神戸RANDOM句会

シニアの俳句仲間の吟行・句会、俳句紀行、句集などを記録する。

2014=水の旅 盛岡・宮古  播町

2016-02-12 | 俳句紀行

 

 

 

 

 このところ東北への一人旅をしているが、旅程を組むとき困惑するのは、JR線の本数の少なさである。一昨年、岩手、秋田を訪ねたときも、いわて花巻空港に朝到着し、まずは釜石線で花巻や遠野へと考えたが、本数が少なすぎ、行ったとしても釜石から宮古までの山田線は不通のままなので、あきらめざるを得なかった。

 

 そこで空港からバスで1時間、盛岡へ。東北5県でも地味なイメージの県都をレンタサイクルで一日かけて回るつもり。盛岡は川の街である。

 

  五月川中津北上雫石

 

 駄句に注釈するのもおこがましいが、五月川は夏の季語、梅雨で水嵩の増した川をいう。城跡やレトロな洋風建築のそばを流れる中津川、転勤族に「二度泣き橋」と呼ばれた開運橋が架かる北上川、橋長500m近い杜の大橋が架かる雫石川。この三つの川が合流し、北上川は南へ、遠く宮城県石巻市まで流れ、太平洋へ。

 

 盛岡駅から徒歩数分で盛岡のシンボル開運橋へ。原敬の句に「日盛りや色赤黒き鉄の橋」がある。

  橋のたもとの佐々木自転車店で自転車を借り、旭橋からJR線を越え、さらに雫石川にかかる杜の大橋を渡ると、岩手県立美術館。郷土の萬鉄五郎、松本竣介、舟越保武の作品、とりわけ入口にある舟越の「道東の四季―春―」のブロンズ像が美しい。保武といえば長崎の二十六聖人殉教記念碑だが、いまや息子の桂が有名。この日の夕方、駅のそばの県立図書館の入っている県民情報交流センター「アイーナ」を訪れたら、舟越桂「風の日のスフィンクス」があった。

 

 

 駅北の旧市街地にくらべ、美術館のある雫石川の南は、開発途上で空き地が多く、道路だけが広い。原敬の生家があるはずと探しているうちに道に迷ってしまった。観光用の地図は役立たず、自転車で右往左往し、道で主婦、学生、そしてコンビニ店員にと三度駅への道を尋ね、ようやく雫石川盛南大橋へ。JR線を越え、北上川不来方(こずかた)橋を渡り、中津川沿いに啄木・賢治青春館へ。建物は明治43年(1910)にできた第九十銀行本店。

 

  ふるさとの山に向ひて

  言ふことなし

  ふるさとの山はありがたきかな(啄木)

 

  弧光燈(アークライト)にめくるめき

  羽虫の群のあつまりつ

  川と銀行木のみどり

  まちはしづかにたそがるゝ(賢治)

 

 盛岡は石川啄木、宮沢賢治の街でもある。盛岡駅前には啄木のこの歌碑がある。「山」は北上川の向こうに見える岩手山だろう。盛岡城跡には賢治の「岩手公園」の詩碑がある。「川」は中津川だろう。

 

 中津川に沿って紺屋町番屋をみて、擬宝珠の上ノ橋から右岸を戻り県公会堂横の原敬像、裁判所内の石割桜を見て、西へ材木町へ。材木町は「いーはとーぶアベニュー」として、光原社の店舗付近は賢治像などモニュメントが並び、賢治一色の街。夕顔瀬橋から北上川の散策道に入る。旭橋と開運橋の間は「啄木であい道」と名づけられ、当方もここで自転車を休め、「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」の心境に。もっと川向うに見えるのは銀河鉄道のイラストと賢治のシルエットの材木町の看板塔だが、遠くには岩手山が見える。

 

 

 

 ――或る海辺に小さな村落があった。戸数も少なく、人影もまばらだ。が、その村落の人家は、津波防止の堤防にかこまれている。防潮堤は、呆れるほど厚く堅牢そうにみえた。見すぼらしい村落の家並に比して、それは不釣合なほど豪壮な構築物だった。

 私は、その対比に違和感すらいだいたが、同時にそれほどの防潮提を必要としなければならない海の恐しさに背筋の凍りつくのを感じた。(吉村昭『三陸海岸大津波』)

 

 三陸海岸のその村のその堤防を見るのが旅の第一の目的だった。岩手県下閉伊郡田老村(現宮古市田老地区)をネットで探しているうちに、岩手県北観光の「陸中海岸うみねこ復興応援号」という日帰りバスツアーが見つかった。

 

 盛岡8時発、ツアー客約20名。国道106号線、JR山田線、閉伊川の三本が併走しながら盛岡・宮古の山中を横断する。ときにのどかな無人駅や新緑の木々の間から水のきらめく渓流が見える。快適な2時間のバスだった。

 

 宮古から新たな数名を乗せ、宮古といえば森進一の「港、宮古、釜石、気仙沼」という港町ブルースしか思い浮かばないが、しかし宮古湾近くでガイド嬢が自ら涙ぐみながら津波の話をはじめ、3.11モードに。付近は重機の行きかう復興工事の真っ最中。寒冷地には不向きな仮設住宅ははや朽ちかけている。

 

 浄土ヶ浜には1960年チリ地震津波の記念碑があり、「潮汐が異常に退いたら津波が来るから高い所へ避難せよ」との表示。観光船は海藻を練り込んだウミネコパンで餌付けし、船にウミネコの群がるのが名物。だが船のガイド嬢も悲痛な体験談を語る。

 

  仮設家といへど路地あり水を打つ

  海猫の浜に碑のあり春三度

 

 宮古駅前に戻り、各自自由な昼食タイム。冨手淳『線路はつながった――三陸鉄道復興の始発駅』に「魚元」という店のことが書かれていた。震災後5日目には一部で運転再開など復旧に奮闘する三鉄へ贈られた救援物資の米を「魚元」に持ち込んでにぎりめしにしてもらったり、店から差し入れもいろいろ。いちご弁当(ウニとアワビを煮たいちご煮をご飯にのせた弁当)という名物駅弁をつくっている縁らしい。その店へ行ってみた。炉端割烹「魚元」は震災で壊れた大きな生け簀を囲んだカウンターがあり、老女将にビールを注いでもらって、海鮮丼。海から1キロ近く離れているのに床下浸水があったという。

 

 

 

 13時15分発三陸鉄道北リアス線宮古駅から30分ほどで田老駅に着く。2両編成の車両は、朝ドラあまちゃんブームもあって、満員。

 北リアス線は山の中腹を走っており、トンネルも多い。道路が不通になったとき、人々は線路を道路代わりに利用したという。

 

 田老駅は10m近い築堤の上にあり、例の“万里の長城”津波防潮堤や田老湾が一望できる。テレビで繰り返し見た1、2階部分が鉄骨だけになった観光ホテルも遠望できる。

 堤の上に立って、50代と見える男性ボランティアから説明をきく。津波の惨状と復興プラン、最後にボランティアは田老第一中学校校歌を歌ってくれた。

 

  防浪堤を仰ぎみよ

  試練の津波幾たびぞ

  乗りこえたてしわが郷土

  父祖の偉業や跡つがん 

 

 田老地区は、明治29(1896)年の大津波M8.5で全戸336戸流失、犠牲者1859人(陸地生存者36人、漁従事生存者40人)、漁船流失540隻。昭和8年の大津波M8.3で犠牲者911人、人家流失428戸、漁船流失909隻。

 そして平成23年、東日本大震災M9.0、犠牲者181人、罹災戸数1691戸、漁船流失855隻。

 

 ちなみに花巻出身の宮沢賢治は、明治29年生まれ、昭和8年没である。

昭和9年、第一防潮堤着工(昭和33年完成)1350m、防潮林植栽。昭和41年、第2防潮堤完成582m。昭和54年、第3防潮堤501m完成。平成15年、「津波防災の町宣言」。 

 

  寄り添ふという語疎まし青簾

  日本の鬱極まれり梅雨籠

 

 高山文彦『大津波を生きる――巨大防潮堤と田老百年のいとなみ』は、吉村昭『三陸海岸大津波』の続編ともいうべき書である。「津波防災の町宣言」の草案を書いた職員の話が出てくる。

 

 田老の津波は湾から北上する。「この(第1)防潮堤はその方向にさからわず、むしろできるだけ寄り添うような感じで考案されました。旧田老村方向へなだれ込もうとする波を防潮堤で受けて、長内川に流す。受け流す、という考えかたなんです。こうして津波に立ち向かうのではなぐ自然にさからわずに受け、勢いを減殺して、津波から逃げる時間を確保しょうとしたんです」

 ところが、今回ここだけ破壊された第2防潮堤は、「長内川を跨いでしまったんですね。そして津波を正面から受けとめるように設計されているんです。長内川に津波を逃がしてやらなければいけないのに、水門をつくって閉ざそうとしたんですね」。

 

 第1防潮堤に立つと、第2防潮堤も水門は破壊されている。川がない。水もない。長内川が消滅してしまっている。職員はいう。「人は川を跨がせようとした。自然に対抗しょうとしたんです」と。

 「大津波に襲われたときなんて、防災無線の呼びかけも、警報も、人の耳にはいりません。そういうものなんだと考えたうえで、対策をはからなければいけないんですが……」

 その場に立ってみると、人家から防潮堤によって美しい田老湾は見えないし、実際に津波が襲来しても見えないことに気づく。復興プランでは海面から14mに嵩上げし、集落は高台に移転し、田老駅は町の中心部におくという。

 

 

 

 神戸の震災のとき、テーマは水だった。飲む水、カップ麺の湯、風呂の湯、トイレの水、火事を消す水……。しかしここでは津波は人家を飲み込み、川そのものを消滅させてしまった。

 「うみねこ復興応援号」は、この後竜泉洞を見て、帰りは岩泉を経由し国道455号線を通った。この小本街道は“南部牛追いの道”の表示があった。小学校分校が道の駅となり、にわかに雲行きの怪しくなった空は山背だとガイド嬢から説明があった。

 

  三陸にヤマセ仮設の朽ちかけて

  山法師溢れ峠に牛追唄

  廃校のいま夏菜売る道の駅

 

 翌日、秋田新幹線で角館へ。ここでもレンタサイクルで、青柳家、石黒家など武家屋敷、平福記念美術館を見て、古城橋から内川橋まで桧木内川の葉桜の土手を自転車を押しながら歩いた。葉桜の影を落とした川はゆっくりと流れている。

 神戸出身の映画監督加藤泰は、画面にしばしば橋を登場させ、名シーンをつくったが、「橋を渡ると別世界」と語っている。この旅に「別世界」はなかったが、角館の桧木内川には、未読だが、1965年に発表された高井有一『北の河』という作品がある。

  葉桜や母入水せし物語

  だが橋はいい、川もいい。川の上には遮蔽物がない。川の上には空だけがある。

(2014.6.20~22)

 

 

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