產田ノ眞名井戶ノ神ノ末裔ヨリ

天に導かれるままに、旅紀行を綴っていきまする。

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2017年7月6日 富士山 7 ついにやってきた久須志神社

2017-07-13 21:36:46 | 中部
 九合目からすぐそこに、頂上への最後の鳥居が見えるのだが、体の重いこと重いこと。呼吸もおかしいし、もはや汗すら出ない。体が何もかも受け付けない状態になっていくんだよね。これはやばい・・・ゴール前で思いっきりみんなに抜かれていく感じを味わった。まあ、仕方がない。

 鳥居にようやく届いて、あと少しという階段がまたまた苦しい。NOOOOO!って感じだったね。

 ま、そんなこともあったけれども、ついに到着し、まず探したのが久須志神社の社號標。そう、この写真が頂上について最初にしたことである。だって目的地の一つなのだからね。今は、富士宮の浅間大社に属しているが、自分はここは登ってきた須走口の麓にある東口本宮冨士浅間神社の奥宮であると思っているし、そうあるべきだと思っている。歴史の醜い争いの結果、今のようになっているがそれが正当であろうからね。だから、ここが一つのゴール。

 いろいろと思うところあって、わざと、東口本宮のある須走口を選んだからね。

 しかし、山頂部も広いね。ここから、まだまだしんどい旅は続く…

1.見えてきたが遠い久須志神社の鳥居



 

2.鳥居


  

3.頂上に続く石段



4.少し下方を見る



5.頂上の社號標


 
6.社殿

 

★久須志神社★ 静岡県駿東郡小山町須走 富士須走口山頂

・祭神は大名牟遅命、少彥名命。
・富士山本宮淺閒大社東北奧宮(末社)。
・標髙三七一五米に位置に鎭座。
・元は藥師堂と呼ばれており、東口本宮冨士淺閒神社が藥師堂の開帳、入佛などを行っていたため、冨士淺閒神社が管理していたものである。
・氣候などの影響により建物が朽ちていたため、元祿十五年(1702)、淺閒大社が藥師堂を造營している。
・入佛の權利などを巡り、淺閒大社と東口本宮が爭った經緯などもある(元祿の爭論)。安永の爭論においては安永八年(1779)の幕府裁許狀により、藥師堂の開帳や扉の封印は東口本宮の冨士淺閒神社が取り計らい、富士山本宮淺閒大社の僧侶による開帳の際は錢二百分を受け取ることなどが決められた。幕府の最終的な結論には徳川家康が淺閒大社を信仰していたことが大きく影響しているという。
・藥師堂という名は廢佛毀釋により改名され、それと同時に淺閒大社の末社として管理されることとなり、現在に至る。
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くやしい
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