山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

春の宇治平等院とその周辺 2

2017年05月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)桜の季節、宇治平等院とその周辺を散策

 宇治公園(橘橋・橘島)  



11時、平等院を出てすぐ横の宇治川堤に。これから宇治川を中心とした宇治公園巡りに入ります。宇治公園は桜の名所として知られている。5年ほど前に来た時は、ちょうど「桜祭り」開催中だったのか、満開の桜の下に大勢の人と露天で大混雑していました。その時の強烈なイメージが残っていたので、今日は少し寂しく感じました。満開までには少し早すぎたようです。
橘橋を渡り、宇治川の中洲へ入る。

橘橋から宇治川上流を眺める。宇治川の中洲には「橘島」と「塔の島」という二つの島が連なっている。二つの島を総称して「中の島」と呼んでいます。手前に見えているのが橘島。
この周辺は山、川と美しい自然に囲まれた風光明媚な地。平安の昔より皇族・貴族に愛され別荘などが置かれた。川の両岸には、平等院を初めとした名勝・史跡が多く残されている。現在でも公園として整備され、多くの観光客や市民の憩いの場として親しまれています。ここは、京都府内で唯一つ「重要文化的景観」に指定されている土地なのです。

喜撰橋をこえた辺りから幅も広くなり、左側には桜の木も残されている。島の真ん中に、竹垣で囲われた「宇治川しだれ桜」が綺麗に咲いていた。公園内ではこれが一番目立つ桜でした。

 宇治公園(塔の島)  



橘島から、短い中の島橋を渡り塔の島へ入る。中の島橋の袂に鵜飼小屋がある。小屋の中には7~8頭の鵜が休息していました。関西では嵐山での鵜飼が知られているが、ここ宇治川の鵜飼も有名です。二名の女性の鵜匠さんがおり、女性の鵜匠は珍しいということで、時々テレビに出演されている。

平安時代から行われていたようですが、平安時代後期になると仏教の影響から殺生が戒められるようになり、太政官符によって宇治川の鵜飼も全面的に禁止された。この島に建つ十三重石塔も、その時に魚霊を供養したものだそうです。現在の鵜飼は大正15年に再興された。6月中旬から9月下旬にかけて行われ夏の風物詩となっている。5、6年前の春に来た時は「桜祭り」だったせいか、特別に鵜飼をやっており、川岸からすぐ近くでで見れました。風折烏帽子(かざおれえぼし、かがり火の火の粉を防ぐ)にワラの腰みの姿(水しぶきを防ぐ)の伝統的な装束を身にまとった女鵜匠さんが巧みに鵜を操り、小魚をくわえて浮き上がる鵜に、両岸の見物客から大きな拍手がおこっていたものです。

鵜飼小屋から南へ進むと、赤い喜撰橋近くに十三重石塔が建っている。
「塔の島にそびえる、高さ15メートルの石塔。これは、石塔としてはわが国最大で、重要文化財に指定されています。1286年に西大寺の僧・叡尊によって建立されましたが、そのいきさつが現代に伝わっています。叡尊は、まず朝廷の命により宇治橋の修復をおこないました。同時に、そのころ宇治川一帯でおこなわれていた網代漁を禁止するとともに、上流の中州に網代の木具や漁具を埋め、その上にこの石塔を建立して、魚霊の供養と宇治橋の安全を祈ります。その後、石塔は、洪水や地震でたびたび倒壊。現在のものは明治時代末期に発掘され、修造されたものです。」(京都府<宇治公園>のページより)
鎌倉時代後期の弘安9年(1286)に西大寺の僧・叡尊律師が宇治橋新規架け替えの際、「宇治橋が水害に弱いのは、乱獲された魚類の祟りから」と考え、魚供養の為に建立されたと伝えられている。

現在、公園周辺の宇治川では多くの重機が投入され、改修工事の真っ最中。
京都府<宇治公園>のページには「「国土交通省においては、塔の島付近の宇治川は、琵琶湖から淀川につながる治水上重要な区間であり、当地区の流下能力を増大することは緊急かつ重要な課題です。
塔の島地区は優れた景観が形成されていることを踏まえ、安全に洪水を流下させるとともに、景観、自然環境の保全などにも配慮した河川改修が進められています」とある。増水対策のために川底の掘り下げを行っているようです。この地域の特殊性から、高い堤防を築くということはできない。二つの世界遺産があり、景観が損なわれてしまうのです。ならば河底を深くするしかないか・・・。

 宇治公園(喜撰橋と「あじろぎの道」)  



十三重石塔の傍に、塔の島から平等院のある宇治川西岸へ渡る喜撰橋(きせんばし)がある。中の島(橘島と塔の島)と宇治川西岸とは橘橋と喜撰橋の二つの橋で回遊することができる。
喜撰橋上から下流を眺める。島と宇治川西岸との間の川は「塔の川」と呼ばれているようです。本流と比べて流れも弱く穏やかで、乗合の屋形舟が行き来しています。夏の鵜飼もこの辺りで行われるのでしょうか。
喜撰橋畔からでている乗合屋形舟は(600円、20分位)の遊覧だそうです。

この喜撰橋を渡って宇治川西岸へ。川岸に沿って桜と松の並ぶ散策路が設けられている。平等院傍まで続き「あじろぎの道」と名付けられている。お茶屋、料理屋さんが並んでいます。
「あじろぎの道」の中ほどに宇治市観光センターがあります。やや厳めしい建物で、周辺と違和感を感じさせている。和風造りなら周囲の景観とマッチしただろうにと思います。内部は広くゆったりとしている。周辺や宇治市の観光案内パンフも豊富に置かれている。宇治茶の無料サービスもあるので休憩するのに丁度良い。もちろんトイレもあります。

市営茶室「対鳳庵(たいほうあん)」が併設されている。「対鳳庵」の名称は、平等院の鳳凰堂に相対していることからきている。500円で、鳳凰堂を眺めながら本格的な宇治抹茶と季節のお菓子をいただけるそうです。開席時間は10時~16時まで。

観光センター前から橘島を眺める、桜は8分咲きか

観光センター前から上流側を眺める。赤い橋は、左が中の島橋で右が喜撰橋

 朝霧橋から恵心院へ  



塔の島、橘島へと戻り朝霧橋で、宇治上神社のある宇治川東岸へ渡ります。こちらは宇治川の本流で、流れが速く波打っている。
宇治川の源流は琵琶湖で、滋賀県では瀬田川と呼ばれ、京都府に入る辺りから宇治川と名を変えます。そして宇治川は木津川や桂川とも合流し淀川の大河となって大阪湾へと注ぐ。緑の山々と川の織り成す美しい風景ですが、時には川の氾濫で度々被害をもたらしてきた。現在、それを防ぐための宇治川改修工事が行われています。またここから上流側すぐの所に洪水調整のための天ヶ瀬ダム(高さ73m、長さ254m)が造られている。そのダム湖は鳥が羽を広げたような形をしていることから「鳳凰湖(ほうおうこ)」と呼ばれているとか(こじつけ?)。美しいドーム型アーチ式の天ヶ瀬ダム、鳳凰湖、天ヶ瀬吊り橋まで足を伸ばしたかったが、時間の関係で今回は断念。



朝霧橋を降り、上流側へ向かう右の道を進むと恵心院・興聖寺へ行ける。左の道は橋寺放生院から宇治駅へ。橋を降り正面の赤鳥居を潜って上って行けばすぐ宇治神社・宇治上神社です。





朝霧橋のたもとに、橋を背にして置かれているのが「宇治十帖モニュメント」。源氏物語「宇治十帖」の中で、ヒロインの浮舟(うきふね)と匂宮(におうのみや)が寄り添い小舟で宇治川に漕ぎ出す有名な情景をモチーフとしているそうです(といっても、私は源氏物語をよく知らないのですが・・・)。
ここはちょっとして休憩場所にもなっています。

朝霧橋のたもとから50mほど歩けば恵心院(えしんいん)の案内がある。緩やかな坂道を登って行けばすぐ山門が見えてきます。

由緒について寺伝は次のように伝えている。弘仁12年(821)、弘法大師(空海)により開創され、唐の青龍寺に似ているところから龍泉寺と称したという。その後平安時代中期の寛弘年間に、比叡山の横川(よかわ)にある恵心院という道場で学んでいた源信によって説法道場として再興された。そこから「朝日山恵心院」と改名された。また源信も「横川僧都」とも「恵心僧都」とも呼ばれたそうです。源氏物語「宇治十帖」の中で、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」は源信がモデルとか。

その後、藤原氏さらには豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、伽藍の整備が行われた。近世後期、境内には本堂、客殿、庫裏、薬師堂、鐘楼、中門、表門などがあったというが、度々の戦火などで現在は、表門、本堂、庫裏が残るのみ。
境内拝観無料、広くない境内ですがあちこちに多様な花が植えられている。住職の手植えだそうで、その素人っぽさが親しみを抱かせます。今は桜が目立ちますが、四季折々のお花が楽しめる「花の寺」だそうです。まだ知名度が低いのか、私以外に誰もいてないのでゆっくり鑑賞できるが、ちょっと心細い・・・。

 興聖寺(こうしょうじ)  



恵心院から元の宇治側沿いの道に戻る。上流側へ150mほど歩くと、また赤い橋が現れる。「観流橋」です。観流橋の左奥には宇治発電所がある。琵琶湖の水を、瀬田川を経ずに導水路で直接水を引き、発電所へ引いている。観流橋は、発電所の水を宇治川へ流し込む水路に架かる橋です。
観流橋下を見れば、現在水量も少なく穏やかだが、発電所からの放水時には増水し、大変危険なようです。警告の立て札が立てられていました。

観流橋を渡るとすぐ興聖寺の総門が現れる。総門脇には「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」と刻んだ石柱が建てられている。
曹洞宗の宗祖・道元が宋から帰国し建仁寺に身を寄せていたが、その後天福元年(1233年)京都深草に興聖寺を開創する。しかし深草の興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、道元は越前に下向し永平寺を創建する。その後興聖寺は数代続くが、結局応仁の乱など兵火を受け廃絶してしまう。
慶安元年(1648)、道元開創の興聖寺の廃絶を惜しみ、淀城主であった永井尚政が宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に再興したのが今ある興聖寺です。伏見桃山城の遺構を移築して諸堂を整備し、また尚政は茶人でもあったので閑寂な境内をつくり三つの茶亭をつくったと伝えられています。

総門を潜ると、緩やかな坂道が続く。この坂道の参道が「琴坂」と呼ばれ、興聖寺を代表する観光スポットになっている。坂の両側にある小さな水路の水音が琴の音に似ていることから「琴坂(ことざか)」と呼ばれるようになった。琴坂はもみじの名所としても知られ、宇治十二景の一つにも数えられています。
琴坂を登りきると、お寺には珍しい門に達する。龍宮造りの門にお堂が乗っかっている様で、興聖寺境内図には「山門(竜宮門)」となっています。

竜宮門の奥から琴坂を眺めます。秋の紅葉時には、約200mの参道が鮮やかな紅葉のトンネルになるそうです。想像するだけですが、真っ赤に染まったトンネルは、まさに絶景といえそうですね。

曹洞宗永平寺派のお寺で、日本曹洞五箇禅林の一つ。本尊は釈迦三尊像。
伏見桃山城の遺構を移築した法堂(はっとう:本堂)には、鴬張りの廊下と、天井には伏見城が落城した際の血染めの板を使った天井が張られているという。
本堂拝観には300円の志納金が必要でが、境内の見学は自由になっている。本堂前の庭園には、宇治川中州の塔の島に建つ十三重石塔再建時に、破損のため使用されなかった旧相輪と九重目の笠石が置かれているそうです(どれかナ?)


詳しくはホームページ

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