神戸RANDOM句会

シニアの俳句仲間の吟行・句会、俳句紀行、句集などを記録する。

2000=宇和海途中下車  播町

2013-02-12 | 俳句紀行


宇和海途中下車


 司馬遼太郎『街道をゆく14 南伊予・西土佐の道』にそって、1泊2日の旅を、数人の仲間としたことがある。
 岡山まで山陽新幹線。岡山から特急しおかぜで松山へ。道後温泉本館で湯浴び。松山から終着駅宇和島まで特急宇和海で、内子、卯之町でそれぞれ途中下車、そして宇和島で1泊。翌日はレンタカーで四万十川にそってドライブ、高知から飛行機で伊丹まで。2000年8月の暑い日だった。

 俳句の本場、伊予松山。句碑の数、200を超えるらしい。

  ふらんすに夏痩なんどなかるべし   子規
  永き日やあくびうつして分かれ行く  漱石
  寝ころんで蝶泊らせる外湯かな    一茶




 道後温泉本館は、明治27(1894)年に建築された三層楼の風格ある建物。風格あるのは建物だけでなく、1階の大浴場神の湯、小さい方の霊の湯も…。

 湯上がりには、炭火で沸かしたお茶が、天目茶碗に入れられて出てくる。霊の湯、3階個室 1,240円だった。
 天目とは、(中国浙江省天目山の寺院で使用していたのを五山の僧などが持ち帰って賞したところからいう)茶の湯に用いる、浅く開いたすり鉢形の茶碗。また、すり鉢形をした茶碗の総称。天目茶碗。

 漱石『坊ちゃん』の一節に、
「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目(てんもく)へ茶を載せて出す」
 とある。昔も今も変わらない。そういえば「坊ちゃんの間」というのがありました。そこでわたしも一句。

  天目や坊ちやんの間てふ夏座敷



 内子で途中下車。内子座は、道後温泉本館とならぶ木造大建築。正面に太鼓櫓を据えた入母屋造の木造瓦葺2階建て。大正5(1916)年(大正5)に建てられた。回り舞台や花道、枡席など、芝居小屋の情緒を楽しんで、一句。

  内子座に坐せばかぼそき祭笛

 じっさいに祭笛がきこえたわけではない。
このあたり七夕は8月7日なのか、かどかどに大きな笹にはなやかな飾りつけ。

  七夕やおなじ歌かくあねいもと  桜朶
  七夕や髪濡れしまゝ人に逢う   橋本多佳子
  宇和海や西日照りから夕陽まで

 途中下車は忙しい。なにしろ1時間に1本である。つぎは卯之町で途中下車。わたしにとってこの旅の目玉はこの町である。司馬遼太郎『街道をゆく14 南伊予・西土佐の道』の一節を引く。



 
 ――やがて町並はいよいよ古くなり、構えも豪壮になった。
「このあたりは何というのですか」
「仲之町(なかのちょう)といいます」
 土地の人が教えてくれた。(略)
 百年、二百年といった町家が文字どおり櫛比した、200メートルほどの道路の両側にならんでいる。こういう町並は日本中にないのではないか。(略)
 拙作の『花神』に二宮敬作が出てくる。シーボルトの娘イネ(伊篤)も出てくる。
「おイネさんが蘭学を学ぶために卯之町に二宮敬作のもとにやってくるのは安政元年ですから、おイネさんが見た卯之町仲之町といまのこの町並とはさほど変らないのではないでしょうか」
「シバさん」
 須田画伯が画板を胸に当てて寄ってきた。
「ここは大変な町(ところ)です。京都だって奈良だってこんな一角がありますか」
 目が、血走っている。
    (司馬遼太郎『南伊予・西土佐の道』)

 わたしは古い町並みが好きである。だから、これを読んだとき、すぐにでも行きたくなった。ところが四国の終着駅へなど同行してくれる仲間がなかなか見つからなかった。やっと実現した。安政元年からちょうど150年後である。

 いま手元に『花神』がない。吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』から引いてみる。シーボルトの娘お稲は、父の高弟で宇和島藩領卯之町の蘭方医・二宮敬作に師事するため、はるばる長崎から伊予にやってくるのである。笠置峠でお稲を迎え、二宮敬作は、「大きくなられた、美しくなられた、立派になられた」と、感動をおさえきれぬように言うのだ。

 ――お稲は、敬作の後について家並の中に入っていった。
 敬作の家は、中ノ町にあった。その一郭は、卯之町の商業の中心地であった。造り酒屋の大きな家や土蔵が並び、白壁妻入の商家も軒をつらねている。旅宿では軒提燈に灯が入れられ、人通りがしきりだった。
    (吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』)

「おイネさんが見た卯之町仲之町といまのこの町並とはさほど変らない」とすれば、安政元年にタイムスリップできるのである。しかし期待は無残に打ち砕かれた。

 どこがや? 日本中にない町並? 京都だって奈良だってこんな一角がありますか、だって? 目が、血走っていいた? 司馬遼太郎の『南伊予・西土佐への道』は、1978年に書かれた。それから22年が経過しているのだ。無理もないか。
 
 観光客を想定していない閑静な町ではあった。しかし道後温泉本館や内子座、内子の町並をみてきた目には、いかにも質素で、色彩がなく、簡素な町並だった。何もない町並といったほうがいいだろう。事前のイメージと現実との落差がこんな激しかったのは、国内でも海外でもなかった。



 開明学校の建物とその内部は一見の価値あり。しかし、逃亡中の高野長英が、二宮敬作を頼って身を隠した家。もともと2階建ての建物の2階部分だけが、雑草のはえた畑地の奥に残されている。見ないほうがよかったような小屋である。そこで一句。

  卯之町においねを訪はば草いきれ

 卯之町は期待が大きすぎて落ち込んでしまったが、夏の旅はその後快調に続いた。その日、宇和島につき、駅構内のホテルから終着駅の線路をながめ、町に出て活盛り、鯛めし、ふくめんなどの郷土料理を食べ、翌早朝に町中を歩き宇和島城をぐるりとまわり、そしてレンタカーで四万十川をめざした。もう一句。
  
 
  四万十に足抛りなげ夏の果


  


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