名古屋・名駅街暮らし

足の向くまま気の向くままに、季節の移ろいや暮らしのあれこれを綴ります。

「飛騨の御岳さん」その1

2012年07月28日 | セカンドルーム

 

御岳は岐阜県と長野県境を南北に連なる独立峰で、盟主剣が峰(3.067m)を中心に7つの外輪山と5つの火山湖を持つ活火山である。
もともと信仰の山として崇められていたが、なだらかな裾野が広がりスキー場やゴルフ場、別荘地の開発や、高冷地野菜やそばの栽培なども盛んで、高地トレーニングや休暇村、キャンプ場などの施設も多い。
古くから御嶽教の信者たちが先達に導かれて登拝した山域には、多くの霊神場や遥拝所、石仏、社などがあり、剣が峰山頂は御嶽神社奥社の神域となっている。
かつて、白装束に金剛杖、菅笠で身を固めた御嶽講社の登拝者の白い列が六根清浄を唱えながら、麓から山頂まで連なっていたと言われるが、今は一般登山者の数が圧倒的に多い。
主な登山口は木曽福島側に王滝口、黒沢口、開田口と飛騨側に飛騨口(濁河温泉)などが開かれているが、アプローチが長いこともあって飛騨側から登る登山者は少ない。
民謡にも「♪木曾の御岳さんは何じゃらほい~」と歌われるように、木曾の山とのイメージが強いが、五の池背後の山を飛騨頂上(2.811m)として御嶽神社が祀ってある。
朝7時前に家を出て、登山口の濁河温泉へ向かった。
秋神温泉を過ぎて前方が開けると、青い空に御岳がゆったりとした姿で佇んでいた。


濁河温泉の駐車場に車を止め、登山届けをポストに入れ、御岳神社里宮に参拝して、8時にスタートした。


木漏れ日の届く樹林帯の道は石や木の桟道、梯子などで整備されているが、急な登りが延々と続く。


2時間ほどで8合目の「お助け水」に着いたが、水場は涸れていた。


しばらく登ると森林限界を過ぎて、ハイマツ帯のゴロタ石の道が続き、展望も開けてきた。
振り返ると、濁河温泉がマッチ箱のようにかわいらしい姿で望めた。


摩利支天山と継子岳の鞍部がはっきりと見えるようになり、その先にが飛騨頂上がある。

頂上には御岳神社奥宮の社と霊神碑やお地蔵、石像などが数多く祀ってあった。

 


五の池小屋のテラスで持参の弁当を食べ、今日の目的地の二の池へ向かった。


摩利支天山の山腹をトラバースするコースは、落石の多い危険なガレ場が2ヶ所あるが、浮石に気を付けながら無事に通過した。


御岳教の信者が御神水として崇める三の池が、コバルトブルーの水を湛えていた。


荒涼とした火口原の「賽の河原」は、水子や親より先に死んだ子供たちが集まる場所とか、神々が宴を催す場とも言われている。


以前訪れた時には、お地蔵に赤いよだれ掛けや帽子を被ぶせ、まわりには風車がカラカラと回っていたが、今はそんな光景も見かけなくなった。


午後3時に、今日の目的地の二の池小屋に着いた。


雪解け水を湛えた池は、神が宿るにふさわしい静寂さである。


池の畔に建つ小屋の夕食は5時30分で、消灯は8時40分である。


以前の山小屋の食事は、味噌汁と沢庵、梅干程度で、米を持参していたが、強力に頼らずヘリで運ぶようになってからは下界並みになってきた。


この日の宿泊客は夫婦二組に私の計5名で、ダブルの布団と一部屋を独占できて、一泊2食9.000円はお値打ちだった。
この時期は一組の布団に2~3人が寝たり、通路や布団部屋の雑魚寝も珍しくなかったが、信者の高齢化や登拝者の減少を如実に物語っていた。


午後6時50分に白山の向こうに夕日が落ち、池を茜色に染めて夜の帳が下りた。

部屋の温度は7℃と冷え込んできたので、明日の好天を期待して布団に入った。

コメント
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