小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち・日本編シリーズ(14)――横井小楠(一八〇九~一八六九)

2018年01月10日 12時47分45秒 | 思想



 横井小楠の名は、幕末期に活躍した他の志士たちほど知られていませんが、その堅実で視野の広い考え方は、近代日本の基本方向を定めていく上でなくてはならないほど重要な位置を占めています。
 この優秀な人物が、これまでさほど人の口の端に上らなかったのは、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通などのように、政治の表面で目立った行動をとっていなかったからだと思われます。
 それだけ実践家というよりは思想家であり、その大半のエネルギーを福井藩主・松平春嶽のブレーンとして費やしたということなのでしょう。彼の名が忘れられている事実は残念なことであり、今後、彼の仕事がもっともっと評価されるべきであると思います。

 小楠の思想は簡単に言えば、一種の「共和国」主義でした。
 彼の説く共和国主義は、幕府及び列藩が結束して連合し、その中から大総督を立てて国家統一を成し遂げて行くという考えです。
 その場合、もちろん天子を否定するわけではなく、その至高の精神的権威の下で、合議規則に基づき、現実の政体によって政治運営がなされるべきであるという構想になります。
 これはいまの言葉で言えば、立憲君主制を志向するということになります。じっさい小楠は、将軍継嗣問題が起きた時に、公武合体派として一橋派に属し、和を重んじつつ、「万機公論に決すべし」の実現のために奔走しています。
 いまここに、慶応三年(一八六七年)四月、大政奉還がなされる半年前に、アメリカ留学している甥の佐平太と大平あてに送った書簡があります。幕末ぎりぎりの地点での彼の考え方を端的に示す部分がありますので、引用してみましょう。
 なお文中、「ただ集めて議論をするだけ」とあるのは、薩摩、越前二藩が、有名大名を集めて相談し諸藩の名士を召し寄せるという提案を出したことを指しています。

 《私の考えは、ただ集めて議論をするだけでは紛々とするだけで有害無益、それよりも、海軍局を建て将軍家が大総督、薩摩・越前など有名の大名が参与、さらに旗本の士や諸藩の名士を召し寄せ、上・中・下院として方針を討論するというもの。海軍のことから出発して、富国の方策に及び、外国応接から世界に乘りだし貿易という具合に全問題を包括していくわけで、これこそ日本の大政府というべきものとなるでしょう。

 しかしこれよりも数年前、条約勅許問題で江戸上層部が揺れ動いていたときには、条約締結を正当化しようとする一橋慶喜とは必ずしも意見が一致していたわけではありません。むしろ松平春嶽とともに「破約必戦論」を説いて、一見攘夷思想を唱えているかのような趣がありました。しかしよく読むと、長州激派などが主張していた攘夷論とはまったく異なる、極めて戦略的な見地からの議論であることがわかります。
 小楠は、条約をいったんご破算にして全国の諸侯を集めてもう一度会議を起こし、その結果万一破約という結論が出たならば、列強との軋轢は避けられないだろうから、一致結束して外国と闘おうと主張したのです。彼自身はもちろん開国派でしたが、民主主義的な手続きを踏むべきことを優先させたのです。彼はこのように、国内が内部分裂してしまうことを何よりも嫌いました。

 小楠は、来たるべき時代のグランドデザインを明確に描いていました。そのグランドデザインとはどのようなものだったのか、具体的に見ていきましょう。
 まず『学校問答書』(嘉永五年・一八五二年)ですが、これは、学問は世をうまく治める、つまり政治のためにあるという考えをはっきりと打ち出したものです。「学政一致」という言葉が出てきますが、その由来は、彼が儒教(聖人の教え)を教養の本体としていたところにあります。
 しかし小楠の主張はきわめてラディカル(根源的)で、現在の儒学者たちのように、政治と切り離されたところで、章句の解釈に耽っているような学校ならない方がましだと言い切ります。中国でも日本でも、名君が出ると必ず学校を興すが、そこから才能ある人物が育った例はない、と。
 彼は、現在の学問の状態を、学者は政治経済のことがわからず、政治家はわが身の修養をやめてしまった「学政不一致」の状態として嘆きます。
 小楠は、「学政一致」を真に果たすには、道理をよくわきまえた明君が、自ら一家一門のうちで講学を起こし、主君どうしで互いに戒め合う気風を確立させ、それにもとづいて政治が行われるようにすることが先決だと説いています。
 ここでは、卑賤老少を問わず集まり、お互いに批判しあって自由な議論をすることが大切であるとされます。またこの学校の講学と朝廷政事堂の講学との間に内容上の区別があってはならないとも説き、学校は朝廷の出張所のようなものだと言い切っています。ここに、小楠が、早くから藩を超越した中央集権的な国家統一のヴィジョンを抱いていたことがわかります。

 小楠は単純な開国論者ではありませんでした。
 ペリー来航と同じ年に長崎に来たロシア使節・プチャーチンとの応接に際して書かれた『夷虜応接大意』(嘉永六年・一八五三年)では、「有道の国とは交際し、無道の国とは交際しない」という原則を立てています。それに加えて、有道の国とはわが国に対してだけ言うのではなく、他国に対しても信義を守り暴行侵略のような悪行をしない国のことであるという但し書きをつけています。このあたりに彼の公平なものの見方がうかがわれます。
 もっとも、西洋諸国を有道の国と心から認めているわけではけっしてありません。後年の『沼山対話』(元治元年・一八六四年)では、西洋人も仁政を行っていると一応認めていますが、彼らも根本のところは利害の観念から出ているので、暴虐にふるまわないのも結局は自分たちのためだからだと、よく真相を見抜いています。交易を断れば必ず戦争を仕掛けてくるだろう、と。
 和親条約が結ばれてしまった安政元年(一八五四年)の吉田悌蔵宛書簡では、和戦どちらかに決めようという議論にはもはや意味がなく、臨機応変に対処すべきだと提言しています。

 《もし戦うつもりがあるのなら最初にアメリカと条約を結ぶ前に決めておくべきでしょう。アメリカと和を結んだ時点で大計を誤ってしまっているのですから、いまになって拒絶の戦争のと言い出すのは時勢を知らない者だと申さねばなりません。ここは、どの夷国に対する応接にも人を選び、道理に従って率直に話し合い、先方が少しでも無理なことを言いたてればすぐに論破し、またむこうの言い分が正しければ採用するなど、信義にもとづいて交渉するほかはありません。

 このように、小楠の精神は、道理(戦略的理性)を何よりも優先すべきだという考えに貫かれていました。つまり、相手を見くびらず、相手におもねず、いよいよとなれば戦争も辞さないだけの意志と武備を固めておいて、あくまで対等の立場で応接すべきだというのですね。これは外交の基本精神といってよいでしょう。近年の外務省に聞かせてやりたいものです。

 しかしその小楠も、日米通商条約締結後は悠長ではいられなくなります。文久二年(一八六二年)、長州を中心とした京都における激しい攘夷気運の盛り上がりを受けて幕府、列藩の議論が動揺すると、春嶽から急遽江戸に呼び寄せられて具体的な知恵の提供を迫られるのです。ここで彼はまず、以下のような基本方針を提示します(『論策 七条』)。

 《一、将軍が上洛し、歴代将軍の朝廷に対する無礼をお詫びせよ。
  一、諸大名の参勤交代を中止し、藩政の報告を行なわせるにとどめよ。
  一、諸大名の奥方を帰国させよ。
  一、外様・譜代を問わず有能な人物を選んで幕政の要路につけよ。
  一、意見の交流を自由にし、世論に従って公共の政治を行なえ。
  一、海軍を興し兵力を強くせよ。
  一、民間商人による自由貿易を中止して政府直轄の貿易を行なえ。


 二番目と三番目は、かねてからの持論で、武家の長年にわたる奢侈の風習による財政難、苛斂誅求による農民層の困窮、将軍家や諸大名への大商人のつけ込み、武士の士気の低下などに対する批判から出てきたものです。
 これはじつに良い提案で、一時聞き入れられるのですが、そのうちずるずると元に戻ってしまいます。
 また最後の提案は、当時の商業資本の不可逆的な流れからして、無理があるでしょう。ただここには、今で言えば経済的自由主義の無秩序な広がり、すなわちグローバリズムから藩(国)を守るという意思が明確に打ち出されています。
 一番は公武合体実現のために不可欠な方針ですし、四番~六番には、日本が近代化に向かうために必要な政体の改革案が正確に設計されています。
 特に、四番と五番は、後に由利公正を通して五カ条の御誓文に生かされていることは、見やすい道理でしょう。いずれにしても、当時、これからの国家についてのグランドデザインをこれだけ示すことができた頭脳は他にいなかったと思われます。

 翌文久三年(一八六三年)二月、前年起きた生麦事件に対してイギリスが突きつけてきた厳しい要求には、直ちに『献白 外交問題につき幕府へ』を書いています。この文書では、かつての鎖国政策はもう維持できないとはっきり述べています。その上で今回のイギリスの申し立てには道理があるとし、それを拒否すれば日本への国際非難が集中し、有道の国という美名が一気に失われ、しかも人心も一致せず武備も整わない現状で戦争に踏み込んだりすれば、百戦百敗で惨憺たる状況になると、尊攘激派がけしかける好戦的な空気を強く戒めています。これは小楠の本音だったでしょう。

 ところで同年三月に上洛した将軍・家茂は、攘夷の日を五月十日と約束させられてしまいます。もちろん幕府にはそんな約束を守る気はさらさらありません。小楠は福井にあって、京都の下級公家の多くが長州の尊攘激派に影響され、暴論を吐いているのを見るにしのびず、「挙藩上京、大会同」という構想を打ち出します。五月、本来の出身地である熊本の社中に宛てて次のように書いています。

 《私は福井で大議論を発し、夷人どもが大阪湾にやってくる前に春嶽公に一藩の全兵力を率いてご上京いただき、朝廷、幕府に必死の献言を将軍様、関白殿下をはじめ朝廷、幕府の首脳が列席したところで、夷人どもの主張をよく聞き、論判の上で道理に従って鎖とも開とも決めようというのです。

 この構想は福井藩内で大いに盛り上がり、すわ決死の覚悟で上洛という雰囲気にまで高まったのですが、これは残念ながら挫折します。小楠の落胆は大きかったでしょう。
 ここで小楠がひそかに考えていたのは、外国人の「論理の力」を借りて開港拒否・攘夷の時代錯誤的な決定をひっくり返そうということです。最後の「論判の上で……鎖とも開とも決めよう」というところにそれが現われています。
 事態は、慶応元年(一八六五年)にパークスがイギリス公使に着任し、武力を背景とした各国公使らの強請によって、たちまち条約勅許がなされてしまいます。「論理の力」によってではなく、「武威の力」によって。
 ここには太平の世で眠り続けてきた日本人の情けなさが象徴されており、いまの日本の状態にそのまま重ね合わせることができます。

 時計の針を少し戻しますが、小楠は、主著ともいうべき『国是三論』(万延元年・一八六〇年)を著します。
 まず開国して外国貿易を行なうことの功罪から説き起こし、それでもそうせざるを得ない事情を力説します。
 開国の必要性については、このままでは世界文明に遅れをとり、武力攻撃と植民地化の危険を免れないということであまり問題はないでしょう。大事なのは、小楠がここで挙げている貿易の弊害についてです。
 小楠はその弊害を次のように説明します。これまで自足していた日本経済が貿易によって均衡を破られ、有用なものが流出し無用なものばかり入ってくる。また、国内の消費に不足が生じて、物価が騰貴する。また、貿易の利益はごく少数者に独占されてしまう。さらに、たとえ輸出によって金銀が増えても、それが国内の有用物を補うことにはならない。
 要するに、産業基盤が脆弱な国情または部門をそのままにして自由貿易をはじめれば、その国または部門は打撃を受け一般庶民が困窮するということです。これは実際に起こったことでした。
 いまでも「自由」貿易という美名に惑わされてこれを押し進めるべきだと唱える経済学者や政治家が多いですが、二国間に相対的な強弱の関係があるとき、無原則な「自由」貿易協定は、弱いほうの国に壊滅的な打撃を与えることは理の当然です。アメリカ離脱前のTPP参加などは、その典型だったのに、これに気づいて反対論を張った論客はごく少数でした。

 このあと小楠は、まず民の生活の安定こそが先決であると説きます。民を富ませるために必要な財源をどうするのかとの問いに対しては、生産に励ませればよいと端的に答えています。余剰生産物ができればそれは外国に売りさばけばよい、と。ただし、産物の管理は藩(国と同じ)が行なう。
 これについて、小楠は、当時にしてみればたいへん新鮮なマクロ経済理論を説いています。
まず一万両相当の銀札(藩発行というお墨付きがある紙幣。「一分銀」などと印刷してあればただの紙でよい)を作り領民に無利子で貸し付け、養蚕に当らせる。できた生糸を藩政府が集め、西洋の商人に売れば一万一千両の金貨を得る。紙幣が正金に変わってしかも一千両の純益が得られる。この純益を困窮している民の救済に当て、さらに利益が上がればそれを藩の事業に充てる。正金の増加に応じてさらに紙幣を発行して生産の回転資金とする。
 この発想は、初期資本主義国家そのものの原理を解き明かしています。まず価値の源泉を人民の労働に見出しているところが的確です。
 またこの理論は、手元に準備金がなくても藩(国家)に対する信認があれば、紙幣の流通が可能(つまり生産が可能)だという考え方になっていますが、これは今日の国家の通貨発行や銀行の貸し出しにおける信用創造と同じです。
 さらに、驚くべきなのは、市場での通貨膨張(インフレーション)の気配があればそれを銀局(日銀!)が吸収し、それをもって藩財政の資金にあてればよいと言っている部分です。これは、現在なら、日銀が国債の売りオペをやって得た資金を、必要な範囲で政府に回すというのと同じです。
 小楠はまた、鎖国時代と比較して、現在では産物さえあればこれを外国に売り出すことで正金が入ってくるので、紙幣を正金に代えるのに不自由はない、したがって紙幣の発行額をそんなに気にする必要はないとも説いています。
 つまり、経済の原点は藩内(国内)の生産性向上如何にかかっているわけで、存分に紙幣を市場に流すことで、かえって殖産興業が望めると説いているわけです。彼は、それまでのような倹約主義一本槍の儒教道徳的経済論者ではなく、資本主義の精神を心得た成長論者だったのです。



 小楠は、大政奉還(慶応三年十月、一八六七年十一月)と王政復古の大号令(慶応三年十二月、一八六八年一月)とのちょうどはさまで、『大政奉還後の政局について』という献白書を松平春嶽に提出しています。重要なものを箇条書きにしてみましょう。

 ①将軍家は滞京を続け大久保忠寛(一翁)など正義の士を登用し、良心を培養する。
 ②朝廷も反省し、天下一統の人心を一新する。
 ③議事院を建て、上院は公卿と大名により、下院は広く天下の人材を登用する。
 ④四藩(*)の面々が内閣を構成する。
 ⑤勘定局を建て、さしあたり五百万両ほどの紙幣を発行する。
 ⑥参勤交代は中止、藩主の妻を帰国させる。
 ⑦海軍局を建て、十万石以上の大名から高に応じて兵士を出させる。
 ⑧これまでの貿易は日本の大損となっているので、露、英、仏、米、蘭の五国および中国の天津、定海、広東の三港に日本商館を建てる。
 ⑨内地に商社を結成し、町人・百姓でも希望者は加入させる。
 ⑩各国へ公使を派遣し、国体の改正を布告する。
 *四藩とは、福井、薩摩、土佐、尾張(または宇和島)

 これを見ていると、近代へ向かう足音が高らかに聞こえてこないでしょうか。
 特に⑤は、先に述べた信用創造の原理にもとづいていて、原資の有無を問うていないところが斬新です。
 また⑦は、徴兵制の先駆けとなるアイデアで、これも近代国家建設のために欠かせないものです。
 さらに⑧と⑨は、列強との間に対等かつ積極的に経済関係を打ち立てようとする意欲満々の策と言えます。

 智恵者・小楠は明治元年(一八六八年)四月、新政府に召喚され、参与を命じられます。多忙を極めて体を壊し、じゅうぶんに国家のために働くことが叶いませんでしたが、それでも九月からは病を押して出勤しました。
 翌明治二年一月、仕事から京都の寓居近くまで帰って来た時、尊攘激派の生き残り浪士たちに暗殺されます。享年五十九歳。まだ戊辰戦争が終わっていないころでした。

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