小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

『西郷どん』への不可能な注文

2018年01月04日 00時58分49秒 | 思想



明けましておめでとうございます。

新年早々、少々ひねくれた話題を。

7日からNHK大河ドラマ『西郷どん』が始まります。
大河ドラマなどほとんど見たことはありませんが、多くの国民が視聴するメディアで西郷を取り上げるなら、ぜひ外してほしく
ないポイントがいくつかあります。

まず、彼は十一歳の時喧嘩に巻き込まれて右腕の神経を切り、刀を握れなくなりました。
軍人なので、さぞかし武勇に長けていたと思われがちですが、彼はいわゆる「武士」ではなく、味方を有利に導く方法を頭で考
えた軍略家なのです。

次に、彼は二度も島流しにあっており、鹿児島に帰った時には、すでに満36歳になっていました。
第一次長征で大活躍するまでわずか半年、薩長同盟まで二年、戊辰戦争で主役を演じるまで四年です。
幕末での彼の活動は意外に短いのです。

鳥羽伏見の戦いのきっかけを作ったのは、西郷の謀略です。
徳川慶喜の大政奉還によって倒幕の口実を失った西郷は、江戸および関東の治安を攪乱するために、同藩の益満休之助に秘策を授けています。
益満は相楽総三という有能な壮士と共に、江戸の薩摩藩邸に浪士や無頼漢を雇い入れて乱暴・狼藉をはたらかせます。
徒党を組んで富豪の家に押し入ったり、強盗・略奪・放火などを盛んに行なって、町人の間にパニックを起こさせたのです。
これは関東各地に飛び火します。
幕府打倒を名目にして無頼漢や貧農が続々と集まり協力します。

幕府は遂にたまりかね、薩摩藩邸焼き討ちの挙に出ます。
大阪で江戸からの飛報を受けた慶喜以下幕府の陣営は西郷の挑発に激怒し、それが高じて鳥羽伏見の戦いへと至るのです。
岩倉具視三条実美はすでにこの時期には、慶喜の辞官・納地の受諾回答を得ていて、上奏を待つばかりでしたから、武力討伐には反対でした。
結局戊辰戦争は、西郷の謀略に発し、その挑発にうかうかと乗った慶喜以下大阪の幕府軍、および元から薩摩藩に敵対意識を募らせていた会津・桑名両藩の血気によって引き金を引かれたと言えます。

筆者はここで、西郷を道徳的に非難しようというのではありません。
今の平時における道徳感覚からすれば、とてもほめられた話ではありませんが、事は当時の戦争です。
まずは戦いに勝つために手段に躊躇しないという、軍略家としての決断力と合理性に着目することが大事だと言いたいのです。

反面、西郷という人は、権力の座に恋々とするようなタイプではありませんでした。
明治二年、五稜郭開城後、中央政府に残留を求められますが、断って郷里に戻ります。
また後に新政府の要請で参議や陸軍大将を勤めますが、政府中枢部で意見が通らないと、さっさと辞職願を出したり、鹿児島に帰ってしまったりします。
帰ると、温泉に浸かってのんびり過ごすのです。

征韓論に関しても誤解があるようです。
西郷は征韓論者の雄であるとふつう考えられていますが、ことはそう単純ではありません。



明治三年、同藩の横山安武が、当時から盛んだった征韓論に反対して、「国がこんなに疲弊しているのに対外戦争など起こしている場合か」という意味の諌言書を太政官正院の門に貼り付けて自刃するという事件がありました。
鹿児島にあった西郷はこれに衝撃を受け、奢る新政府と人心との乖離を憂慮して、せめて薩摩出身の軍人・役人だけでも郷里に戻そうと計画します。
これを知って岩倉と大久保利通が、西郷の出仕を促すために鹿児島までやってきます。
しかし西郷はなかなかウンと言わず、弟・従道(つぐみち)の粘り強い説得で、政府改革に乘りだすことをしぶしぶ承諾するのです。

新政府に対する懐疑と批判は、『西郷南洲遺訓』四の次の文句によく現われています。

しかるに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじきなり。今と成りては、戊辰の義戦もひとえに私を営みたる姿に成り行き、天下に対して戦死者に対して面目無きぞとて、しきりに涙を催されける。

彼が中央政府の政策に関与したのは、弟の説得にしぶしぶ承諾してから明治六年九月の下野に至るまで、わずか二年八カ月ということになります。
この期間だけを見ても、彼が権力に恋々とするような意思など片鱗もなかったことがわかります。

征韓論は幕末からくすぶっていたのですが、朝鮮が維新政府の国書を拒絶したことが直接のきっかけです。
板垣退助が武力を背景とした修好条約締結(征韓論)を主張したのに対して、西郷は、武力を用いず、自分が平服で全権大使になる(遣韓大使論)ことを主張しました。
西郷案が通るのですが、明治天皇の意向で岩倉らの帰国を待つことになります。

明治六年九月、岩倉らが帰国すると、岩倉、大久保、木戸孝允は内治優先を唱え、西郷と対立します。
その結果、西郷は辞職し、続いて板垣、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平ら政府要人、さらに征韓論・遣韓大使派の軍人・政治家・官僚ら六百名が次々と辞職します(明治六年の政変)。

これは、維新政府の結束力の欠如を示すとともに、西郷の実行力に信頼を寄せる人々がいかに多かったかをも表しています。

西郷と言えば、だれしも西南戦争と結びつけますが、これにも一部に誤解があるようです。
西南戦争は、西郷が領導したのではありません



帰郷した西郷の前には、中央政府に不満を持つ血気盛んな若者が溢れていました。
これを統制する必要から有志者が西郷にはかり、私学校を創設します。
この私学校はもちろん軍事教練と結びついていましたから、結束が強まって世論を牛耳るようになり、それが戦争気運へと発展していくのです。
西郷は、若い不満分子の暴発を必死にコントロールしようとしますが、遂に抑えきれなくなり、悩みに悩んだ挙句、首領の位置に立たざるを得なくなるのです。
いかに維新政府に批判があったとしても、せっかく自分も参画した維新政府の理念を自らぶち壊すような反乱に率先して加担することを潔しとしなかったからでしょう。

こうして西郷の動きを見てくると、二つのことが言えそうです。

一つは、彼がもともと質実剛健を尊ぶ武人気質で、戦いを好むタイプではある一方、大軍人らしい寛大で鷹揚な精神の持ち主だったことです。
自らの役割に忠実で、いったん引き受けた以上は猛然と取り組みますが、それが達成されると「わがこと終われり」として、さっさと私生活を楽しむ境位に落ち着こうとします。
苦労人独特の腹の据わった態度なのです。

もう一つは、彼の心のよりどころが、あくまで郷里の薩摩にあったということです。
西南戦争は、この当時士族の反乱として中央権力を脅かした最大の戦争ですが、西郷がその首領として仕方なく押し立てられたのも、彼の中に郷土愛が深く根付いていたからこそでしょう。

西郷の心情が還帰していく共同性とは、自分が生まれてきた時からなじんできた土地と人々の生活と言葉、それらと温かい血を通わせることのできる範囲に限られていました。
それは、言葉で表すなら「社稷」(しゃしょく)と呼ぶのが最もふさわしいでしょう。

これに対して、西郷と同郷人で刎頸の友として共に倒幕のために力を尽くした大久保は「近代国家」という超越的な観念のために殉じた人でした。
明治六年以後、彼はほとんど独裁者として、その目的のために強引に邁進していきます。
大久保の目指していたのは、あくまで西洋並みの近代国家であり、その実現のためには冷酷なまでの徹底性が要請されました。
大久保はそれにふさわしい人でした。
自ら故郷を捨てて中央政権にとどまり、刎頸の友を敵とすることも厭わなかったのです。
それは必要な方向性ではありましたが、そのために払われた犠牲が数え切れないものであったことも事実です。

土地に結びついた温もりと懐かしさが保存された「社稷」と、私生活から超越し、法や制度を整備して冷厳に人民を治める「近代ナショナリズム」。
後者が前者を下位におとしめていく過程こそ、日本近代国家の形成を意味するのですが、西郷と大久保が袂を分かつ点もそこにあったと言えるでしょう。

近代ナショナリズムは、大久保以後も、この矛盾を暗部に抑え込みながら進むのですが、これからNHKで始まる『西郷どん』で、こうした近代史のねじれをうまく表現できるのかどうか。
筆者は、はなはだ疑わしいと思っています。
ただありきたりの「維新史の悲劇のヒーロー」として描かれるだけなのではないか、と。

西洋近代の帝国主義の歴史をグローバリズムの一形態と見るなら、避けられなかった日本の開国・近代化の歴史も、グローバリズムの受容と抵抗の歴史と見ることができます。
そのとき、西郷が守ろうとしたものが何であったのかを正確に読み取ることは、現在の私たちになにほどかの教訓をもたらしてくれるのではないでしょうか。

福沢諭吉は、西郷戦死の直後に筆を執って西郷を擁護した『丁丑公論』(ていちゅう
こうろん)を書きます。
その緒言で、彼は次のように宣言しています。

今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたるものにて、余輩の考えとは少しく趣を異にするところあれども、結局、その精神に至りては間然すべきものなし。》
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2 コメント

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Unknown (ランピアン)
2018-01-21 20:04:39
強く共感いたしました。

先生ご指摘のとおり、西郷の偉大さは社稷と近代国家、そして近代と反近代、相反する双方の思潮への理解と共感を併せ持っていた点にあり、彼の悲劇性もそこに淵源するのだと思います。

ゆえに彼は、大久保のような近代的なナショナリスト、反近代的思考をもつ草莽の志士、或いは宮崎八郎のようなルソー的民権論者といった、一見相互に相反する主張を持つ人々の結節点となりえたのでしょう。

しかし、そうした点への目配りをNHKに期待できるかというと、先生も仰るとおり難しいのでしょうね。なにしろ西郷を「愛に溢れたリーダー」として描くそうですから。
ランピアンさんへ (小浜逸郎)
2018-01-22 14:22:57
お久しぶりです。

相変わらずの鋭いコメント、ありがとうございます。

西郷が、「大久保のような近代的なナショナリスト、反近代的思考をもつ草莽の志士、或いは宮崎八郎のようなルソー的民権論者といった、一見相互に相反する主張を持つ人々の結節点となりえた」というご指摘、まことに的を射て妙なるかな。

この三つ、互に入り乱れながら、その後の日本近代思想史を形成し、今に至るまで(ただしその緊張感をだいぶ低減させながら)、左と右、政権担当勢力という
かたちでその影を引きずっていますね。

じつはこの稿、すでに脱稿済みで五月刊行予定の『福沢諭吉と明治維新』(仮)の一部を抽出し、それと大河ドラマへの疑問とをくっつけた代物です。

福沢の思想も、『丁丑公論』に見られるとおり、西郷とシンクロする部分があったわけで、そのあたりの複雑さをどううまく処理して取り込み、現代日本の体たらくへの警鐘として活かせるかが、近刊の見どころとなるはずなのですが……

またよろしく。

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