小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家・日本編シリーズその2

2016年10月13日 13時46分48秒 | 文学

      





鴨長明(1155~1216)

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」といえば、誰もが聞いたことのある鴨長明の『方丈記』の書き出しですが、この見事な書き出しのために、この作品、および長明という人物について、ある種の誤解がまかり通ってはいないでしょうか。
 この作品は、一般には、『平家物語』と同じように、時代の激動を経験・観察した冷静な書き手が、戦乱や災厄や都の荒廃を目の当たりにして、権勢や栄華や奢侈を誇ること、人と争って欲望を満たそうとすることの空しさを説いた仏教的な無常思想の書として受け取られているように思われます。そう受け取ってしまうと、鴨長明という人が解脱と悟りの境地に達した聖の一人にも感じられてくるのですが、よく読んでみるとどうもそう単純ではない。
 ここにはむしろ長明その人の繊細で孤独な人格に根差した恨み節と強がりと未練がましさのようなものが匂っていて、また同時にその人間臭さは、自分の不徹底だった生き方への慚愧の念としても現れていると言えそうです。いきなり飛躍したことを言うようですが、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』(拙著『13人の誤解された思想家』PHP研究所参照)によく似た面があります。そう言えばどちらも音楽に深く傾倒したのですね。長明は琵琶の名手だったようですが、このほかに歌を詠むことに最も力を注ぎ、後鳥羽院から歌合の寄人に召されています。

 ところでよく知られているように、『方丈記』は、前半が恐るべき火災と竜巻の被害、源平の争いのさなかの慌ただしい福原遷都、凄惨な飢餓、大地震など、都の大いなる乱れの記述に当てられていて、これは分量にして全体の約半分を占めます。そうして次のように締めくくられています。

すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし。いはんや、所により、身のほどにしたがひつつ、心をなやます事は、あげてかぞふべからず。

 ここがこの短い「随筆」の大きな転換点で、この後、人と人とが相接して暮らすことに伴う不如意の話に進み、次に自分の来し方を簡単に語り、今のライフスタイルについて紹介するという展開になっています。これはおそらく意識的に取られた方法で、長明は、なぜ自分が六十近くになって、わずか三メートル四方ばかりの粗末な住処を都の中心から離れた日野の里に求めたのか、その意味づけを一生懸命わかってもらおうとしているといった趣きです。あたかも前半の乱世の姿の記述は、そのためであったかのように。
 ところがおもしろいことに、その「方丈」のさまを描写する筆は妙に踊っていて、こういう自由な独居暮らしこそ理想的で、君たちは見習うべきだとでも言いたげなのです。

南に竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を作り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかけ、前に法花経をおけり。東のきはに蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚をかまへて、黒き皮籠三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張を立つ。いはゆるをり琴・つぎ琵琶これなり。かりの庵の有様、かくのごとし。

 この後も、周辺の環境、風景をじつに詳しく、その春夏秋冬折々の風情がいかに自分の身に合っているかを述べ、また、毎日読経や持戒に汲々としなくとも適当にやっていれば罪を犯すこともないし、時々は松風や流水に合わせて琵琶を弾き歌を詠じて楽しむこともできるというような気楽な暮らしぶりを紹介しています。
 ここに描写された「方丈」は、たしかに広くはありませんが、かなり優雅でオシャレに感じられます。いまで言えば別荘暮らしのようなものか。しかも彼は必ずしも人との交渉を断った隠遁生活に徹したというわけではなく、近所の子どもと楽しそうに遊んでいるし、時々は、あるいはけっこう頻繁に、都に出ていたらしい。
 たとえば簗瀬一雄訳注の角川ソフィア文庫版巻末年表によれば、長明が庵を結んだ後に「『往生要集』(の写本)刊行す」とありますが、長明が上に書いている「往生要集」が、この写本を意味するとすれば、どうやってそれを手に入れたのか、相当のつてがなければできないはずです。またこれは、彼がこの年になっても、現実の状況に対する旺盛な好奇心と向学心とを持っていたことを示しています。何しろ往生要集といえば、法然による浄土宗再興期の知識人にとって、垂涎おくあたわざる必読本ですから(源信がこの原本を書いたのは、これより二百年以上前ですが)。
 また同じころ、彼は親友の推挙で鎌倉にまで赴き、実朝と何回も会ってもいます。
 ちなみにこの東下りの目的が何であったかはまったくわかっていません。実朝に短歌の指南をしたという説もありますが、実朝は藤原定家との間にすでに緊密な師弟関係を結んでいますから、どうもそれも怪しい。
 何よりも、自分のライフスタイルを、どうだ、いいだろうとばかりにこれほどしつこく自慢げに書くというのは、いったいどういう心根の表れでしょうか。へそ曲がりの私は、ついついそういうところに、長明自身のへそ曲がりぶりを読んでしまうのです。つまりはこれは自分の不本意だった前半生と、そういう運命を強いたこの世の不条理に対する屈折した恨み節ではないのかと。
 というのも、もし本当に過去に執着せず、今の暮らしぶりに満ち足りていて淡々と静かな日々を送っているのだったら、わざわざそんなことを構えて書く必要などないからです。世間から「半分だけ」遠ざかった物書き(知識人)の、未練がましい性とでも申しましょうか。

 では彼の前半生はどんなふうだったか。
 彼は下賀茂神社の禰宜・長継の次男として生まれ、父方の祖母のもとでかなり裕福な暮らしをしていたようです。短歌と音楽をことのほか好み、それにもいい先生がついていました。つまり由緒ある家のお坊ちゃんだったのですね。しかし十九歳のころ父を失います。三十代で祖母の家から独立し別の家を建てて住みました。事情はよくわかりません。この新しい家のことは、『方丈記』にも出てきますが、その大きさは、実家の「十分の一」しかなかったと書かれています。
 もはやあまり若いとは言えない三十三歳の時、千載集に一首が載りますが、歌論『無名抄』(『方丈記』とほぼ同じ五十代後半に成立)のなかで、その喜びをナイーブと思えるほどの調子で語っています。このナイーブさは、人が聞いたら書かずもがなの自慢とも聞こえ、そのあたりにこの人の人間関係のつたなさがほの見えます。
『方丈記』での屈折した強がりの姿勢に収斂していく芽は、すでにここに胚胎していたのかもしれません。音楽の先生に「この集には大したことのない人の歌がいくつも入っているので、それを見て悔しく思うはずなのに、一つ入っただけでそんなに喜ぶとは、とても心がけが美しいですね。それでこそ道を尊ぶというものです」とほめられたことまで記しています。ふつうそんなこと公開をもくろんだ作品に書きませんよね。
 また、父が生きていれば河合社の禰宜職を継ぐはずであったのを、歌詠みにうつつを抜かして社の奉公をおろそかにしている間に、親戚筋の鴨佑兼の進言によって佑兼の息子・祐頼にその職を奪われてしまいます。どうも長明はこの件で佑兼のことを後々まで恨んでいたフシがあります。
 賀茂川の別名として賀茂社の縁起の中に見える「瀬見の小川」という名を自分の歌に詠みこんだとき、佑兼から、ハレの場で使うべきその名をふだんの歌会などで使うべきではないと非難されました。ところがその名を判者も含め他の歌人が使うようになって広まってしまいます。するとまた佑兼が、「だから言わんこっちゃない。誰が初めて使ったかわからなくなってしまうじゃないか」と因縁をつけました。ところがこの長明の歌は後にちゃんと新古今和歌集に載ることになります。長明はその一部始終をやはり『無名抄』の中に書きこんでいます。彼にしてみれば、ざまあみろという気持ちだったのでしょう。でも何十年もたって書き下ろした「歌論」のはずなのに、ずいぶん執念深いところがありますね。
 ところで佑兼によって禰宜の職を奪われたことは、長明にとってよほど大きな人生の挫折だったと思われます。河合社の話の時には涙を流して喜んだのに、一度その話がおじゃんになってからは、おぼえめでたかった後鳥羽院がせっかく長明のために別の小社を建て、そこの神職に就くことを勧めてくれたのに、院の申し出を「もとより申す旨たがひたり」とあっさり断ってしまいます。この辺にも融通の利かない頑なな性格がよくあらわれていますね。
 さてこの事件の後、しばらく姿を隠してから再び召し出されるのですが、やがて五十歳の時突然出家して大原に五年間こもります。しかし、この五年のことを『方丈記』では、ただ「むなしく大原山の雲に臥して」としか語っていません。無意味な五年間だったと総括しているのですね。想像をたくましくするに、当時大原は、出家僧が群れて集団を作っていたそうですから、そこでも性狷介な長明は人間関係があまりうまくゆかず、不適応を起こしたのではないか。
 いったいに『方丈記』の長明は、自分の人生の大事な節目にどういう事情があったのかについては口をつぐんでいます。祖母の家を出たこと、出家したこと、大原を出て日野に移ったこと、すべてその動機や理由が何も語られていません。佑兼の横槍で禰宜職を失ったことについては、その事実にすら触れていません。この私生活上のいくつもの大事件に対する沈黙と、都の天変地異・荒廃を語る饒舌とはたいへん対照的で、私はそこにどうしてもある意図を感じないではいられません。
 つまり彼は、自分の人生上の有為転変の帰結として方丈の庵に到達したはずであるのに、その到達の理由を、一般的なこの世の無常という仏教的世界観に置き換えて表現しようとしたのです。そう考えないと、都の悲惨なありさまをこれでもかこれでもかと畳みかけるように活写するその鬼神めいた情熱と、方丈に落ち着いたときの心境をことさらうきうきと語る調子との間のちぐはぐさの印象がどうにも解決がつきません。それは論理的には整合性が取れているのですが、情緒面ではいかにも無理をしている――そんな感じなのですね。
 これは格別非難に値することではありません。何よりも漢文脈の簡潔な調子を活かした和漢混淆文によるこの随筆文体は、それまでの女性的な文学(物語、日記など)では考えられなかった力強さと思想性とに満ちており、そのオリジナリティは否定すべくもありません。男性として、あえて公的な事件を媒介に私的な心境を語る方法を選び、私的な事件を連綿と吐露する「女々しい」流れのほうは抑制せざるを得なかった。だからこそ、こうした斬新な文体が生まれたのかもしれません。
 長明はおそらく、性格的には過剰な自意識をもて余し、感情の起伏の激しい人であったように思われます。それゆえ、世渡りがあまり上手でなく、人間関係で多くの失敗を重ねたのではないでしょうか。

『方丈記』は、最後に、奇妙な迷いの表白で終わっています。仏の教えに従うなら、こうやって草庵暮らしを愛するのも静かな生活に執着するのも罪なことで、自分の振る舞いは格好ばかり聖人ぶっているけれど、心は濁りきっているのではないかと自問しているのですね。

栖はすなはち、浄明居士維摩のこと――引用者注の跡をけがせりといへども、保つところは、僅かに周利槃特釈迦の弟子――引用者注が行ひにだに及ばず。もしこれ、貧賤の報のみづから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。その時、心さらに答ふる事なし。

 あんなに得意げに今の暮らしぶりを語っていたのに、これはどんでん返しともいうべき展開です。察するに、長明の強い自意識は調子に乗りすぎたことを反省し、どう収めようかと苦慮した挙句、やはり悟りの境地に達した隠遁者を気取るよりは凡夫の煩悩をさらけ出しておく方が、当時の世相にふさわしいと考えたのでしょう。受け狙いとまでは言いませんが、なかなか心憎い自己演出です。
 新古今から二首。

  よもすがら ひとりみ山のまきのはに くもるもすめる有明の月

 これは禰宜職を失ったショックで引きこもってから出家するまでの間に詠んだ歌らしいですが、ひとりみ山にこもって鬱屈した気分で過ごしていても、自分の気持ちは有明の月のように澄んでものがしっかりと見えているという心意が込められているように思われます。やはり相当に意地っ張りでこわばったイメージですね。

    身ののぞみかなひ侍らで、やしろのまじらひもせでこもりゐてはべりけるに、葵をみてよめる
  みればまづいとゞ涙ぞもろかづら いかに契りてかけはなれけん


 これこそは、長明の真情が直接に出ていると言えるでしょう。「もろかづら」は葵の別名でもあり、葵と桂を組み合わせて賀茂祭の飾りにするそうです。だから「もろ」が「もろい」の掛詞とも見え、もろくも縁から見放された自分を暗示していることになります。また「かけはなれ」は、葛の縁語でもあるそうです。要するに、本来なら賀茂祭を取り仕切る立場になるはずであった自分なのに、どんな因縁からこんな悲運にあったのかと嘆く歌ですね。
 構えた「随筆(エッセイ)」ではいろいろと言葉の武装を凝らすことができましたが、やはり「歌」にこそ凡夫としての本音が出てしまうとは、昔も今も変わらないことなのでしょうか。このあたりまで長明に近づいてみると、彼に対するえもいわれぬ親しみがようやく湧いてくるような気がするのです。

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文化
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