第15話. 天変地異と神々

2016-08-28 14:06:35 | ★妄想
湖畔人です。

本日は、天変地異に関して、またその天変地異と神々との関わりについて、思うところを書いてみたいと思います。

どう見ても神々の警告とも取れるような天変地異や震災という物はあるように思えます。歴史を振り返ると、政変等が起きた時や、人心がひどく荒んでいた時期に、天変地異が畳み掛けるように起きた事例が過去幾つもあったように思えます。最近では、左翼政権時に大きな地震が来る、と言う説もほぼ定説になりつつあるように見えますね。これまで起きて来た様々な天変地異に対する日本神道の神々の意図が一体どこにあったのか、また、それらを見届けて来た、より上位の世界の中心的な神々の評価が一体どういったものであったのか、正直言って判りかねますが、そもそも論として、神と人間の関係性をここで一旦おさらいをするとするならば、まず始めに神がいて、その神が自らの霊的光エネルギーを分光して人類を作られたとするならば、我々人類は神の子供達とも言える存在であろうし、また神と言う全体を構成する一部分とも言えるような存在でもあろうかと思われます。一方で、我々人類は、神そのものではございませんし、創造した側と創造された側と言う明確且つ歴然とした差がそこには存在致しますし、また全体と一部分という大きな差も、そこには存在しているのではないかと思われます。その大きな差を明確に認識しておく事は、我々人類にとって、我々が謙虚でいる為に、とっても大切なポイントなんだと思うのです。

神と言う体全体を構成する細胞の如き存在である我々人間一人一人は、その霊的な光エネルギーを根源的なる神から受けて霊的に存在が可能になっているのではないかと思われますが、その神から受けた霊的な光エネルギーは、神を信じ、神を畏敬し、神に感謝する事ではじめて神に戻すことが出来ると、以前何かの本で読んだ記憶がございます。それ以外にも、他人への愛の思いや愛の行いも多分きっと神から頂いた光エネルギーを神に戻すことに寄与しているのではないかと思われますが、神から頂いた光エネルギーを神にお戻しする代表的な方法としては、神への感謝の気持ちを持つ事で神から頂いた光エネルギーを神にお戻しする、と言う方法が、最もメジャーな方法なんだろうと思われるのです。ですから、神仏への畏敬と感謝の気持を忘れた場合には、神から受けたエネルギーが神に戻らなくなってしまうので、光エネルギーの循環が止まってしまう事になる、と想定されるのです。一方、神の、または宇宙全体のエネルギーの総量は一定である、と、また何かの本で読んだ記憶があるのですが、仮にそのように、神の、宇宙全体のエネルギーの総量が一定であるとするならば、神から我々に向けて発せられた光エネルギーは、いつかは神に戻らないと神が継続的に光エネルギーを供給、照射し続ける事が出来なくなると想定される為(宇宙の総エネルギー量が一定であるとするならば一方的にエネルギーを放出し続ける事が困難となるはずなので、光エネルギーの神への返還及びその循環が、神が継続的に光エネルギーを放出し続ける為の大前提になると想定される為)、神から光エネルギーを受けないと生きられない我々の存続が難しくなると想定されるのです。よって人類の感謝による光エネルギーの神への返還と言う作業がないと、我々人類は存続できなくなる、と言えるかと思います。我々人間が継続的に存続して行く為には、光エネルギーを頂いた事を神に感謝し、その感謝により光エネルギーを神にお戻しして、そしてまた神から光エネルギーを受けると言う光エネルギーの循環が、我々の継続的存続の為には必須である、と思われるのです。ですから、我々人類が神への感謝を怠ると、神から頂いた光エネルギーが神に戻らなくなり、神と言う巨体の体内のどこかでその光エネルギーの滞りが起き始め、神と言う巨体の体内で何らかの不具合が生じ始めて来るのではないか?と想定されるのです。それはまるで、血管の何処かに塊が出来、血流が妨げられ、血流が滞り、結果、血管が破裂したりして血液が心臓に戻らなくなったりとか、血流が行き届かない箇所が壊死し腐敗し始めたりとか、そうした何らかの不具合が、神と言う巨体のどこかで発生していると思われるのです。そのような不具合が生じた場合には、神と言う巨体は、その血流(光エネルギー)の流れの滞った状態を正常化しようと試みると思われ、寝返りを打ってみたり、屈伸や背伸び運動をしてみたりと、様々に体を動かしては血流を正常化しようと試みる筈なのです。その血流の正常化の為のストレッチ運動、光エネルギーの循環を正常化する為の運動行為が、もしかすると、天変地異のような形で現れて来ているのではないか?と推察されるのです。この天変地異、震災は、我々人間に、神や自然の偉大さ、恐ろしさを思い起こさせ、我々人間と言う存在が如何に小さく、如何に生かされている存在であるか、その基本を思い起こさせ、それにより、我々人類に畏れ敬う心、生かされている事への感謝の気持ちを思い起こさせ、その感謝の気持ちにより、やっと、神から頂いていた光エネルギーが神に戻り始め、本来あるべき光エネルギーの循環サイクルが再開し始めるのではないか?と思われるのです。よってこの天変地異と言うものは、人類が神への信仰と畏敬と感謝の心が薄れた時に、光エネルギーの循環システムが滞ってしまうので、そう言った状況を打開、正常化する為に神が予め仕組んでおいたリカバリープログラムなのではないか?と思う事があるのです。まぁ、これはあくまで私の想像の範囲のお話ではございますが、そう言った見方も出来るのではないかと思われるのです。仮にそう言ったことがあるとするならば、天変地異の真相は、人類が、神仏への信仰の欠如、畏敬の欠如、感謝の欠如によりエネルギーの循環を妨げた結果引き起こした状況であり、人類の傲慢と不信仰が引き寄せた自業自得の仕業、神仏から、”反省せよ、基本に立ち返りなさい”と警告を受けている状況なのかもしれないのです。もし、そうだとするならば、神仏への畏敬と感謝と言う精神的態度は、我々人類にとっては最も重要視すべき基本的精神態度であって、人類にとっての一丁目一番地、最重要項目なのかもしれない、と思うのです。神仏への畏敬と感謝こそが人類が最初に持つべき精神態度なのであって、それ以外の様々な御教えも、この基本をおさえる事で、はじめて意味を成してくるのではないか?とさえ思われるのです。畏敬とは恐れ敬う事、創造した側と造られた側の差をわきまえる事、全てを知るものと表層の一部しか知らない者の差をわきまえる事、それらの差を知る事で神の偉大さを認識し、同時に我々人間の小ささをも認識し、神を心から敬い謙虚でいる事、とでも言えるのでは無いかと思いますが、逆に言えば、そこさえ外さない限り、我々人類には殆どの事が許容されているのではなか?とさえ思うのです。何れにせよ、天変地異は、情緒的な物ではなくて、仕組み的なもの、法則的なもの、プログラム的なものであって、条件が揃えば、自動的に発動してしまうような、そんな類の仕組みなのではないか?、むしろ我々の反省の具合を見ている神々によって情緒的な判断がなされ、天変地異の強弱が調整、制御されているのではないか?と思う事もございます。まぁ、あくまで私の想像の話ではございますが、そう言った見方も出来るのではないか、と思われるのです。いずれにせよ、人類にとって、神仏のへの畏敬の念と感謝の気持を持つ事が必須の重要な精神的な態度である事には、何ら疑問を差し挟む余地も無いのではないか、と思われるのです。だから、ただ生きれば良いというものではないし、そこそこ良い人ならそれで良いと言う訳でもない、外してはならないポイントは外してはならないのであって、そこを外したまま継続的に存在する事は多分許される事ではなく、必ず矯正が入り、神への畏敬と感謝を取り戻す状況が必ず出現するはずである、と、考えるのです。もちろん、積極的に人を害する悪魔のような人達が多い状態より、そこそこ良い人達が多い状況の方が良い事は良いのだけれど、人類が持つべき基本的な精神的態度である所の神仏への畏敬と感謝の心を忘れた上でのそこそこ良い人では不十分、不合格ですよ、と言う点を、まず我々日本人はしっかりと認識しておくべき、と考えるのです。特に日本人にはそこそこ良い人達は多いと思うのですが、そこそこでは駄目ですよ、我々は神仏の子供達であり、神仏と言う巨体の一部でもあるのですから、その基本をまずしっかりおさえて畏敬と感謝の心を忘れずに生きて行かないとマズイですよ、と申し上げたいのです。

また、時々、“天変地異が神々の怒りだとして、それに関係のない善良な人達が巻き込まれるのは納得がいかない”、と言う意見も良く聞きますが、震災による死も被害も、肉体を持つ一人の人間としては、当事者が持つであろう苦しみも悲しみも当然理解は出来ますが、でも一方で、前述の通り、この天変地異を、人類を創造した人類の親としての神の視点で見直してみると、また光エネルギー循環の観点から見直してみると、そこには全く違った世界が見えてくるのではないかと思われるのです。前述の通り、もし宇宙全体のエネルギー総量が一定であり、もし根源なる神から降り注がれた光エネルギーが、我々人間を含む全ての生きとし生けるものに降り注がれ、その降り注がれた光のエネルギーを受けた我々が、今度はその注がれた光エネルギーを感謝の思いに変換して神に戻すポンプの役割を期待されていたとしたならば、そして、そうした立場にいるにも拘わらず、もし我々人間自身が神の存在を信じる事が出来ないとするならば、そもそも神への感謝など出来るはずもなく、神への感謝を通して光エネルギーを神に戻すと言うポンプの役割も果たせるはずもなく、それはまるで役割放棄をしたにも等しく、そうした場合には、地表に注がれた神の光エネルギーは神に戻る事が出来なくなり、ずっとこの3次元世界に滞る事となり、この地上に何らかの障りを起こし始めると思われ、宇宙全体としてのエネルギーの循環サイクルに不調をきたすように成り、結果、天変地異を誘発する事になる、と想定されるのです。それは前述の通り、まるで血管の詰りにより血管が破裂をしたり、血液が行くはずの先端の機関が血流の不足により壊疽したりするように、その宇宙全体として、神という体に不調をきたすようになると思われるのです。壊疽する先端の機関とは多くの人間の魂の事になると思われるのです。人間の魂が神の存在を認めないので、神への信仰が無いので、神の光を受ける事が出来なくて、魂が壊疽し、腐り始める、と思われるのです。信仰とは神の光エネルギーを受ける為の証明書、IDカード、認定証のようなものに相当すると思われ、その証明書が無いと光エネルギーを受ける事が出来なくなる、と思われるのです。別の例えで説明するとするならば、その状況はまるで、神と言う巨体が宇宙樹、大きな一つの巨木だとして、我々人間がその宇宙樹の枝の先端の葉の一枚一枚だとしたならば、神への不信仰により、根から枝を通し各葉の一枚一枚に届けられるはずだった神の光エネルギーと言う養分が、信仰と言う条件が満たせないが故に葉に届く事が出来ず、結果、葉が枯れて腐ってしまう、と言う事態が数百万枚、数千万枚という葉において大量に発生していたとするならば、そうした事態を、宇宙樹(神)は、緊急事態と捉えるはずで、自らの枝を大きく揺らしては、葉の一枚一枚が宇宙樹(神)と言う巨木の一部である事を思い出させようとするであろうし、同時に、葉の一枚一枚が宇宙樹(神)の根から送られる養分で生かされている存在である事を再認識させようとするはずなのです。その再認識により、我々葉である所の人類は、感謝の気持ちと信仰を取り戻し、結果、神から頂いた光エネルギーをやっと神の所に戻す事が出来るようになり、光エネルギーの循環が再開されるのではないか?と思われるのです。実は、これこそが天変地異の本当の正体なのではないのか?と思う事がございます。ですから、天変地異とは、神による光エネルギーの循環の正常化運動であり、その原因となっているのは、他でもなく人類の不信仰と感謝不足が引き起こしたものなのではないか、と思われるのです。本来の使命を忘れた人類が自ら招いた事態、自業自得な状況なのかもしれないのです。まぁ、あくまで私の想像上の話ではありますが、そうした見方も出来るかと思うのです。だからもし天変地異によって身内を失う事があったとしても、簡単に神を恨むべきではないですよ、もしかしたら、人間自身の不信仰が招いた自業自得とも言える状況なのかもしれず、であるとすれば、神を恨む事は筋違いかもしれないし、余り早合点はすべきでは無いですよ、と申し上げたいのです。また、創造主である根源神の気持ちを想像してみる事も重要だと思うのです。もし、自らの創造物であり子供達でもある所の人類の魂が、数百万人、数千万人の単位で不信仰が要因で腐敗し始めている事を神が知ったならば、その窮状を黙って見てはいられないでしょうし、そもそも人類がこの世に何度も産まれて来る意義、転生の中で霊性を獲得しより神近い存在に成長すると言うそもそもの主旨からしても、不信仰による大量の魂の腐敗と言う状況は、とても許容できる状況ではないでしょうし、神の一部としての人類、と言う視点から見ても、あってはならない状況、と神は見るはずで、その状況を緊急事態と捉えて、神は応急処置を施し、多くの人類の魂の救済を急ごうとするはずなのです。ですから、天変地異とは、人類に基本を思い起こさせるための神の愛の鞭、目覚めの一喝、ショック療法なのかもしれないのです。天変地異により多数の人類の肉体が急激にこの世を去る事になったとしても、その荒療治により多くの人々の魂に目覚めを与え、多くの人の魂を、その腐敗した状態から救出する事が出来たならば、その方が神の目から見てより重要でより優先度の高い応急処置、緊急処置と見ている可能性もあると思うのです。また、まだ信仰が弱い程度なら許せるにしても、この世には積極的に神の存在を否定しようとする所謂、唯物論者、無神論者の呼ばれる存在も多数おりますが、彼らの存在は、我々人類一人一人が、神と言う巨体を構成する細胞の一つ一つとも言えるような存在であるにも拘わらず、もし自分自身の体全体に相当する“神”という存在を信じる事が出来ず、その存在を否定し、更にただ信じないだけではなくて、その無神論を拡散しようとするならば、その存在は一細胞が自分自身の体全体を否定し攻撃している状況に等しく、それは、まるで自らの一部である一細胞が癌化して自らの体全体を滅ぼさんとその勢力を拡大しようとしている状況と同じように神の目からは見えるはずなのです。だとすれば、神から見ると、無神論者達や、無神論をベースにした共産主義者達等は、もはや癌細胞そのものとして捉えられている可能性が高いと思われるのです。彼らを放置すればガン細胞が転移し拡大し神という体全体に悪影響を及す事が懸念される為、神は、それらガン細胞に対しては隔離処置を施すであろうと思われるのです。それが霊的に見た場合には地獄の発生要因になっているでしょうし、この世においては大きな天変地異が誘発される最大の要因にもなっているのではないかと推察されるのです。

天変地異が起こると多くの肉体が滅ぶことになりますが、でも、肉体の死よりも、魂の死の方が、より深刻で極力避けるべき事態である、と言う点を知る必要があると思うのです。なぜなら、死後の世界は生前の認識内の世界に留まる、と言う話をよく聞くからです。即ち、生前に霊的世界や神を信じていなければ、死後に、それら無神論者に霊的世界や神の存在を信じさせ、気付かせようとする事は至難の業になるらしく、そうした無神論者達は、自らが死んで霊になっているのにもかかわらず、自らの死を自覚せず、自分が生き続けていると誤解をし、家族に纏わり付いたり、様々な触りを起こしたりして残された知縁者に迷惑をかけ続け、ほぼ半永久的に成仏せずにこの世を彷徨い続けると聞いているからです。縁者に霊的な目覚めをした人間でもいない限りずっとそのままの状況で存在する、と聞いております。それはまるで魂としての永久の死に等しい状況です。何にも良い事がありません。この世に生まれ、学び、より霊的に、より神近き存在に成る、と言うこの世に生まれて来る意義と目的を忘れ、真逆の方向に行くのですから、だったらまだ生まれてこない方が良かった、と言うような状況なのです。ですから、霊的世界観の普及を急ぎ、そうした不幸で惨めな不成仏霊の存在を最小限に食い止める必要があると思うのです。人は誰でも例外なく死を迎え皆あの世に帰る定めにあります。それが大往生なら良いけれども、死因は色々、人それぞれです。交通事故もあれば、震災もあり、病死もあり色々。でも皆、例外なく死を迎え、あの世に帰る定めなのです。ですから、肉体の死より、魂の死の方を、もっと気に掛けておくべきなのです。その意味では、天変地異と言うショック療法による魂の救済は、人類にとっては、魂の腐敗と魂の永久の死から免れる、大変にありがたい救済措置、と言う捉え方も出来るかもしれないのです。そう言った視点もありえるという事をここで指摘しておきたいと思います。ただ、魂の救済と言う意味では、天変地異を待たずに、人間達の努力で霊的世界観の普及が出来れば、それに越した事はありません。ただ、強情な現代人を目覚めさせるのは、そう簡単な話ではありませんがね。

また、天変地異を考える時、共業という視点も忘れてはいけないポイントだと思うのです。日本人は日本と言う国全体の共業を共有していると思います。共業としてメリットもデメリットも両方を共有しているのです。多くの国民は一部の偉人達により築かれた繁栄の成果と恩恵を日々享受していますが、日本の今ある競争力も今ある国際的地位も、偶然の産物でそうなったとお思いですか?かつての日本人が優秀だったから出来たのですか?日本人の人間的努力だけで成し得た成果だと本当にお思いですか?確かに、一部はそう言う所があるとしても、基本的には、私には、今のこの日本の繁栄の姿は、日本の神々の繁栄を願う強い気持ちと、その繁栄の実現をアシストしようとした、より力の強い世界の中心的な神々の支援の賜物としか見えないのです。神道の神々の熱意と、神道系の人材の豊富さと、それを後押しせんとする地球の中心的指導グループの神々の支援があって始めた成しえた成果、としか見えないです。相当多くの神々がここ200年から300年間ほどの間に日本に継続投下されて来た結果、と言う風にしか見えないのです。数多くの神々が、日本の経済界、政治の世界、科学分野、芸術分野、スポーツ、宗教関係、その他と、様々な分野に綺羅星のごとく相当な数の神々が継続投下されてきた成果が、この今の奇跡的な繁栄を成した国、日本が出来上がった本当の理由である、としか見えないのです。
世界を見渡せば、紛争と貧困に喘ぐ国ばかりです。日本がどれだけ恵まれているか、どれだけありがたい環境下にあるか、日本人は知るべきです。そして、日本人としてその日本国の持つ良き共業の恩恵を受けているならば、過去日本が過ちを成した結果受けとる負の共業に伴う天変地異等の反作用も、そこは潔く受け取るべきだと思うのです。何も日本人がこれまで、これだけの繁栄を謳歌できたのも、日本神道の神々が日本人だけに楽をさせてあげよと過保護に依怙贔屓をしたからである筈もなく、そこには明白な理由があり、何らかの役割を期待しての今の繁栄だと思うのです。これから世界の手本となってもらいたい、何等かの役割を担ってもらいたいと、地球規模の神々の指導グループが日本神道を支援しているからに他ならないと考えるのです。それは、本来、根源神が当初人類に対し託していた基本的な願い、その原点を日本人にしっかり再認識してもらって、体現してもらって、それを世界に共有、拡散してもらいたいと強く願っているからに他ならない、と思っているのです。そして東西、南北、新旧の価値対立の懸け橋としてのバランサーとしての役割をも期待しているのだろうと思うのです。その神々からの期待を薄々感じ始めてから早25年以上も経ちました。1/4世紀すぎてやっと行けそうな感触を持ち始めています。そんな立ち位置の今の日本であるにも拘らず、一方で、未だに神仏への畏敬と感謝を忘れ、神仏を軽んじる輩が数多く存在するのも今の日本の実状ではないかと思います。一部には神を裁き始める罰当たりな輩すらおります。日本は、他国に物を売って世界有数の経済大国になって来た訳ですから、本来、神に代わってアジアや世界の抱える諸問題にも関心と責任感と影響を持つべき立場にあるにも拘わらず、未だに内向な意識しか持たず、自らの国、一国すら守る事も出来ず、世界で起きている様々な諸問題や悲劇に対しては無関心を装いシラを切り続けるその無責任さと薄情さは、何も神様に怒って頂くレベルの話ではなく、私の如き一般人でも、余りにも情けな過ぎるし、許しがたい!、と思えて来てしまうような、そんな体たらくさだと思うのです。日本は期待をされているから、天変地異等を通して神からよく叱られもしますが、それは一方で神から期待されている事の裏返しでもある、とでも言える状況かと思いますので、そこは、謙虚に神の願いを忖度して、神の期待に応えるべく、神の願いを体現し世界に対し責任感を持ち、世界を導く存在へと変わっていかねばならないと思うのです。

また、注意が要るのは、神の意思を受けた一群の方々への迫害は、神仏への畏敬や感謝を忘れた事に対する天変地異と同じような反作用を引き起こす可能性がありますので、その点は注意が必要だと指摘しておきたいのです。嘗て古代アトランティス末期においては、神意を受けた一群の方々が現れ、神の言葉を述べ伝え始めた所、既存の宗教勢力が、それら神人達を捕え、且つ処刑をするという暴挙に及んだと聞いております。その結果、あの栄華を誇った大アトランティス大陸は一夜にして海に没してしまうと言う極端な事例もかつてあった、と聞いております。一体、誰が神意を受けている存在なのか、そこを見誤ってしまうと、最悪、そこまで行ってしまうと言う話なのです。ですから、誰が神意を受けている存在なのか、それを見極めるセンスも、我々人類が問われている能力なのかもしれません。

嘗て、米国に眠れる予言者と呼ばれたエドガー・ケイシーと言う方がおりましたが、彼は、嘗て“the greater portion of Japan must go into the sea“と言う予言を残しましたが、東日本の大震災の際には、東北の港町が津波に呑まれる映像を見ながら、きっとケイシーはこの映像を見たのであろう、と思ったものですが、最近の政府のおかしな言動を見ていると、もしかしたら、あれでは無かったのかもしれない、東日本とは別の何かもっと大きな災いが来るのかもしれない、と思い始めているのです。勿論、反省があれば良いのですが、多分改善は見られず、大きな災いを招くのではないかと思う今日この頃なのです。

しかし、我々は霊的な存在です。肉体生命の存続ばかりに気を取られてはいられません。何があっても、たた淡々、粛々とすべきをするだけ、霊的人生観を広めて行くだけです。

正しき心を持ってベストを尽くして参りましょう。

湖畔人

(2018年3月6日改訂)
(2018年7月14日改訂)
(2019年1月10日~20日改訂)
(2021年10月15日改訂)



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