山鳩通信

日常の発見をめざして

宮床

2017-05-14 08:57:57 | 随想

   二〇年ほど前の晩秋、私と妻は、黒川郡宮床で小学校校長をしていたTさんに招かれたことがある。
   宮床は、歌人原阿佐緒の出身地として今は有名であるが、私たちが行ったときはまだ素朴な山村の面影が残っていた。Tさんの案内で、阿佐緒の生家や田舎道を二時間ほど散策した。ゴム長をはいたTさんは、私たちとともに歩きながら、この美しい地を見せることに誇りを持っていられたようである。                   
   ちょうど秋の山々が、紅葉期を過ぎ、黄と茶の色が勝りはじめ、水彩画のような風景を呈していた。刈った稲が畦道に並べられ、垣根に囲まれた茅葺きの農家、大根畑の濃い緑、朱い柿の実などで、すべてが豊穣に満ちていた。清水の流れる川で、農婦たちが大根を洗っていた。Tさん宅の裏庭に水の涸れた池があり、枯葭の一群がやや傾き加減に突っ立っていたのにも詩情をそそられた。             
   黒川郡は宮城県の中央部を東西にまたがって位置し、私の郷里はその宮床の反対側、東端の大郷町である。奥羽山脈により近い宮床は、私の里にはない独特の雰囲気と透明さがあった。仙台に出て、長く町の中に暮らしていた私は、Tさんのお蔭で久しぶりに宮床を訪れることができ、改めてこの地の美しさに気づいたのである。
   阿佐緒はこの宮床に生まれ育ち、美貌の才女として、アララギの斎藤茂吉、島木赤彦らの指導で数々の歌を作った。アインシュタインの 「相対性理論」 の紹介者として名高い石原純との恋愛などでも悩みそれを歌った作品も多く、情熱の歌人と言われているが、私は、宮床の自然を詠んだ歌にひかれていた。Tさんと歩いてみて、宮床の美しい自然がこの歌人を生んだという実感を持った。波乱の人生を歩んだ阿佐緒は、たびたび宮床に帰り、傷心を癒したようである。私はTさんに礼状を書いたりして、その後何箇月もこのときの感動の余韻を大切にしていた。
   それから十五年後の一九九三年十一月に、弟の車に乗せられてここをまた訪れたら、なんと立派な自動車道が縦断していたり、ダムができたりで、かなり変貌していたのである。洋風作りの阿佐緒の生家は、記念館として保存されてはいたものの、囲りの自然が壊されれば詩情もまた衰退することを、私は痛切に思い知らされなければならなかった。それが私にとっても少なからぬ思い出の深い地だったので、特に強く印象されたのである。  
   二〇年前この地を見たことが、今は貴重になってしまった。故人となられたTさんは、草葉の蔭からこの宮床の変わりようをどう見ていることだろうか。かつて私たちに好意を寄せ、招待して一生懸命もてなして下さったTさんとその家族の方々のことが忘れられない。                            

 

1998 ・ 秋   

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