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共産論(連載第6回)

2017-01-03 | 〆共産論[改訂第2版]

第1章 資本主義の限界

(4)資本主義は限界に達している:Capitalism has been reaching its limit.

◇三つの限界
 資本主義が容易に崩壊するようなことはないであろうと予測することは、資本主義が何らの限界も抱えていないと無条件に楽観することを意味していない。むしろ資本主義は今日、少なくとも次の三つの重大な点で決定的な限界を露呈していると考えられる。

限界(一):環境的持続性
 最も根源的な限界は、資本主義的生産体制を続けている限り、人間社会の存続条件そのものを成す地球環境(生態系)が持続しないということにある。
 とりわけ「地球温暖化」は過去の気候変動とは異なり、産業革命以来の資本主義的生産活動の結果、温室効果ガスの増量によって引き起こされたものと理解されている。
 それはとりもなおさず、欧米や日本などの先発資本主義諸国が繰り広げた資本主義的経済成長の「宴のあと」でもあるのだ。今また、中国を筆頭にインド、さらに資本主義へ「復帰」したロシア、天然資源を武器に遅ればせながらグローバル資本主義へ参入しようとしているアフリカ大陸なども加わり、資本主義的経済成長の波が地球全域で起きようとしている。
 欧米、日本の10億に満たない人々が繰り広げた資本主義の宴によっても地球環境は十分に損傷されたのであるから、仮に地球の残りのすべての諸国が同じことを繰り返したら地球環境はどれだけ損傷するのか―。これはまったく未知の恐怖である。
 そうしたことはすでにある程度意識されているからこそ、グローバル資本主義の時代には、同時に地球環境問題がかつてないほど強力に提起されてきたのであるが、温室効果ガスの排出規制問題に象徴されるように、すでに一定の発展段階に到達している先発国とその後を追い、追い越そうという野心的な新興国の利害は鋭く対立しがちである。
 新興国にとっては増大していく生産活動の桎梏となりかねない環境規制を回避したいのは当然であろう。しかし、事情は先発国の総資本にとっても同様であり、元来資本主義は資本蓄積を自己目的とする「量の経済」であるから、生産量に歯止めをかけられたり、コストのかかる生産方法を強制されたりするような規制に対しては、どんな名目があろうとも拒絶的なのだ。かくして環境規制と資本主義は本質的に衝突する。
 もっとも従来の地球環境論議はいわゆる地球温暖化問題に偏向しすぎるきらいはあったが、現代社会が当面する地球環境問題はそれに限らず、大気、水、土壌、酸性雨、森林、自然環境、各種有害物質、放射線防護、生物多様性等々、多岐にわたっており、それら目白押しの課題を総合的かつ相互連関的に考慮しながら、単なるスローガンにとどまらない具体的な数値規準を立てて対応していかなくてはならない時期に来ている。
 そのためには数値的な環境規準を適用しつつ、生産方法のみならず生産量にも直接に踏み込んで規制する計画経済(環境計画経済)をまさしく地球的な規模で導入する必要がある。
 しかし、このようなことは各国各資本が個別的な経営計画に基づいて競争的に生産活動を展開する資本主義的生産様式を維持する限り不可能であり、せいぜい環境税の賦課のような間接的規制にとどまらざるを得ない。それですら、経済界の抵抗で実現しない国も少なくない。ここに人類の滅亡というそれこそ黙示録的預言さえ必ずしも大げさとは言い切れない、資本主義の限界が露呈しているのである。

限界(二):生活の安定性
 近年、新自由主義政策の結果として所得格差が拡大したことがしばしば声高に非難される。しかし問題は「格差」そのものにあるのではない。人間はたとえ天文学的な所得格差があろうともそれなりに安定して生活することができるならば、さほど不満を持たないものである。このことから、所得格差の大きな米国で従来、プロレタリア革命が発生しなかった理由の一端が説明できるかもしれない。
 ところが、資本主義のグローバル化は格差以上に生活の不安定さを高めてきている。それは元来計画経済を忌避する資本主義につきものの景気循環がグローバル資本主義の下ではまさしくグローバルな規模で連鎖的に継起し、各国一般大衆の生活を直撃するからである。2008年の大不況はそのような生活不安のグローバル化の典型的かつ未曾有の事件であったと言えよう。
 こうした生活不安という大状況の内部に、雇用不安と老後不安が内包されている。元来グローバル化のはるか以前に経験済みであった電動機革命に加えて、グローバル化と重なりその原動力ともなった電算機革命は資本企業の生産性を総体として向上させ、かつてほど多くの労働力を必要としなくなった。また知識集約型産業の発展も労働力の量的要求水準を低めている。
 そこへグローバルな競争に対応するための人件費節約の圧力が加わり、雇用は先細っていく。グローバル資本主義の下ではこうした雇用不安を恒常的に伴った「雇用なき成長」という現象も一般化する。
 一方、大半の一般労働者にとって老後の主要な生活資金となる公的年金は高齢化率が低く、平均年齢も短かった時代の産物であるだけに、制定当初の予測を超える少子高齢化が進行し、かつ国家の財政危機が深刻化している時代には、その持続可能性に危険信号がともり始めている。しかも、保険料を納める資力にも事欠く低賃金労働者や長期失業者らは、当然将来の年金給付も低く、あるいは逸失する恐れもあり、老後の生活不安はいっそう深刻化するであろう。
 こうした生活不安の恒常化は、大衆の消費抑制にもつながり、販売不振による景気の長期低迷から慢性不況の要因ともなり、資本主義の体力を自ら弱めることになろう。

限界(三):人間の社会性
 資本主義は人間の利己主義的な側面を刺激し、特に貨幣経済への執着心をエートスとして自己を保持している。資本主義的経済競争とはすべて貨幣獲得競争に集約される。ケインズが「社会への奉仕」をエートスとする共産主義に対比して、資本主義のエートスを「貨幣愛」に見ようとすることは、いささか図式的とはいえ一理ある。
 先述したように、ソ連邦解体以降、グローバル化の中で、資本主義が一種のイデオロギー化を来たすにつれ、人間の利己主義的な側面が積極的に賛美すらされ、利己主義の亡者が増殖している。一方で、資本主義が国家社会主義に対して勝利した最大のフィールドである消費生活の豊かさは、人間を個人的な消費単位に切り刻み、社会性を失った商品のとりこと化させている。
 概して人間全般が社会性を喪失してきており、それが社会的動物としての人間性の劣化を招いているのである。このことは、個人のレベルでは精神の幼稚化を促進する。社会性が未発達な利己主義人間は成人であっても小児のように世界は自分(me)を中心に回っていると認知する。このような〈自分〉の肥大化現象は様々な現代的社会病理の根元に必ずと言ってよいほど絡んでいる。
 人間の社会性の喪失はまた、社会のレベルではまさに「社会」の解体、具体的には地域コミュニティの崩壊や家族関係の解体を促進し、それらがひいては個々人の社会的孤立化につながり、資本主義を支持する保守主義者をして「社会的絆」の回復を叫ばせるまでになっているのである。(※)

※ここで言うところの「社会性」とは、高度な協力・協働関係で成り立つ社会を構築できる人間の類としての社会性のことであり、個々人が社交的であるかないかといった個体としての社会性を意味しているのではない。

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