小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち・日本編シリーズ13――石田梅岩(1685~1744)

2017年12月29日 17時54分43秒 | 思想




 石田梅岩は晩熟の思想家として己れを立てています。
 農民の子として生まれ、十一歳で京都の商家に奉公に出されます。
 十五歳で奉公先が傾いたためいったん郷里に帰り、二十三歳の時、再び京都の商家に奉公します。
 三十五歳ごろ人性についての懐疑に深く囚われ、以後四十代前半に至るまで諸家を訪ねて精神的な彷徨を重ねています。
 四十三歳で奉公先を辞する決断をし、四十五歳に至って突然悟達の境地に至り、無束脩、聴講自由の公開講義を始めます。
 処女作にして主著『都鄙問答』を刊行したのはじつに五十五歳であり、その五年後にはこの世を去っています。
 死の直前に『斉家倹約論』が刊行されていますが、そのほかにはこれといった著作はありません。もともと書物をたくさん書いて広く人に知られようという気がなかったものと思われます。
 この事実は、彼の思想の性格をよく表しています。その思想は後に「心学」の名で呼ばれますが、後述するように、ここで言う「心」とは、現代人が考える「こころ」ではなく、むしろ、「芯」とか「信」とか「真」という字のもつイメージと重なるものです。つまり、枝葉末節を取り去った、ものごとの本質という意味合いで用いられています。
 人倫と実践に関わる「ほんとうのこと」さえ得心できればそれで十分なのだというのが、梅岩が長年の彷徨の末にたどり着いた確信でした。そのための物質的精神的苦労の四十五年間だったと考えれば、晩熟は当然と言えるでしょう。



 思想家としての梅岩の特徴はいろいろありますが、まずその方法の独自性に現れています。加藤周一によれば、これには次の四つがあるとされています。

①講釈
②問答
③瞑想工夫
④実践

 それぞれについて簡単に注釈を加えると――
 ①普通の町人を部屋に集め、商家の日常生活の具体例を引きながら、それに孔孟の言葉を適宜当てはめてゆきます。これは、たいへん人気を集めたようです。
 ②いろいろな立場(門人や商人や学者や僧)の人の考えと自分のそれとを対置させて、互いに切磋琢磨していくやり方です。この実例は、『都鄙問答』や、門弟が遺稿をまとめた『石田先生語録』にふんだんに見られます。
 ③梅岩は、教えられたことの逐語的な理解よりも、言葉にならない自らの悟りを重要視しました。これはそれまで悩み考えてきたことの積み重ねとして訪れる一種の「啓示」に近いと言えましょう。
性を知りたしと修行する者は得ざる所を苦み、是はいかにこれは如何にと、日夜朝暮に困うちに忽然として開たる、其時の嬉さを他と喩へていはゞ、死たる親の蘇生、再び来り玉ふとも其楽にも劣まじ。》(『都鄙問答』巻之三)
まさに自己の経験をそのまま語っているといってもよい一節です。
 ④《身に行ざれば賢人にあらず》(同巻之一)。

 ただし柴田実氏によれば、①と②に関しては、現実の「塾会」の場面では混然として分かちがたく、時には門人の質問に師が答え、時にはあらかじめ師が禅の公案のように出題して参加メンバーに答えさせ、最後に師がまとめる形を取るような場合もあったということです。
 いずれにしてもここからは、教養のない一般庶民を相手に懇切丁寧に、対等かつ気さくに応じた雰囲気が伝わってきます。こういう方法は他の儒家が取らなかった新しいやり方で、自分もまた苦労を重ねてきた町人だったからこそ可能となったのでしょう。
 さて梅岩は、学問の体裁としてもっぱら儒学を用いましたが、儒学者としての彼に特別の際立ったところがあったわけではありません。彼は儒の道(五倫五常、孝悌、知仁勇など)を素朴といってもよいほどに、何の疑いもなく受け入れています。仁斎や徂徠が疑い、切り捨てるに至った宋儒(朱子学)についても、特に批判のまなざしを向けているわけではありません。
「理」が先か「気」が先か、陰陽のダイナミズムの奧にその変化を生じさせている本体があるのかないのか、天の道と人の道とには自然と作為のような区別があるのかないのか――こうした世界認識上の差異は、じつのところ梅岩にとってはどうでもよいことでした。
 彼の問題意識の核心は、自分たち(主として商人)がこの生をどのようによく生きていくべきかにあったのです。彼が、それまでの儒教哲学の「理」や「気」がいかにあるかといった形而上学的な問題にさほど注意を払わず、「性」、つまりそれぞれの人間の身分、属性、資質、行動様式といったことに関心を集中させた点に、そのことがよくあらわれています。
 言い換えると彼にとっては、性(個々の人間や自然の表れ方)と心(身につけるべき人間本質)と行(外に表出された働き)との関係がどうあるべきかということだけが問題だったのです。彼はもちろん聖人や君子についても論じてはいますが、それはむしろ付録みたいなもので、熱意を込めて説いたのは、自分たち(主として商人)にとっての生きる指針をどこに求めたらよいのかということでした。
 いわば梅岩は、現実社会の有力勢力として定着しつつあった江戸中期の商人階級に対して、その精神的よりどころを提供してみせたのです。彼は超一級のカウンセラーではありましたが、一級の儒学者ではなかったし、自らそうであるべき必要も認めてはいませんでした。

 その名カウンセラーぶりを少しだけ見ておきましょう。
銭軽しと云べきに非ず。是を重て富をなすは商人の道なり。富の主は天下の人々なり》(『都鄙問答』巻之一)
商人の賣利は士の禄に同じ。賣利なくは士の禄無して事(つかふる)が如し》(同巻之二)
多葉粉入(たばこいれ)一つ、幾世留(きせる)一本買とても、善悪はみゆる物なるに、色々と云ひまわすは宜しからざる者なり。(中略)我より人の實不實をみる如く、他よりも又、我實不實を見ることを知らず。(中略)商人は正直に思はれ打解けたるは互に善者と知るべし。此味は学問の力なくては知れざる所なり。》(同)
士農工商は天下の治る相となる。四民かけては助け無かるべし。(中略)商人の売買するは天下の相なり。(中略)天下萬民産業なくして何を以て立つべきや。》(同)
先方の身上往かぬる筋道あれば貸、ゆくべき理あれば不貸とは、親の子を思ふ心と何ぞ替あらん。》(同巻之四)
 ここで梅岩は、商人の存在意義を力強く肯定していると同時に、その商法はあくまで正直と相手への思いやり(仁)とによって貫かれるべきであると説いているわけです。 
 最後の引用は、「相手がどうしてもこの先やってゆけないようであれば貸してもいいが、やってゆける状態であることが見えるなら貸さないほうがいいですよ。それは子どもにどれくらい自立心が育っているかを推し量るのと同じです」という意味ですが、人間の陥りがちな甘えや依存心を断ち切り、それぞれが自立して生計を立てることこそが理想なのだと、いかにも町人らしい人生訓になっています。

 梅岩の生きた時代は、平和が続き、商人自身が自らの精神的アイデンティティを確立する必要に迫られた時代でした。ですから、彼の説く「倫理学」は、力強い自己承認であると同時に、支配イデオロギーであった儒教道徳との整合性を持つものでなければなりませんでした。
 梅岩は、質素倹約は天命に叶うとも説いていますが、これは、陰りが見え始めた当時の武士階級の中心政策とよく吻合しました。
 商人の前には、自ら生産せずに右から左へ品を流して儲ける奴はずるいという世間の目と、金を稼いで貯めこみ、人に貸して利ざやを取るのは悪いことではないのか、という良心の疚しさとの二つの道徳的課題が横たわっていました。
 梅岩は、金を貸して利息を取ることに対しては否定的でしたが、商業そのものの社会的な意義と、質素倹約によって貯蓄を増やすことに対してははっきりと肯定的でした。
 正直を貫いて奢侈を戒め禁欲的に蓄財に励む商人の正当性の主張は、すぐにマックス・ウェーバーが分析した、あのプロテスタンティズムの倫理を連想させます。
 この禁欲精神が資本主義の発展に結びついたというウェーバー説の真偽はともかく、ほぼ同時代に、洋の東西を問わず、勃興する商人階級が自己の社会的存在意義を確認するために独自の道徳思想を必要としたという点では見事に共通しているのです。
 また梅岩は、「心」は道、実践、知識、言葉などが出てくる源に当たるとし、天地万物と己れ一身との一体性を示すものと説いています。ほぼ同じことはプロテスタントの旗手、ルターも説いています。そう、梅岩は、単にありきたりの町人道徳を説いただけではなく、当時の我が国における商人階級の現実主義的エートスを代表する旗手でもあったのです。



 先に述べたように、「心学」とは、心理学のことではなく、よく生きることにとって最も本質的なことは何かを会得するための学問という意味です。
 一般に日本思想で学問というとき、それはほとんど倫理学を意味していて、科学的な発想は西洋思想の輸入を待つまで遂に訪れませんでしたが、梅岩の場合は、ことにその傾向が強く出ています。
心は身の主なり。且、儒は濡と云てうるほすと云ことなり(中略)。身をうるほすは、心よりうるほすことを知るべし。(中略)心を知る時は志強(つよく)義理照(あきらか)にして以て、上達すべし。此心を知ずは、昏昧(こんまい)とくらく恣(ほしいまま)にして、学問に従と云とも発明する所あるべからず。》(『都鄙問答』巻之一)
文字を知らずしても親の孝も成り、君の忠も成り、友の交りも成り、文字無世なれ共、伏義神農(ふっきしんのう いずれも中国古代伝説の帝王。文字や農業などの文化を人間に与えた)は聖人なり。只心を盡て五輪の道を能すれば、一字不學といふ共是を實の學者と云。》(同)
 このように、梅岩においては、「学者」とか「学問」という言葉の既成・通有の概念が見事にひっくり返されているのがわかります。彼の考えでは、学者とは人倫精神の体現者のことであり、学問とはそれを身につけるためのあらゆる営みのことです。
 いまでこそこれらの指摘が特に新鮮とは言えないかもしれません。しかし実態はどうかと言えば、知的職業人としての使命を果たさずに、言葉のみ喋々しく知ったかぶりを気取って権威を振りかざす手合いは世に溢れています。その点ではまったく変わっていません。こうした手合いへの批判は、痛快至極というべきです。

 しかし梅岩の「心学」には、学識としての価値という観点から見れば、仁斎や徂徠のそれに及ばない粗雑な点があるのは確かでしょう。
 たとえば、いくら天地万物と己れ一身とが一体だと言われても、そのような直観を共有できなければ説得力に乏しく、独りよがりのドグマに転落しかねません。
 また、朱子学の基本原理である「性」「理」「気」などを梅岩は一元論的に還元してしまいます。そこにはこれらの形而上学的概念に対する分析と批判の意識は見られず、そうなると、朱子学の権威を内在的に解体させる方法も生まれてこないでしょう。それでは仁斎以前への後退ということになります。
 さらに、五倫の道を貫くなら字など読めなくとも学者だというのはいささか乱暴です。ここまで言ってしまうと、徂徠のように、君子と小人を峻別し、孔孟の教えはもと前者のためのものであると喝破するところから、聖人の作為のうちに統治の模範を読むという独創的な思想を切り開くこともできなくなります。
 梅岩は、こうして直観の思想家というべく、そこにある種の危うさを感じさせはします。
 たとえば彼は、その思想体質にふさわしく、孟子のいわゆる性善説に対して独特の解釈を施しています。
 曰く、孟子の善は悪に対する善という意味ではなく、人間を活かしている呼吸、それをもたらしている陰陽の本体が善である。天地は無心だが万物は常に生まれており、その生々を継ぐ者こそが善である。天地は死活の二つを兼ね、万物のもとをなしていて、それを理とも性とも善ともいう云々(『都鄙問答』巻之三)。
 概念の区別を無視して一つに溶かし込んでしまうようなこの解釈も乱暴というべきで、孟子が善という言葉でいわゆる道徳的な善を想定していたのは明らかです。仁斎の項でも触れましたが、孟子は、人は天性として善であるのではないが、みな「四端の心」(徳に到達するための四つの糸口。惻隠、羞悪、辞譲、是非)の持ち合わせがあると説いているからです。
 しかし、梅岩にとっては、この生々流転することを決して止めない天地万物のありさまが、たとえどんなに悪や濁りを含んでいたとしても、必ずその生命の復活を約束された秩序ある統一世界と見えたのでしょう。それを彼はひっくるめて「善」と呼びたかった――たいへんポジティブで、明るい、同時にどこかに宗教性を感じさせる思想です。
 それかあらぬか、このおおらかな宗教的境地は、神仏をけっして異端として排除せず寛容な態度に終始するところにも表れています。
 名医が病気によっていろいろな薬を用いるように、仏法も人を助ける一つのよい方法である。しかし使い方を誤れば害をなす。たとえば慈悲の心ばかりあって聖人が模範を示したような統治の精神がなければ、世の中は乱れる。けれども自分の心をみがく道具として仏法に学んで正しい心に達するなら、儒と矛盾するはずがない云々。
 梅岩はまた、日本の神話にもしばしば言及し、その悠久の祖先を大切にする日本人の心を、儒教の孝悌の教えに適合するものとしています。天地開闢などもあまり文字面にこだわらず、その理は我が一身にも具わっていると考えればよい。アマテラスは私たちとともに常にいまここにいる……。

 こう見てくると、石田梅岩という思想家がたいへん日本人的な心性の持ち主だということも判然としてくるでしょう。
 梅岩が活躍した時代には、朱子学が徳川統治のイデオロギーとして迎えられてから、すでに百三十年ほどが経過しています。この長い期間に何人もの儒教思想家によって儒が講じられましたが、まさにその営みを通してそれは日本人的なものに変質していったのです。
 梅岩ははるか来た道の末端に位置したわけですが、それは結果的に、インド仏教や中国の儒教を鋭く相対化した富永仲基や、「からごころ」をさかしらとして退け、日本固有の魂のありかを探ろうとした本居宣長を媒介する役割を果たしたと言えるでしょう。
 その一方で、知識のみを積んで活用をおろそかにする学者オタクに痛撃をくらわしている点や、実学・実践を重んじる点、依存を排して独立自存を尊ぶ点、商業経済を決然と肯定している合理性などに、福沢諭吉にも通ずる近代思想の萌芽を見出すこともできます。
 私たちは、こうした梅岩の思想のうちに、江戸中期に育ちつつあった近代的気風をうかがうことができるのです。

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