくいところですが、ひたすら、表現者は至上の価値に向けて歩まなくてはならないという運命というものなのかもしれません。

 比較すると、その後都会でしのいで生きていたのか、あるいは田舎で辛抱して生きてきたのか、まったく等価であると、私は今になれば言い切れますが、運否天賦(うんぷてんぷ)というか、人性は不公平で不平等であることも間違いないことですから、立場立場での、それぞれの苦闘を思いやるところです。

 この歌は、卒業時に、サークルの先輩に、カセットテープで編集した流行歌のBGMシリーズとして餞別のようにもらい、擦り切れるまで聴き込んだ曲だったのですが、どうしても曲名がわからず、ネットの普及で、歌詞を検索し、ようやくその題名を知りました。
 かの先輩の当時のご厚意をこのたび深く謝するところです。
 そしてこのたび、わが同窓たちにも、「君たちはよく戦った」、と祝辞と、謝辞(?) をささげたい思いです。
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