神戸RANDOM句会

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2016=オリーブの島貝寄風にこぞりきて 見水

2016-04-02 | 俳句紀行

見水の俳句紀行

 

オリーブの島

貝寄風にこぞりきて

 

 うぐひすや軒去らぬ事小一日  一茶

小林一茶は、西国行脚の36歳の春、小豆島に足をのばし、この句を詠んだ。

小豆島は、晴れた日には島影が見えるほど、神戸から近い。仔牛の形をした島には、寒霞渓や「二十四の瞳」の舞台、オリーブ園があり、古くから醤油や素麺が造られている。

本州と四国が3つのルートでつながった今でも、小豆島へは船で渡るしかなく、神戸港から3時間、姫路の飾磨港から90分、岡山の日生港から60分かかる。

2016年2月初め、いつか行きたかった小豆島に初めて渡った。

 島渡る船を待つ人春を待つ

神戸を朝早く出た。山陽自動車道の赤穂で降りて日生港へ。平日で待合所は人が少なく、聞こえてくる会話ものんびりしている。午前10時過ぎのフェリーに乗り、一路南下する。

 

小豆島は人口3万人、面積は淡路島の1/4だが、ネットで見ると、知らなかった観光スポットが満載。

「エンジェルロード」や「お猿の国」が面白そうだし、最近、実写版「魔女の宅急便」や角田光代の「八日目の蝉」のロケが行われたというのも興味深い。

宿泊は、「エンジェルロード」が目の前という小豆島国際ホテルを予約。付近を確認すると、「尾崎放哉記念館」もある。

 

大部(おおべ)港に着岸。大部港は仔牛の形をした小豆島の背中の真ん中。標高600mの寒霞渓の山上に登る道路もあるが、無理をせず、海岸沿いに土庄(とのしょう)町を左回りに走る。

道の駅・大阪城残石記念公園で車を止めた。

400年前、徳川幕府の大阪城再築にあたり、小豆島でも石が切り出され、筏で運ばれた。積み残された石が島のあちこちに置かれ、長い年月が過ぎた。

 残石の並びて東風に吹かれけり

とりあえず仔牛の首のラインを南下し、アゴのあたりの小豆島国際ホテルをめざす。

山道に入ると「小豆島大観音」が見えた。全身が白く顔立ちが美しい。山を下ると人家が多くなり、オリーブや蜜柑の木。西側の山麓には樹齢1500年以上という宝生院の真柏(シンパク)らしき大木の姿も。通りがやや賑やかになり、幅9mの世界一狭い海峡・土渕(どぶち)海峡を越えると、小豆島国際ホテル。手前に「尾崎放哉記念館」の案内板も見えた。

島内を1/3ほど走って、島の大きさがほぼつかめた。昼食にはまだ少し早いので、仔牛のお腹の部分にある「道の駅・小豆島オリーブ公園」まで走る。

 春の道行き交う軽の小豆島

海沿いのメインロードは片側1車線ずつ。軽自動車ばかりだが、この小さな島にはよく似合っている。オリーブ畑が続き、道を折れて坂を上り、道の駅・小豆島オリーブ公園に着いた。

 

小豆島はミロのビーナスを出土したギリシャのミロス島と姉妹島を結んでいる。この高台の道の駅は、ギリシャ風の建物や広場が配置されて観光客が多い。

リボンの付いたホウキを担いだ女子グループも。実写版「魔女の宅急便」のロケ地なので、施設が空飛ぶホウキを無料で貸出しており、魔女のキキになりきっている。

眺めのいいレストランで、「オリーブコロッケのサンドイッチセット」を注文。紙に包んでハンバーガーのようにして食べたがボリュームがあった。

ついでに店の人に「魔女の宅急便のパン屋はどこ?」と聞いた。

 

食事のあと、資料展示と土産物ショップのある「オリーブ記念館」を一巡。

明治の日本は、外国からいろんなものを取り入れた。マグロなどの保存用にオリーブオイルを国内で自給しようと、最初神戸でオリーブ栽培を試みた。その木は湊川神社内に残っているとか。

その後、本格的な栽培試験を鹿児島・香川・三重で行った結果、小豆島で成功し、小豆島はオリーブの島になった。

昭和34年に輸入が自由化され、イタリアやスペイン産のオリーブオイルが家庭でも使われるようになったが、小豆島産オリーブオイルは国産ブランド品として根強い人気があるらしい。

「魔女の宅急便」の「グーチョキパン店」を移築したショップの横を抜け、オリーブ畑の中をミロス島から贈られた白い風車まで歩いた。春の陽ざしが心地よい。

 ミモザの黄オリーブの銀海の青

次は、入江の先にある「二十四の瞳」の岬の分教場へ行こう。

壺井栄が「二十四の瞳」を書いたのは1952年(昭和27年)。この原作を元にした木下惠介監督・脚本、高峰秀子主演の映画「二十四の瞳」は1954年(昭和29年)に公開。

当時まだ幼かったので、映画館でこの映画を見た記憶はないが、最近、たまたまBSで放送していたのを見た。悲しい物語だが、不思議に明るい映画だ。

 海うらら岬へ続く自転車道

岬までの道路を走っていくと、「二十四の瞳館」として残る岬の分教場があり、さらに先に「二十四の瞳映画村」があった。1987年に田中裕子主演で映画がリメイクされた時のオープンセットを残したテーマパーク。

入ると右手に「壺井栄文学館」がある。

壺井栄は、醤油樽の職人の子として生まれ、14歳から結婚する25歳まで島の郵便局や村役場に勤めた。館内は東京で暮らした家の中を再現し、同郷の夫で詩人の壺井繁治や作家・黒島傳治の遺品も展示。ビデオコーナーでは、倍賞千恵子のナレーションで、宮本百合子や佐多稲子と親交を持ちながら作家としては遅咲きだった壺井栄の生涯を映像で紹介。

 桃栗三年柿八年柚子の大馬鹿十八年 壺井栄

 

二十四の瞳の群像、昭和初期の漁村や学校、波が寄せる浜にも降りてみた。映画村は、ひなびた風景が再現されていて、どこか切なく懐かしい。

 二十四の瞳まばゆい春岬

1950年代の邦画黄金時代がテーマの「キネマの庵」に入ると、ミゼットが置かれ、各映画会社のブースごとに当時人気の映画を映し、名画のポスターを展示。

高峰秀子の「二十四の瞳」のポスターには「文部省特選」の文字がある。

嵐山光三郎は、小学校6年のとき、学年全員の映画鑑賞会でこの映画を観にいき、見終って生徒も教師もおいおい泣きながら帰った、と「文人暴食」の中で書いている。

 白遍路醤油の街をこぞりくる 青畝

映画村を出て、さっき素通りした苗羽(のうま)の「醤の郷」に戻る。

阿波野青畝は、89歳の平成元年、この地の佃煮屋さんに招かれて句碑を建立。

小豆島の醤油造りは400年の歴史があり、古い町並みをよく残している。

キリシタン大名・小西行長がこの島を治めた時期、宣教師を招きキリスト教の布教を熱心に行った。秀吉が1587年にバテレン追放令を出すと、宣教師や高山右近を島で匿った。

江戸時代になると、1686年に小豆島八十八ヶ所霊場がつくられた。南端の坂手港から時計まわりに、歩いて7~8泊、今なら車で2~3泊で、島内の寺や庵を巡礼する。お遍路の季節には霊場に植えられた1種類ずつ種類の違う桜が見られる。

「マルキン醤油記念館」に車を止める。平日で駐車場はすいている。建物が黒いのは醤油の菌のせいで、館内には酒造りに似た古い醤油造りの道具を展示。

 

瀬戸内で製塩が盛んになると、小豆島では醤油造りを発展させた。素麺造りも三輪素麺をもとに島の特産品にした。

駐車場に岸和田ナンバーの観光バスが入り、大勢の中国人観光客が降りてきた。

物産館でしょうゆソフトを買って食べていると、記念館から出てきた遠来客も、駐車場に広がってしょうゆソフトを食べ始めたので、車をそろそろと動かした。

 春山を背に黒々と醤油蔵

午後4時、小豆島国際ホテルにチェックイン。夕食の午後6時まで時間があるので、1時間ほど周辺散策することにした。

ホテルの庭から浜に出て「エンジェルロード」へ。

沖の余島へ続く500mの細長い砂の道が、小豆島でいま一番の人気。1日2回、2時間ほどずつ潮の干満で砂浜が出現し、手前の小島まで渡ることができる。この「トンボロ現象」は、国内では福岡の志賀島海の中道、国外ではフランスのモン・サン=ミシェルや韓国の珍島などで見られる。今日の干潮は午後3時から5時と夜中の午前3時から5時。

 

この浜は元々、潮干狩りなどに利用されていたが、クチコミで「恋人の聖地」として有名になった。ホテルのショップでも小島の木の枝に結び付けるホタテの貝殻や木の絵馬が売られている。

小島の先の大余島は、モン・サン=ミシェルでなく、1950年から神戸YMCA野外活動センターになっている。砂の道を歩く人たちの会話は中国か台湾っぽい。しばらくすると、醤油蔵にいた団体らしい一群も浜に出てきた。

海が暮れるまでまだ時間がある。「尾崎放哉記念館」に向かう。迷路のまちだが、近い距離なので、迷わずに着く。

 これがまあ放哉庵か咳ひとつ

記念館は、1926年4月に亡くなった尾崎放哉が最期の8か月を庵主として暮らした小豆島霊場第五十八番札所・西光寺の南郷庵(みなんごあん)を復元したもの。当時はもっと粗末な庵だったらしい。入館時間を過ぎているので、建物を外から覗いて古い墓地を歩いた。

 

種田山頭火と並ぶ自由律の俳人・尾崎放哉は、1885年に鳥取市で生まれ、一高で漱石の講義を受け、東京大学法学部卒業後は、保険会社に10年勤めて要職に就く。が、飲酒癖で退職、朝鮮で得た職も捨て、妻と別れ、寺男となって俳句三昧の生活に入る。

 こんなよい月を一人で見て寝る 放哉(須磨寺)

京都、須磨、小浜の寺を流浪し、新傾向俳句誌「層雲」主宰の荻原井泉水の世話で、小豆島に渡る。

 眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る

 いつしかついて来た犬と浜辺に居る

 山に登れば淋しい村がみんな見える

 障子あけて置く海も暮れきる

 入れものが無い両手で受ける

 咳をしても一人

 松かさそつくり火になつた

 墓のうらに廻る

 小さい島に住み島の雪

 春の山のうしろから烟が出だした

島では極貧生活。酒癖が悪く、周囲から迷惑がられながら、井泉水の庇護と「層雲」同人の醤油醸造業当主や西光寺住職らの援助で暮らすが、結核が進んで衰弱し、お遍路の来る春を待ちつつ、41歳で亡くなった。

 痩せきつた手を合わしている彼に手を合わす 井泉水

没後、井泉水は放哉の句集「大空(たいくう)」を刊行した。

山頭火は生前に放哉に出会うことはなかったが、昭和3年に墓参で島を訪れている

 その松の木のゆふ風吹きだした 山頭火

作家の吉村昭は、自身も結核を経験し、放哉の句への共感から、1976年に島を訪ねて取材し、講談社の月刊情報誌「本」に連載。1980年に「海も暮れきる」を出版した。

これを1986年にNHKがドラマ化し、当時40代の橋爪功が放哉を演じた。

渥美清は、早坂暁の脚本で放哉をやりたかったらしい。寅さん映画の小豆島でのロケは、1993年第46作の富丘八幡宮の参道での初詣のラストシーンのみである。

 

ホテルに戻って、大浴場と露天風呂に入る。すいていたが、3世代の家族連れも浴衣を着こなしたグループも、会話を聞くと遠来の客だった。

 春節の遠来客と露天の湯

夕食は和食。鯛などを盛った刺身は小豆島産の溜り醤油やオリーブオイルにつけて食べるよう、島の素麺は茹で上がったらすぐにお椀に盛りに行くよう、料理を運ぶ女の人から念を押される。どこから来たか尋ね、神戸から来たと答えると、今年の「瀬戸内国際芸術祭」にぜひ来るよう宣伝も忘れない。

放哉の最期を看とったご近所の漁師の老妻シゲさんも、こんな親切で世話好きな人だったのだろう。

食事を終えて部屋に戻ると、一日の疲れが出て、深い眠りに。

 現れた砂州また消えて春の波

翌朝、日が昇り、エンジェルロードを見ると、真夜中に出来ていただろう道が満ち潮で消え、小島に渡れなくなっている。若いスタッフが浜に出て懸命にゴミ拾いしているのには感心した。

バイキングの朝食ではパンも取ったが、もちろんオリーブオイルを垂らして食べた。

 

今日は寒霞渓へ。

午前9時にホテルを出発。時間に余裕があるので、スーパーに立ち寄る。スーパーマーケットは気軽にはいれて地元の生活感があり、観光地よりも面白いことがある。鮮魚売り場を拝見。シタビラメをゲタと表示している。海鼠は数匹ずつ容器に盛られ、無造作に置かれたメバルも型がいい。

 海鼠ゲタメバルぶちまけ並べられ

寒霞渓は、ロープウェイで上がることにした。きのう往復した道路から向かうので迷わない。ロープウェイ乗り場は標高300m。町を抜けて山道を上る。途中で山上へ続く道路と分かれ、乗り場に到着。車を置いて往復切符を買い、昭和38年開業の小さなロープウェイに乗って、標高差300mの山上まで5分で上がる。

 頭上の岩をめぐるや秋の雲 子規

正岡子規は、大学生だった明治24年8月に岡山から小豆島の土庄に渡り、翌日寒霞渓を訪れている。後に、高浜虚子も句を詠んでいる。

 天高く雲ゆく方へ吾もゆく 虚子

 

寒霞渓は、この小さい島には不釣り合いな東西7km、南北4kmの大渓谷。風雨の侵食で断崖や奇岩が多く、登りにくいことから鉤掛、神懸(かんかけ)と呼ばれていたが、明治の初め、香川の儒学者・藤沢南岳が寒霞渓と命名。多くの観光客が訪れるようになった。

ロープウェイは、岩の間をすれすれに通り抜ける所もあり、ちょっとスリルがある。

 神懸を写し青嶺が石となる 誓子

山口誓子の句は、プロヴァンスの岩山を描くセザンヌの絵のよう。

山上は意外に広い。東側斜面の先にある星ヶ城山は標高816m、瀬戸内海の島々では最高峰である。

駐車場に観光バスが到着して、客がどっと降りてきた。展望台での記念撮影、かわらけ投げ、土産物店での買い物に中国語が飛び交っている。

こちらも、展望台でかわらけ投げをやってみた。5枚のうち1枚が丸い鉄の輪を通り抜け、気持ちよかった。

 かわらけが突き抜け空も海も春

下りのロープウェイで麓に戻り、車で町に降りる。

フェリーの時刻を確認し、島の東岸、福田港から出ている午後1時過ぎの姫路行のフェリーに乗ることにした。

海沿いの道を走っていると、猿の群れに出会った。

今回、冬の風物詩「サル団子」の銚子渓「お猿の国」には寄らなかったが、島の東側の猿たちが見送りに来てくれたようだ。

 群れ猿が沖を眺めて日向ぼこ

福田港に着く。

「廻船問屋傅右ヱ門」と看板を掲げた、昔の商家のような大きな建物がフェリーの待合所。まだ真新しい。海運業が盛んな江戸時代には小豆島のどこでも見られた原風景なのだろう。

中に、「八日目の蝉」の映画ロケに来た出演者たちのサイン色紙を飾っていた。

土曜日なので到着したフェリーからは観光バスや乗用車が続々。一方、乗り込む車は数台。

 

福田港を出港。船内で軽く昼食をとり、デッキに出て、家島群島を眺めながら潮風に吹かれた。90分で姫路の飾磨港に着いた。

姫路の街はあたり前のように人と車であふれ、世界遺産・姫路城の前は長い渋滞。

麗しき小豆島の風景が、嘘だったように感じられた。

 

(追記)

春のセンバツの21世紀枠で小豆島高校が初出場した。

応援団1800人は、試合当日の午前2時半、フェリー4隻で高松港へ渡り、50台のバスに分乗して甲子園に向かった。

試合は、釜石高校(岩手)に2対1で敗れたが、テレビでインタビューを受けた人は、「大勢の人が甲子園に来たので、島が軽くなって浮いた」、と笑った。

 この春はひょうたん島の小豆島

 2016春・見水)

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