山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・東寺探訪 2

2017年08月09日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年5月20日(土)弘法大師信仰の原点、春の特別展開催中の京都・東寺を訪ねる

 五重塔(国宝)  



拝観入口を入るとまず目に止まるのが、五重塔をバックに羽を広げたように立つ桜の大木。現在修繕中なのか、補強材で支えられ、作業員の姿が見られる。

「不二桜 八重紅枝垂れ桜」の説明板が立つ。それによると、樹齢 120年で、元は岩手県盛岡市の旧家で育てられていたものが、鈴鹿市の農園を経て、平成18年に東寺に寄贈されたものだそうです。弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と命名された。4月中旬に、色の濃い八重咲きの華麗な花を咲かせるという。満開時のここからの風景は、素晴らしい絵になりそうですね。

五重塔(国宝)は境内の東南隅に位置し、高さ約55mで木造の建造物としては日本一の高さを誇る。建物に高さ規制のある京都ではひと際目立つ存在で、まさに仏の都・京都のランドマークタワーとなっています。

五重塔は、仏陀の遺骨を安置する古代インドの「ストゥーパ」が起源とされ、東寺の五重塔には、弘法大師空海が唐より持ち帰った仏舎利(お釈迦様の遺骨)が納められている。
空海が天長3年(826)に建造を始めたが、完成したのは空海没後50年近く経った元慶7年(883)の頃です。
その後、落雷に寄って4度焼失し、そのつど再建されてきた。
・天喜3年(1055)落雷により焼失(1度目)、応徳3年(1086)再建
・文永7年(1270)落雷により焼失(2度目)、永仁元年(1293)再建
・永禄6年(1563)落雷により焼失(3度目)、文禄3年(1594)豊臣秀吉、五重塔を再建
・寛永12年(1635)落雷により焼失(4度目)、生保元年(1644)徳川家光の寄進により再建、これが現在の五重塔で五代目にあたる。

これだけ高い塔なのに、地震や台風によって倒壊という記録が無いのが不思議ですね。それだけしっかりした工法で建てられていたからなのでしょう。京都って戦乱などの人災は多いが、地震、台風、氾濫などの自然災害の話はあまり聴かない。ただ菅原道真の祟りなのか?、雷には弱かったようです。この度重なる焼失から、現在は塔の先端に避雷針が設置されています。
初層内部(冊子「東寺の仏たち」より) 。五重塔内部は、通常は公開されていないが、特別期間だけ初層内部が公開される。今回は春の特別期間(3/20~5/25)にあたり初層に入れました。
薄暗く地味な空間に仏像が置かれている通常のお寺と違い、この初層内部は、柱、壁や天井など一面にやや色褪せているいるとはいえ鮮やかな彩色の空間が展開します。スケールこそ違うが、高野山の根本大塔内部とよく似ている。これも空海が構想した密教の立体曼荼羅の世界なのでしょうか。
内部中央には各層を貫いている中央心柱(しんばしら)の角柱がある。この心柱の基部には、空海が唐から持ち帰った仏舎利が納められているそうです。この心柱を大日如来に見立て、それを囲むように四面の須弥壇上に金剛界四仏坐像が配置される。その四仏坐像には、それぞれ左右に脇侍菩薩が二体置かれた三尊形式をとる。いずれも檜の寄木造りの漆箔仕上げで、目には玉眼が嵌め込まれているという。
須弥壇四隅の四柱には金剛界曼荼羅諸尊が、四周の側柱には八大竜王図が、壁には真言八祖像が描かれている。これらの仏像や図も江戸初期の再建時に造られたもので、江戸時代初期の作風を伝えているという。
昨年9月に奈良・興福寺の五重塔の初層内部を見学したが、同じように中央心柱を囲むように四尊像が置かれていた。しかしその空間は全く異質のものでした。

五重塔の北側は、池を中心にした池泉回遊式の庭園になっている。桜の季節には、特に美しい五重塔が浮かび上がるそうです。その形から「瓢箪池(ひょうたんいけ)」と呼ばれるが、この池にはある伝説が残る。
江戸時代に強風が吹き、五重塔が南に傾いてしまった。なんとか元に戻す方法はないものかと思案した結果、反対側の地面に穴を掘ってみた。すると傾いた五重塔が元に戻ったという。そしてその穴に雨水が溜まり、現在の瓢箪池になったそうです。

瓢箪池の東側に、扉の閉められたままの「東大門」がある。現在の門は建久9年(1198)に文覚上人によって再建されたもので、重要文化財に指定されている。傍の案内板によると、別名「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれているそうです。
南北朝時代の建文3年(1336)、東寺に陣を張る足利尊氏を新田義貞が攻めたてた。尊氏は門を固く閉ざし危うく難を逃れたといわれます。それ以来、東大門は閉ざされたままだそうです。

 金堂(国宝)  



南大門を入ってすぐ正面に佇む重厚な建物が金堂(国宝)です。延暦15年(796)東寺創建時に最初に造営されたのが金堂で、東寺の中心伽藍であり本尊としてと薬師如来が祀られた。空海が入り、真言密教の寺となった以降もその役割は変わりない。

創建時の金堂は、文明18年(1486)の土一揆で焼失してしまう。桃山時代の慶長8年(1603)、豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再建されたものが現在の金堂です。位置、大きさ、礎石や基壇は創建当時のままを踏襲されたといわれている。

東寺では最も大きい建物で、入母屋造りの本瓦葺き。外見は二重の建物に見えるが、下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれる形容の屋根で、内部的には単層の建物。正面の裳階の一部が切り上がり、その下に両開きの扉が設けられている。法会供養の時に扉が開けられ、散華されたそうです。この裳階の切り上げは、東大寺大仏殿や宇治・平等院鳳凰堂にも見られます。

以前は金堂内部は非公開で、中の薬師三尊像は秘仏とされ拝観することができなかった。しかし昭和40年(1965)から一般公開されるようになり、東寺のご本尊を拝することができるようになった。金堂内部は通年で拝観できます。金堂内部へは、東側の入口から入ります。写真の奥は講堂 和服と金堂はよく似合います・・・

内部と仏像(写真は、受付でのパンフ「東寺」より)
薄暗い金堂内部は一室だけで、北側台上に薬師三尊像が並び、その前が東西につながる通路兼拝所となっている。東寺は、空海が入って以降真言密教化されたが、この金堂だけは本尊・薬師如来を祀る東寺の本堂として創建時の姿を今に伝えているという。

中央には東寺本尊の「薬師如来座像」が鎮座する。檜による寄木造り漆箔仕上げ、像高さ2.9m。台座と光背を含めた総高は10mにもなる。薬壺(やくこ)を持たない古い様式の仏像で、光背に7体の化仏を掘り出していることから「七仏(しちぶつ)薬師」ともいわれる。台座の懸裳の下には、薬師如来を守護する眷属である十二神将像が配されている。各神将像は、頭部に十二支の動物を付けている。
本尊に対面して右側に「日光菩薩」、左側に「月光菩薩」の脇侍像が配される。この両脇侍像も、檜による寄木造り漆箔仕上げとなっている。これら薬師三尊像は慶長8年(1603)金堂再建時に、仏師康正(こうせい)によって焼失前の姿を模して復刻された。桃山時代における佳作とされ、薬師三尊像、十二神将像の全てが重要文化財に指定されています。

 講堂(重要文化財)   



東寺といえば、五重塔と講堂の立体曼荼羅の諸仏像が想起される。その講堂は、広い境内のほぼ中央に位置し、金堂の背後(北)に佇む。単層入母屋造りの本瓦葺きで、白壁と濃茶色の柱が目を引きます。

講堂は、空海が東寺に入った後の天長2年(825)造営が始まり、完成したのは承和2年(835)頃とされる。講堂内の諸仏像が出来上がり、立体曼荼羅の開眼供養が営まれたのは空海没後4年を経た承和6年(839)6月15日のことだった。
文明18年(1486)に起こった文明の土一揆で金堂、講堂、廻廊や南大門など主要堂塔のほとんどを焼失してしまう。しかし金堂や南大門が100年以上経ってから再建されたのに対し、講堂の再建は最優先され、延徳3年(1491)に創建当初の基壇・礎石の上に再建されたのが現存する講堂です。
以前は講堂内部は非公開で、中の仏像は、東側の格子扉から除き見るしかなかったという。しかし昭和40年(1965)から一般公開され、通年で拝観できるようになった。

空海が真言密教の根本道場として精力を傾けたのがこの講堂の建設だった。大日如来を中心に諸尊像を配置し、密教の教えを表す密巌浄土の世界を表現しようとした。これが「立体曼荼羅(羯磨曼荼羅 かつままんだら)」と呼ばれているものです。
密教とは何か。Wikipediaを見てもよく解からない。手持ちの電子辞書(シャープ:Brain)には「仏教の流派の一つ。凡夫にうかがいえない秘密の教え」とある。なるほど、凡夫中の凡夫の俺に解かるはずがない。
正木晃著「密教の世界」(河出書房新社)の冒頭に
「密蔵は深玄にして翰墨に載せ難し。更に図画を仮りて悟らざるに開示す」(空海「御請来目録」)(著者の意訳:密教の教えは深く神秘的なゆえに、文字では伝えがたい。ゆえに視覚表現をもちいて、理解できない者の眼を開くのだ。)と載っている。

講堂内部の立体曼荼羅(受付で頂いた冊子「東寺」より)
密教特有の「曼荼羅」として、布、板、壁などに描かれたものをよく目にする。大日如来を中心にして、その周囲に沢山の仏さんが描かれたものです。「曼荼羅(まんだら)」とは、サンスクリット語のマンダラ(円、本質)が音写されたもので、密教の最高神大日如来が人々を救済するために様々な姿に変身することを体系的に表したもの、とされる。この曼荼羅は、密教の深い真理を感得するための視覚表現だったのです。空海は東寺の講堂で、この曼荼羅を絵図ではなく、実物の仏像を配置することで実現しようとした。だから”立体”曼荼羅なのです。

ここ講堂内部には、幅24メートル・奥行6.8メートル・高さ0.9メートルの須弥壇上に、二十一躰の諸仏像が整然と配置されている。須弥壇の前は、金堂と同じように通路兼拝所となっています。心落ち着かせ、じっと眺めてみるが、何も感得できない。雑念多き現代人(俺だけか?)には無理なようです。空と海しか見えない洞窟にでもこもって修業しなければ会得できないものかもしれない。しかし真言密教の深い教えは感得できなくても、主な仏像が一同に列されているこの講堂は、仏像の学習にはこの上ない場所です。仏像を紹介する書籍、メディアなどでは必ずと言っていいほど東寺の講堂が取り上げられている。

須弥壇中央に配置され、立体曼荼羅の中核をなすのが大日如来を中心にした五体の如来像。「五智如来(ごちにょらい、五仏)」と呼ばれている。五智とは大日如来が具える五つの智恵のことで、それぞれの智恵を五仏に象徴させたもので、全てが大日如来の化身とされる。
「如来」像は、修業を経て悟りを開いた釈迦をモデルにしている。そのため持物は持たず、服装は質素な衣一枚をまとった簡素な姿で、開いた蓮の花の上に結跏趺座(けっかふざ、左右の足の甲を反対の足のももの上に乗せて組む)し、手は膝の上に置かれている。しかし真言密教の教主である大日如来だけは、菩薩のように宝冠(ほうかん)を被り、首飾りを着け着飾っています。そして手は、最高の悟りの境地を表す智拳印(ちけんいん、胸の前で左手の人差し指を立て右手で握る)という印を結んでいます。
残念ながら当初の如来像五仏は文明18年(1486)の土一揆によって焼失してしまう。大日如来坐像は室町時代の明応6年(1497)東寺大仏師であった康珍による再興像で、他は江戸時代の再興像。そのため国宝ではなく、「木造大日如来坐像 附 金剛界四仏坐像」として重要文化財指定。全て寄木造りの漆箔仕上げ。

如来像の東側(右)には、金剛波羅密多菩薩を中心として五体の菩薩像が配置される。菩薩は出家前の釈迦の姿を表し、如来の衆生救済の補佐をする。悟りを求めて修行しながら、苦しむ人々を救う仏さま。つまり、仏の教えを実践しながら、人々の苦しみや願いをすべて救うため、様々な法力や功徳を持つ。出家前の釈迦の姿なので、如来さんよりやや身を飾り、宝冠を被っています。少しうつ伏せ気味に眼を伏せ、慈悲にみちた柔和なお姿をされている。金剛波羅蜜多菩薩は文明18年の土一揆によって焼失、江戸時代の再興像。それ以外は焼失を免れ創建当初のままの姿を保ち、「木造五大菩薩坐像 4躯」として国宝に指定されている。金剛波羅蜜多像は国宝の附(つけたり)指定です。すべて檜の一木造り、漆箔仕上げ。

如来像の西側(左)には、不動明王を中心とした五大明王が配置されている。明王は大日如来の怒りの化身で、仏敵を追い払い、教えに従わない者たちを懲らしめ仏教に帰依さす。衆生教科のために大日如来が忿怒の姿になって現れたものです。東側の慈悲にみちた菩薩像とは対照的に荒々しい姿をしている。慈悲をもって人々を導く菩薩像に対して、明王は威をもって導く。髪を怒りで逆立て武器を持ち、眼が飛び出しそうになるくらい睨みつけてくる。煩悩を焼き尽くすため燃え盛る真っ赤な火焔の光背を背負い、多くの顔と手をもつ(多面多臂)。
すべて檜の一木造り、彩色仕上げ。五体とも創建当初の像で、明王像としては日本最古のものといわれ国宝となっている。

須弥壇の東西両端には、四天王、梵天、帝釈天が配されています。「天」はインド古代神が仏教に取り入れられ、仏教世界の四方を守護する護法神とされたもの。「超人的な力を持つ神」を意味するサンスクリット語の「デーヴァ」が中国で「天」と訳された。
如来・菩薩・明王の十五尊を両端から守護しています。東西南北の四隅に配置された四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天とも))は、兜を冠り甲冑を身につけ武器を持つ武装した姿で、邪鬼を踏みしめ眼を吊り上げ他を威嚇する忿怒の表情をしています。四天王の間に配された梵天、帝釈天は、対照的に眼を閉じ柔和な顔立ちをされている。同じ「天」でも役割が違うようです。六体とも檜の一木造り、彩色仕上げ。みな創建当初からの像で、国宝指定されている。

 食堂(じきどう)  



南西から見た食堂(じきどう)。講堂の北側、拝観受付の傍にあるのが食堂(じきどう)。食堂は、僧侶達が斎時に集って食事をした所という。
食堂には拝観券が無くても自由に入れる。現在、堂内右半分で草場一壽「陶彩画展」が開催されていました。ツルツルした陶器の表面に描かれた色鮮やかな絵画には驚いた。また堂内では写経の場も設けられ、ひたむきに筆をとっていらっしゃる方の姿が見えます。「写経は、国宝・五重塔に永らく奉納させていただきます」とのことです。

北西から見た食堂の背後。食堂の歴史は「初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定されるが、文禄5年(1596年)の地震で倒壊。2世紀以上後の寛政12年(1800年)にようやく再建工事が始められた。この江戸時代再建の食堂は昭和5年(1930年)に火災で焼失し、現在の建物はその後の再建で、昭和9年(1934年)に完成したものである」(Wikipediaより)
足利尊氏が東寺に本陣を置き、この食堂に居住していたこともあったそうです。

食堂はかって「観音堂」「千手堂」とも呼ばれ、仏像が安置されていた。檜の一木造り漆箔で、像高約5.8mの千手観音菩薩と、それを取り囲む四天王像です。平安中期の造像と考えられている。ところがこれらの仏像は、昭和5年(1930年)食堂の火災で焼損してしまう。損傷が比較的軽微だった千手観音菩薩は、平安初期の仏像様式を忠実に守り修理され、現在宝物館に収蔵され見ることができます。被災前は国宝だったが、現在は重要文化財指定です。現在の食堂には、昭和8年(1933)造像の像高約1.8mの十一面観音像が代わりに安置されている。

千手観音菩薩を四方から守護していた四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)は損傷が激しく、補修もされないままの姿で置かれています。面貌や体形はわかるが、腕を失い体の表面は焼けただれ黒く炭化した状態の痛ましい姿です。この3mをこす焼けただれた四体の巨像が、今回の東寺訪問で一番印象に残った仏像でした。






 宝蔵と慶賀門(東門)  


食堂の東側に、広場を挟み校倉造りの宝蔵(ほうぞう、重要文化財)があります。平安後期の創建当初は南北に二棟あり、弘法大師空海が唐の国師、恵果から授かり、現在、国宝となっている密教法具や両界曼荼羅、袈裟、仏舎利、五大尊など数多くの寺宝を納められていた。
宝蔵は長保2年(1000)と大治1年(1126)に二度焼失したが、建久9年(1198)、文覚(もんがく)上人によりに再建され、「文覚の校倉」とも呼ばれたという。ただし傍の説明板には「解体修理の結果、東寺創建に近い頃の建立と考えられる」とあり、文覚再建説は間違いで、東寺で最も古い建物ということになる。

多くの寺宝が納められているので、火事による延焼を防ぐため掘割で囲まれた中に建つ。掘割には蓮の花の若葉が、初夏の開花を待っています。掘割に架かる石橋の袂に一本の柳が立つ。「伝 小野道風ゆかりの柳」との説明板が。

宝蔵の直ぐ北側に慶賀門(けいがもん、東門、重要文化財)がある。JR京都駅から最寄の門で、大宮通りのバス停に近いことから、この門から訪れる人も多い。
鎌倉時代前期の建造とされる切妻造・本瓦葺きの門。基壇は平安時代後期のもの。
なお、東寺の開いている四門はどれも段差があり、車椅子は通りにくい。ここ慶賀門(東門)の横が駐車場で、そのまま境内に入れます。これを利用すれば車椅子でも段差を気にせず入れます。


詳しくはホームページ
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