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想像の旅---アレクサンドリアの図書館(3)

2017-09-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---アレクサンドリアの図書館(2)から続く。

3)文明の微かな香り
ソクラテスと弟子たちの問答に出てくるさまざまな職業を通して、紀元前400年頃の古代ギリシアの暮らしぶりをかいま見た。当時の職業が作り出す品ものは、衣食住の必需品から寝椅子や香料や金・象牙などの装飾品まで、これらは贅沢品あるいは嗜好品だった。さらに、理髪師、調理師、教師や医者、また、歌手や芝居の役者、絵画や美容の仕事、店番は賃金生活者(wage-earner)だった。

ソクラテスたちの会話から当時、すでにに“職業”という社会的分業が確立していたことが分かる。そこから生まれるさまざまな商品を流通させるマーケットの存在、陸運・海運による交易もあり、商売の決済には貨幣制度(coinage)を利用した。

興味深いのは、サービス業の wet nurse(乳母)とdry nurse(子守)である。筆者の知る限りだが、dry nurseと聞けば現代のnanny(ナニー)を思い浮かべる。ナニーは、アメリカの高校生などが頼まれるベビーシッターではなく、NY辺りのリッチ(rich)なキャリアー・ウーマンが雇う子供の世話係である。単なる子守でなく、子供の躾(シツケ)までしてくれる信頼できる住み込み家庭教師のような人である。

現代の辞書では、dry nurseとnannyは類語または同義語である。もちろん、古代ギリシアでdry nurseを雇うのは上流階級だったと思うが、筆者はトルコの裕福な家庭でもナニーを見た。

ある時、トルコ人の国連職員が家族と共に数人の使用人(召使いやナニー)も連れて、ウィーンに赴任してきた。先進国の庶民感覚とは違い、召使いの数が多く、金持ちにはかなわないと話題になった。また、タイでも日系企業の部課長クラスには召使を抱えているケースがいくつかあった。工場では作業服を着た課長でも、家に帰れば豪邸で数人の召使いを使っている人もいた。ユーラシア大陸の文明文化には、島国の日本とは一味違う文化や習慣の流れを感じることがある。海外進出の日本企業が現地人と接するとき、その国の文化や従業員の社会的地位(social status)を念頭に対応しなければならない。単に社内の上下関係だけではない。

その文明の流れの源流は遠く古代のアテネの街角につながるが、その支流をユーラシア大陸の国々の建築様式に見ることもある。バンコクやハノイの市場や由緒ある建物やビルの1階をGround Floorという習慣である。もし1階をFirst Floorといえば、新興のアメリカ流である。近年では、エスカレーターのステップに立ち止まる時、右側か左側かの違いに欧米流と日本流を感じる。日本の西と東では左右逆であり、その境界はどこか?と疑問が湧く。

プラトンの「国家」1巻~4巻の主題は、個人から国家レベルの「正義と不正」であるが、今回の想像の旅では、第2巻の数ページで古代ギリシアの生活に触れたに過ぎない。その問答は、ほんの一部分で、しかも英語だったが、ソクラテスと弟子たちの口からでた生のことばだった。その言葉(単語と構文)は、残念ながら古代ギリシア語ではないが、多くの研究者と共通の英語での理解、日本語の単語と構文より、一歩彼らに近いと理解する。

前回の引用文にはないが、食生活においても、食後のデザートやケーキ類、アルコール類を楽しみ、生活基盤である農地や領土を広げるため、あるいは他国からの侵略に備えた職業的な軍隊もあった。「自分の身は自分で守る」は人類、否、動物の基本である。

4)アレクサンドリアの古代図書館で感じたこと
たった数時間の「想像の旅」だったが、今回はプラトンのおかげで、旅の目標を達成した。ここで、思いつくままに古代図書館で感じたことをまとめると、次のようになる。

1)ソクラテスの指摘は、性に合ったものを作るのが最善、「好きこそ物の上手なれ 」に符合する。
2)この考え方は、1700年代になってアダム・スミスの「分業」に発展、製造業の自動化を促進した。
3)その後、1950年代には、自動化にコンピューターが加わり、もの造りが人間の手を離れ始めた。
4)もの造りの近代化は人類に、電気や車やインターネットなどの「文明の利器」を提供した。
5)とりわけ、医学の進歩は人類に長寿をもたらした。それは「光と影」を伴う両刃の刃(ヤイバ)である。
6)他方、ソクラテスが論じた人類が背負う「光と影」、「正義と不正」には今も進歩はない。
  国家と個人を問わず、「知らぬ存ぜぬ」を押し通せば「不正」がまかり通り、やがて合法になる。
7)文明の利器と教育で人の理性(mind)は進歩したが、本能と感情(heart)には古代から進歩がない。
8)人類の「光と影」のうち、「影」は絶望的な暗闇ではない。コンピューターが一条の「光」になる。
9)今回の旅では、ピラミッドの技術資料は見付からなかった。しかし、それは大きな問題ではない。
  理由:今さらピラミッドを建設する必要もない。技術情報は、あれば良い程度の話、気にしない。

古代アレクサンドリアへの「想像の旅」はここで終了、次回の「太陽の賛歌」に続く。ヨーロッパの混浴
(Mixed)の話である。

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想像の旅---アレクサンドリアの図書館(2)

2017-08-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---アレクサンドリアの図書館(1)から続く。

3.ソクラテスの教え
一つ覚えの古代ギリシア語"Πλάτων"を頼りに、アレクサンドリア図書館のプラトンの著書を保管する書棚にたどり着いた。この"Πλάτων"の意味はプラトーン、英語ではPlato(プレイトゥ)、日本語はプラトンである。

その書棚には、プラトンが紀元前380年~370年頃に著した"Republic"(邦訳:「国家」プラトン著、藤沢令夫訳、岩波文庫、1979)がパピルスの巻物で収められている。その中身は、書き物を残さなかったソクラテスの「考えと教え」を弟子のプラトンがダイアログ(問答)形式で文書化したものである。もちろん、原文は古代ギリシア語、藤沢令夫訳の「国家」は1979年第1刷〜2012年第53刷発行のロングセラーである。

日本語の「問答」という言葉には硬くゴツゴツした感じがあるが、ソクラテスと弟子たちの「問答」は、ラフな服装の人たちのフリー・ディスカッションといった感じである。

参考だが、ここに紹介する英語の問答に出てくる"City"は日本語訳では「国家」になっているが、当時の国家は都市国家(City-state)だった。古代ギリシアでは、ギリシアという統一国家が存在したのではなく、アテネやスパルタなどといった都市国家の集まりだった。これに対して、ローマは最初から統一国家、後にローマはギリシアの都市国家を次つぎと吸収していった。

1)ソクラテスと弟子たちの問答
プラトンの書棚の前に立つと、不思議なことにそこはアテネの街になっていた。紀元前400年頃の立派な都市国家である。

石畳の小さな広場に5、6人のグループが何やら問答に花を咲かせている。60歳がらみのソクラテスと思しき男性と弟子たちの一行である。ソクラテスのすぐ近くに腰を下ろす体格のいい二十歳代の青年はプラトンらしい。

彼らの話の内容は、幸い、英語である。その英語は、日本の中学・高校の英語力で十分に理解できるレベル、訛のない素直な英語である。この英語には、難しい文学的な表現がないので問題はない。

話の内容は、生活必需品の自給自足とそれらを作る仕事の話である。普段の生活を振り返りながらソクラテスと弟子たちの問答は進んでいく。問答に聞き入るにつれて、つい忘れてしまうが、時は紀元前400年頃、電気も電話も車もない“古代”と云われる時代である。しかし、話の内容に違和感はない。

後ほど示す参考資料(英文)"Specialization Within the City (都市内での専門化)"は、彼らが交わす問答の中身である。

話の概要は、人はいろいろなものを必要とするが、独りでは作れない。食べものを作る人、家や着るものを作る人も必要、さらに靴を作る人も必要になる。必要最小限の生活をする場合は、街に住む人は4~5人とみられるが、必要なものが増えるにつれて、都市の構成員は次第に多くなる。

問答に出てくる次の①~④はキー・ポイントになるので、予めここにマークしておく。
①we are not born all exactly alike but different in nature,
 スクラテス:人は生まれつき異なった性質をもっている。(後に示す英文①参照)
②“Then would you one man do his work better working at many crafts, or one man at one craft?”
 “One man at one craft.”
 注)craft=手作業で何かを作ること。
 ソクラテス:人は多くの仕事をこなす場合と、一つの仕事をこなす場合どちらがうまくいくと思うか?
 弟子:一つの仕事をこなすとき。(英文②参照)
③I don’t imagine the work will await the workman’s leisure;
 ソクラテス:仕事は作業者が暇になるまで待ってくれない。(仕事は必要なときに必要)(英文③参照)
④more things of each kind are produced, and better, and easier, when one man works at one thing,
 which suits his nature, and at the proper time, and leaves the others alone.”
 注)leaves the others alone=他のことに手を出さない。
 ソクラテス:人は、自分の性に合った一つの仕事に適切に打ち込むとき、より多くのより良い製品をより
 簡単に作ることができる。(④参照)

2)古代ギリシアー紀元前400年頃の職業
彼らの問答では、さまざまな職業が話題になる。職業は社会的な分業であり、その社会の暮らし向きを映す鏡である。

後に示す参考資料(英文)に出てくる職業を、話の順にピックアップすると次のようになる。

farmer(農夫), builder(建築者), weaver(編む人), shoemaker(靴屋), craftsman(職人), carpenter(大工), smith(鍛冶屋), oxherd(牛飼い), shepherd(羊飼い), herdsman(家畜飼い), assistant(助手), trader(商人), shopkeeper(小売店主), retail dealer(小売商人), merchant(商人), wage-earner(賃金生活者)

また、職業に関係する経済用語のcoinage(貨幣制度)やtoken(商品引換票)も出てくる。

さらに「都市内での専門化」の後の13章にはluxurious city(贅沢な都市)の話があり、そこには次のような職業が出てくる。

huntsman(猟師), imitators with figures and colors and with music(ものの形や色や音楽を模倣する人たち), poet(詩人), rhapsodist(吟遊詩人), actor(俳優), chorus-dancer(舞台ダンサー), contractor(興行請負人), theatrical manager(劇場マネージャー), manufacturers of articles(道具の製造者たち), women's adornment(婦人装飾品職人), servitor(お供), tutor(教師), wet nurse(乳母), dry nurse(子守), beauty-shop lady(美容師), barber(理髪師), cook(料理人), chef(調理師), swineherd(豚飼い), doctor(医者)

また、職業ではないが、次のようなものの名前が出てくる。

couch(寝椅子), relish(ご馳走), myrrh(没薬/樹脂), incense(香の煙), girl(宴席にアテンドする若い女性), cake(菓子), painting(絵画), embroidery(刺しゅう), gold, ivory, similar adornments(金、象牙などといった類(タグイ)の装飾品)なども話題になる。

参考資料(英文):
1.出典:
下に掲げる"Specialization Within the City(都市内の専門化)"は、"CLASSICS IN INDUSTRIAL
ENGINEERING," edited by John A. Ritchy, pp. 5-9. Copyright 1964 by Prairie Publishing Company.からコピーした。

2.参考資料の補足説明:
1)プラトン著「国家」(全10巻)の1巻から4巻は、個人から国家レベルの「正義と不正」に対するソクラテスの考えと教えである。「不正をする方が得」という考え方や「不正の極致は、不正をするにもかかわらず正しい人間を装うこと」などが話題になる。今も昔も変わらない問題である。
2)下に示す「都市内の専門化」は、「国家」第2巻11章&12章の英語版のコピーである。
  英文には1ヶ所、脱字(単語)らしきところがあるが、文意に影響がないのでそのままコピーした。
3)参考資料の④「性に合った仕事に打ち込み多くの良品を作る」という概念は、アダム・スミス(Adam Smith)の分業(division of labour)に発展する。
 アダム・スミスの「国富論」1776年で紹介されたピン工場の分業は、生産性と品質の向上、工程の機械化と製造コストの低減に大きく貢献、産業の近代化を促進した。
 さらに、人類は1950年代のコンピューターとともに自動化・ロボット化の時代を歩き始めた。
4)高校生にもどった気持ちで、古代ギリシア人の考えを理解したい。英文をそのまま自分なりに理解すればOK、無理に日本語に変換(和訳)する必要はない。古代ギリシア語と言語距離がより近いと思われる英語で、当時の人びとのことば(単語)とセンスに接したい。
5)文中、"I"=ソクラテス、"Adeimantos"=弟子の名前、プラトンは発言しない。

Specialization Within the City
  “…A city, I take it, comes into being because each of us is not self-sufficient but needs many
things. Can you think of any other beginning could found a city?”
  “No,” said he.
  “So we each take in different persons for different needs, and needing many things we gather
many persons into one dwelling place as partners and helpers, and to this common settlement we give
the name of city. Is that correct?”
  “Certainly.”
  “Then one man gives a share of something to another or takes a share, if he gives or takes,
because he thinks he will be the better for it?”
  “Yes.”
  “Now then,” said I, “let us imagine that we make our city from the beginning. Our need will make
it, as it seems.”
  “Of course.”
  “Well, first indeed and greatest of our needs is the provision of food that we may live and be.”
  “Assuredly.”
  “Second, the need of housing, third of clothes and so forth.”
  “That is true.”
  “The next thing to ask is,” said I, “how the city shall suffice for all this provision. Will not one be
a farmer, one a builder, one a weaver? Shall we add a shoemaker to the list and someone else to look
after the body’s needs?”
  “Certainly.”
  “Then the smallest possible city will consist of four or five men?”
  “So it seems.”
  “Very good. Must each of these contribute his work to all in common--I mean must the farmer,
who is only one, provide food for four and spend four times as much time and trouble in providing
food, and share it with the others; or shall he neglect them, and provide only food himself, the
fourth part of the food, in a fourth part of the time, and spend the other three part of the time one
on the house, one on the clothes, one on the shoes? Is he to avoid the bother of sharing, and only
to look after himself and his own affairs?”
Adeimantos said, “Perhaps the first way is easier, Socrates.”
  “That is quite likely, by heaven,” said I, “for it comes into my mind when you say it, that ①we are
not born all exactly alike but different in nature
, for all sorts of different jobs, don’t you think so?”
  “Yes, I do.”
  ②“Then would you one man do his work better working at many crafts, or one man at one craft?”
  “One man at one craft.”

  “And again, I think, it is clear that a man just wastes his labor if he misses the time when it is
wanted.”
  “Yes, that is clear.”
  “For ③I don’t imagine the work will await the workman’s leisure; the workman must follow his
work and not just take it by the way.”
  “He must, indeed!”
  “Consequently, ④more things of each kind are produced, and better, and easier, when one man
works at one thing, which suits his nature, and at the proper time, and leaves the others alone.”

  “Most certainly.”
  “Then we need more citizens, Adeimantos, more than four to provide all we said. For the farmer,
as it seems, will not make his own plow, if it is to be a good plow, nor his mattock, nor the other
tools for working the land. Nor will the builder, and he, too, wants many others. So also the waver
and the shoemaker.”
  “True.”
  “Carpenters, then, and smiths, and many other such craftsmen, become partners in our little city
and make it big.”
  “Certainly.”
  “Yet it would still not be so very large, even if we were to add oxherds and shepherds and the
other herdsmen, that the farmers might have oxen for the plow, and the builders draught-animals to
use along with the famers for carriage, and that the weavers and shoemakers might have fleeces
and skins.”
  “And not so very small either, if it had all these!”
  “Furthermore,” I said, “to settle the city in such a place that imports will not be needed is almost
impossible.”
  “Yes, impossible.”
  “Then it will need others to import what it wants from another city.”
  “It will.”
  “But again, if our assistant goes empty, without taking with him any of the things needed by those
from whom people get what they need, he will return empty, won’t he?”
  “I think so.”
  “Then they must make at home not merely enough for themselves, but enough for those people
of whom they have need, and such things as those same people need.”
  “So they must.”
  “More farmers, then, and more other craftsmen will be necessary for our city.”
  “Yes, indeed.”
  “And more of the other assistants, I suppose, to export and import the various things. These are
traders, aren’t they?”
  “Yes, they are.”
  “So we shall want traders too.”
  “Certainly.”
  “And if the trade goes by sea, many other will be wanted besides who understand commerce
overseas.”
  “Many others, indeed.”
  “Now, in the city itself, how will they exchange the things which each class makes? For that is
the reason why we founded the city as a partnership.”
  “By selling and buying,” he said, “that is clear, surely.”
  “We shall have a market, then, as a result of this, and coinage as a token of the exchange.”
  “By all means.”
  “Suppose the farmer, then, brings in some of his products to market, or suppose any of the other craftsmen do, and suppose he comes at a time when those who want to exchange his goods for their own are not there, he will sit in the market and waste time from his work?”
  “Not at all,” said he; “there will be some who, seeing this, appoint themselves for this particular
purpose. In cities properly managed these are generally the men weakest in body and useless for
other work. They must remain on the spot, about the market, and exchange money for the goods with
those who want to sell or give them goods for money if any people want to buy anything.”
  “Then,” said I, “this need creates a class of shopkeepers in our city. We call them shopkeepers
or retail dealers, don’t we, when they are settled in the market to serve us in selling and buying, but
those who travel from city to city we call traders or merchants?”
  “Certainly.”
  “And there are others, I believe, who serve us, who have enough strength for the labors of bodily work, but nothing particular in their minds which makes them worthy to be partners. These sell the
use of their strength for a price which they call wages, and therefore, no doubt,
they are called wage-earners; what do you say?”
  “I agree.”
  “Wage-earners also then help to fill up our city.”
  “Yes.”
  “Now then, Adeimantos, has our city grown to perfection?”
  “Perhaps.” ・・・
以上

想像の旅---アレクサンドリアの図書館(3)に旅続く。

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想像の旅---アレクサンドリアの図書館(1)

2017-07-25 | 地球の姿と思い出
「想像の旅---船乗りのホームポート」から続く。

ある晴れた日に、まぼろしの船「ほのるる丸」は筆者を乗せて、アレクサンドリアの古代図書館に向かった。インド洋と紅海を一跨ぎ、地中海の東側に到着した。そこは紀元前300年頃のナイル川デルタの西端、アレクサンドリアの沖だった。この頃の日本は、縄文時代の終わりから弥生時代の初期、銅や鉄器の製造が伝わり、稲作が始まる時代だった。

1.紀元前300年頃のアレクサンドリア
アレクサンドリアは、マケドニアのアレクサンダー大王(BC356-323)がこの地を征服、自分の名を残すためにBC332年に建設した都市、ギリシア人を送り込む植民都市だった。

アレクサンダー大王については歴史書に詳しい記述があるのでここでは省略するが、インド遠征からバビロンに帰還した大王は、BC323年に32歳の若さで急逝した。死因はマラリアなど、諸説紛々としている。

大王亡き後は、ギリシア系王朝プレトマイオス朝(BC306-30)の創始者プレトマイオス1世(在位BC305-285)がアレクサンドリアを統治した。しかし、この王朝の女王、美貌で有名なクレオパトラ7世(BC69-30)がアクティウムの海戦(BC31/9)で突然に最前線から離脱、アレクサンドリアに敗走した。その後自殺にいたるが、これを機に王朝も滅亡した。クレオパトラが毒蛇にわが身を咬ませる場面は多くの絵画に描かれている。

アレクサンドリアは、ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化の都、BC300年ころに図書館が、続いてBC290年ころにはムセイオン(博物館)も建てられた。この頃のアレクサンドリアの推定人口は15~30万人、カルタゴ、ローマ、アテネと肩を並べる都市だった。時代は違うが、平安時代の京都もこの規模だった。【参考:オリエント=ローマの東方のシリア、古代エジプト、古代メソポタミア、ペルシアなど】

一方、紀元前5世紀から3世紀にかけてのギリシアには、人文科学・社会科学・自然科学の分野に偉大な業績を残した人びとが現われた。ピタゴラス(BC582-496)、ソクラテス(BC469?-399)、プラトン(BC427-347)、アリストテレス(BC384-322)、ユークリッド(BC330?-275?)、アルキメデス(BC287?-212)など、名前をあげれば切りがない。

参考だが、ソクラテスの弟子=プラトン、プラトンの弟子=アリストテレス、アリストテレスの教え子=アレクサンダー大王である。アリストテレスとアルキメデスはアレクサンドリアに滞在(勉学)、ユークリッドはアレクサンドリアで数学を教えていたことが分かっている。

彼らは哲人であると同時に論理学、算術、幾何、天文学などの先駆者だった。彼らが源泉となって、中世ヨーロッパの「教養科目」すなわち「自由7科=リベラル・アーツ(Liberal Arts)」が学問体系として成立した。リベラル・アーツは文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文、音楽の7科である。中世大学の教養科目「リベラル・アーツ」は教育改革を重ねながらグローバル化の流れのもとで今も進化している。
【参考:筆者は、60年代の米国で、各国の留学生の履修科目と成績を米国基準で評価するデータベースの存在を知った。この流れの一端と理解した。】

2.古代図書館
ここからは想像になるが、街の様子は、石畳の道や広場をラクダや馬車が行き交い、素足の人は見当たらない。街並みはほとんどが平屋だが、人が集まる市場のような一角もある。海岸に面した大きな大理石の柱でできた建物は図書館らしい。

図書館の敷地はハッキリしないが、縦横100m×200mほどに見える。蔵書は70万件、大多数はパピルスである。パピルス1枚はA4版(約21x30cm)より少し大きい繊維質の筆記用紙である。それを20枚ほどつなげた長さ約4m、直径20cmほどの巻物である。(図書館の規模を試算したが詳細は省略)

コンピューターのない時代、蔵書の出し入れと収納効率を考慮すれば、著者別収納と分野別収納の組み合わせが適切である。たとえば、著書が多いプラトンの場合はすべての著書をプラトン専用の書棚に収納する。また、著書が少ない人の場合は、内容の分野別や言語別に収納、粘土板などは媒体別に管理する。さらに、絵画、工芸品、道具、武器などはムセイオン行き、あるいは薬草や医薬品は薬草園行きなどと行先を決めて収納する。

ここで図書館内の言語に話は変わるが、紀元前8世紀に遡る古代ギリシア語には方言が非常に多い。紀元前4世紀ころはアッティカ方言(アテネ方言)が古代ギリシア語の標準語になっていた。したがって、蔵書の分類もアッティカ方言を標準語とする多言語データベースである。ちなみに、ホメロス、プラトン、アリストテレスの著書もこの言語で書かれている。

所蔵品の言語は古代ギリシア語、古ラテン語、古代のエジプト語、アラビア語などの他にヒエログリフや楔形文字、絵文字、文様、絵画なども交じっている。多言語というよりは、多文明、非常に狭い地域で栄えた文明・方言や宗教も含んでいる。言い伝え、昔話、迷信や呪文・魔術系の所蔵品もある。さらに、ピラミッドやスフインクスの資料や異文明の度量衡換算表もある。

多種多様な書籍を効率的に扱うには、ある程度の省力化が必要になる。アリストテレスの「滑車」は機械工学の原理であり、図書館、ムセイオン、薬草園の設備にも使われている。また、蔵書を始め多くの所蔵品を湿気、害虫、砂塵、火災、盗難から守るために、床への直置きを避け、定期的な棚卸しと点検は欠かせない。

所蔵品の管理に多くの労力を費やすのは一種の社会事業でもある。ピラミッドの建設で始まったその流れは為政者の重要課題である。21世紀になっても失業者数を抑えるためにさまざまな形で受け継がれている。たとえば、途上国の“誰でも営業できる屋台”や先進国のゴミのない〝清潔な公共スペース”などは一種のセーフティー・ネットだと筆者は考えている。反面、保護・支援の名のもと、労働を伴わない“金品のバラ撒き”は為政者の人気取りには効果的だが、長い目では賢明とは言えない。

かなり大きな図書館とムセイオンの経済効果は大きい。図書館とその周辺に住む関係者や利用者の食料、住居、衣料、生活用品、仕事に必要は物資へのニーズが生まれる。さらに娯楽や教育などのニーズが加わり人・物・金・情報の動きが盛んになり、都市間や海外交易で街に活気が生まれる。

そのようなアレクサンドリアに立つ筆者は、周りの若くて元気な人びとにはいつかどこかで出会ったような気がする・・・それは開放的な途上国だった。

納豆とパクチー以外は何でも食べる筆者、食べ物には不満はない。身の回り品もあり合わせで十分、壊れたものは直せば使えるので周りの人びとに喜ばれる。しかし、言葉の不自由だけは困る。せっかくの世界旅行、できるだけ彼らに近づきたいので、少しでも多く「読み」「書き」「話し」、辞書も「引き」たい。

指さしや手まね、「Oui(ウイ)」と「Non(ノン)」だけでは独り相撲、意志疎通ができない。もちろんヒエログリフは言うに及ばず古代ギリシア語の知識は皆無の筆者、古代図書館の蔵書は「猫に小判」、お手上げである。

続く。

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想像の旅---船乗りのホームポート

2017-06-25 | 地球の姿と思い出
脳梗塞とリハビリ(5)から続く。

1.想像の旅
今年1月5日に退院してから早や半年、今はリハビリ代わりに家内と二人で近くのコーヒーハウスでくつろぐ日々を過ごしている。昨年の今頃はヒューストン旅行を目前に多忙な日々だったが、現在との差は大きい。

過去の人生はエンジン全開(Full Ahead)、今後は出力70%程度の巡航速度で、のんびりとメンタル・タイム・トラベルを楽しもうと思う。その出入り口はコーヒーハウス、そこには過去の記憶と未知の想像が背中合わせで同居する。ファミレスのコーヒーハウスがいつの間にか、アドリア海やカリブ海に面したコーヒーハウスに変化する。

たとえばトリエステ、ベージュ色の建物が並ぶ海岸通り、その先に岸壁がある。トリエステはベニスの東方約120km、スロベニアに接する人口20万人ほどの静かな貿易港である。筆者の書棚に飾る小さなガラスのピエロはトリエステで買ったものである。その隣は、ウィーンで使用していた手巻きの目覚まし時計、その隣はブダペストの木製の花瓶、その後ろは著者のサイン入りの童話、海岸で拾った貝々・・・書棚は過去への入口だらけである。

            トリエステの港(絵はがき)
            

筆者はトリエステに詳しいわけではないが、人びとはフレンドリー、静かな落ち着いた街である。街の歴史は古く、紀元前(BC)のローマ時代から政治的な変遷があったが、今はイタリアである。路面電車やカフェや坂道、その雰囲気は神戸、サンフランシスコ、ウィーンに似ている。ハプスブルク家ゆかりのカフェは有名らしい。

あるときイースター休暇でベニスにホテルが取れず、代替のホテルをトリエステにした。毎日、トリエステとベニスの往復、長い編成の夜行列車がトリエステに近づくとき、右に張り出した海岸を走る。車窓の右数百メートル先を走る列車の明かりを別の列車と思ったが、さにあらず、筆者の列車の先頭部分だった。

銀河鉄道が空に昇るような光景、その記憶がトリエステという言葉と共に今も目に浮かぶ。ホテル近くに市場があり、夜間営業の食堂も良かった。電灯に煙る料理の匂いと人びとの姿、言葉は通じないが味は良かった。舌平目や貝料理を覚えているが、今でもイタリアといえば魚介類の料理を思い出す。

トリエステに関するもう一つの思い出。それはホテルのチェックアウトだった。勘定を終えた時、マネージャーに呼び止められた。予約で払ったホテル代が過大だったという。ウィーンに帰ったら差額を旅行社に返還してもらいなさいとのことだった。ホテルの部屋、食事、サービスに問題はなかったが、マネージャーの親切心に感謝した。ウィーンで差額の返還はあったが、担当者は退社していた。日本ではあり得ないが、外国ではいろいろなことがある。

2.船乗りのホームポート(母港)
コーヒーハウスがある岸壁は、筆者を想像の旅に連れだす「ほのるる丸」のホームポート(母港)でもある。1960年代の高速貨物船「ほのるる丸」は、今では時空を超えて世界を旅するまぼろしの船に変身した。

下の写真は、筆者が切り張りした想像の港である。写真中央の黒い船は「ほのるる丸」、右手前は想像のコーヒーハウスである。(実は、この写真の「ほのるる丸」は横浜山下公園の氷川丸(NYK客船)の映像である。)

            船乗りのホームポート(母港・・・合成写真)
            
            注:上の写真は複数の写真を切り張りした空想の港である。

過去・未来の天測歴を備えたまぼろしの「ほのるる丸」は、太陽系の空間を航行できる船である。【天測歴:太陽、月、惑星と45個の(航海)常用恒星の位置を日付別に収録した天文航法用のデータベース、天体の位置と時計に狂いがなければ電波を利用する計器航法より精度は高い。アポロ計画の飛行士が使用した航海用のセキスタント(六分儀)はNASAに展示してある。】

航行中の「ほのるる丸」の食事風景は昔とおり、サロンの席順も変わりなくキャプテン以下航海士・機関士・通信士・事務職員は制服、黒服のウエイターは右腕に白いナプキン&左手に丸盆を持って控えている。船が大きく揺れても、ウエイターたちが厚手木綿の白いテーブルクロスに水差しで水を打てば、食器が滑ることもなくサロンに混乱はなく整然と食事は進む。「お笑いテレビ」のワーワー・キャーキャーとは別の世界である。なお、日の丸を掲げる船舶や航空機は日本の領土、刑法・民法なども日本の法律、大切な祝日にはサロンに紅白の幕を張り、特別料理が出る。
【参考:「ほのるる丸」の食事風景、日本の将来---5.展望(18):日本の食品・サービス

上の岸壁は、筆者が好きなハイビスカスやブーゲンビリアなど、色鮮やかな花が咲き乱れている。気候は、短時間のスコールを除き気温はやや高めで湿気はなく、透明な青空が広がる。当分、この架空の港を筆者と「ほのるる丸」のホームポートとして、想像の旅に出かけたい。

昨年は、ヒューストン大学の次はアレクサンドリアの図書館と決めていたが、脳梗塞で海外旅行を断念した。その無念さを晴らすために時計を巻き戻して、次回(来月)はかの有名なアレクサンドリアの“古代図書館”を訪ねることにした。

アレクサンドリアの古代図書館について、筆者が書籍やインターネットで収集した情報は、おおむね次のとおりである。

1)紀元前300年頃~BC47年頃の戦争までアレクサンドリアに存在した図書館。
2)当時のプトレマイオス朝が支援した大規模な図書館。学術研究機関(ムセイオン)と薬草園も併設。
3)文学、地理学、数学、天文学、医学などの書籍70万巻を所蔵、ヘレニズム文化が栄えた。
4)アルキメデスをはじめ古代の有名な科学者が滞在した。人材も育成した。
5)アレクサンドリアに入港した船から書物を没収、原本を蔵書、写本を返還。これを船舶版と云った。
6)当時の社会生活のレベルを推察するに必要な情報が存在した筈。
7)BC47年の戦禍と再建、虫害と数次の戦禍、AD391年にキリスト教徒の破壊で消滅した。

以上の情報で高度な学術都市が浮かび上がる。しかし、歴史ものには「講釈師、見てきたような嘘をつき」や「また聞き」と「勝手な想像」による情報の変質もある。この点に注意したい。

さらに、図書館とは直接的な関係はないが、次の情報も興味深い。

前回に紹介した「世界の文字とことば」(町田和彦編、執筆者100名、河出書房新社、2014/8)の「世界の文字分布地図」は、下の図に示すとおりである。なお、言語は専門性が高く執筆者も多くなる。

 世界の文字分布

 出典:「世界の文字とことば」(町田編)の表紙裏見開きページをコピー。
 筆者の追加情報:文字の分布を分かり易くするため、赤色楕円形と四角形を追加した。
  赤色の楕円形⇒ラテン文字(欧州、アフリカ、南アジア、豪州、南北米州6地域)
  赤色の四角形⇒ギリシア文字、アラビア文字、キリル文字、漢字、漢字&かな文字(日本)
  その他の文字⇒ヘブライ、グルジア、エチオピア、ペルシア、ウルドゥー文字など20文字

上の図を補足すると次のようになる。
1)ヨーロッパ地区はラテン文字となっているが、英語、仏語、独語、西語、伊語、ポル語、、、の文字の発音、文法には違いがある。また、各言語にはそれぞれ固有の文字がある。たとえば、仏語のç(
cédille:セディーユ)や独語のß(Eszett:エスツェット)。
2)今日、世界の現用文字(日刊紙が使用する文字)は28種【参照:中西印刷株式会社のHP】、他方、世界の言語の数は5,000~7,000だが、正確な数は把握できないと云うのが定説。
3)したがって上の図が示唆することは、新聞・情報誌・インターネット記事の情報は氷山の一角に過ぎず、世界には隠れた情報が計り知れないほど多い。ただし、知る必要があるか否かは別問題。
4)すでに消滅した多くの文字や言語や文明・帝国、たとえば中南米のオルメカ、マヤ、インカなどは、上の図に表れない。「滅びたもの」と「滅ぼされたもの」を両極端に、変化し続ける人類の歴史は複雑である。日本語がこの分布図から消えないことを祈る。

以上のことを参考に、まずは、アレクサンドリアへの“想像の旅”をスタートする。その旅はありきたりの観光でなく、自分の英語力を確認する旅になる。

続く。

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脳梗塞とリハビリ(5)

2017-05-25 | 日本の将来
脳梗塞とリハビリ(4)から続く。

4.新しい人生への夢
(1)過去からの脱皮
約80年の人生で入院生活は2回、一回目はバンコクの心筋梗塞で10日余り、今回はリハビリを含む3ヶ月の長期入院になった。バンコクの退院では、タバコは止めた。さらに、野菜と果物で食生活を健康指向に改めた。今でもタバコの煙は好きだが、吸いたいとは思わない。ネガティブな世相というか、欧米で禁煙の風潮が高まるにつれて、良く知らない仲でも何かのきっかけで自分のタバコを相手に勧め合う光景もなくなった。

今回の入院では、二つの変化があった。その一つは、諦めかけた自立歩行をリハビリで取り返した。もう一つは、過去からの脱皮だった。車と運転との決別、すべてのマイレージ・クラブの脱退、身の周りの余計なものとはおさらばした。また、自然に逆らうこともしない。飛行機では途中下車ができないので海外にもいかない。パスポートや持ちものは不要、手ぶらでも「記憶と想像の世界旅行」はいつでも好きな時にできる。オマケにただである。

無に還った心境のなか、リハビリ中に若い女性療法士さんと「永遠の0」(百田尚樹)の話しになった。その療法士さんから本を借り、読み始めるとたちまちはまり、数日で読破した。さらに、別の女性看護師さんから「海賊とよばれた男」(百田)も勧められ、それにもはまった。

意外にも、うら若き女性たちに勧められ、「日本のこころ」を物語る書に感動した。信念のある主人公たちの人生は堂々としている。その立派さに励まされて、せっかくの人生を後ろ向きではもったいないと思った。

しかし、残る人生は、老化現象+心筋梗塞&脳梗塞を抱えている。すでに手遅れとの感があるが、Nothing is too late to startと思い直して、貴重な人生を余すことなく生きようと思った。そこでドン・キホーテよろしく、今まで経験できなかったメンタル・タイム・トラベル(時空を超えた想像の旅*注)に思いついた。
【*注:メンタル・タイム・トラベル=過去や未来を描く能力をいう。古代人の洞窟壁画や死者の埋葬と副葬品はこの能力に由来するという。「最古の文字なのか?」(後述)】

筆者の「記憶と想像の世界旅行」は一種のメンタル・タイム・トラベル、この旅を通じて少子高齢化社会や日本の教育への思いをこのブログで発信するのも悪くない。

(2)今後の夢
今回のリハビリでは自立歩行に苦戦したが、人類の二足歩行はいつ頃からか?とよくある単純な疑問に直面した。そこで、人類の一人として人間の歴史を詳しく知りたいと「人類の足跡10万年全史」(S.オッペンハイマー、仲村明子訳、2007/10)を読み直した。

この書物は、現生人類のミトコンドリアDNAを手掛かりに、15万年以上前のアフリカから8万5千年前の出アフリカ、さらに1万2千年前に南米チリに至るルートを示している。

遺伝子の追跡調査では、現生人類より遙か昔、300~400万年前の類人猿「ルーシー」も話題になる。「ルーシー」はアウストラロビテクス・アファレンシスの一族、身長1~1.5mの女性、「はっきりとした直立二足歩行」、現生人類とよく似た骨盤、脳容量は375~500CCだった。【参考:当ブログ、日本の将来---5.展望(1):人類の人口推移と日本(2014-03-25) の2.人類のイメージ、左端の写真が「ルーシー」】

別の書物「最古の文字なのか?」(G.ベッツィンガー、櫻井裕子訳、2016/11)によれば、世界最古の石器は330万年前のもの、あの有名な「ルーシー」の時代の石器である。さらに時が流れ、ホモ・エレクトスのアシュール型握斧(ハンドアックス)は150万年前の石器である。このハンドアックスは前期旧石器時代の主流だった。この頃の石器造りのプロセスには、大ざっぱであるが工程分割の概念があり、素材のある場所への工具の持運び(携帯)もあったらしい。

「最古の文字なのか?」のテーマは洞窟の壁画や幾何学記号の解明、さらには絵文字や文字・言語の研究である。著者はカナダ・ビクトリア大学人類学博士課程の女性研究者である。ヨーロッパ368ケ所の洞窟に潜り、収集した壁画の絵や記号をデータベース化した。そのデータベースから32種類の基本的な幾何学模様を割り出した。

この書物がカラー写真で紹介する1万6千年前の小さなシカの歯の首飾り48本に残された記号群は何を意味するか?石器で刻まれた記号は、顕微鏡分析では「ためらいや刻み直しが見られない」手慣れた仕事だった。さらに、シカの歯が遠くからの交易品だったため、25歳の若さで他界した女性の首飾りがきっかけで新事実が明らかになる可能性がある。現在、アフリカや他地域の洞窟は未調査、さらなる情報収集とデータベースの充実が楽しみである。

ここで「交易」という言葉がでてくるが、この言葉に、いろいろな人びと、珍しい品物、大道芸が集まる広場や市場を想像する。やがて、そこに古代文明が開花する。

現在の定説によれば、古代メソポタミアの楔形文字やエジプトのヒエログリフ(象形文字)は、せいぜい5000~6000年前のものである。楔形文字やヒエログリフは絵文字が進化した「読める」文字としている。

「図説、世界の文字とことば」(町田和彦、2014/8)によれば、世界の言語は5000~7000だが、文字の種類は言語の100分の1以下という。ちなみに、このブログの「英語と他の言語(10)2013-03-25」でリンクした中西印刷株式会社の「世界の文字」によれば、現用文字は28種類、歴史的文字は98種類とある。

氷河期の終わり頃、1万年前頃から狩猟・採取社会は農耕社会に移行して、交易も盛んになった。最古のトークン(Token:商品引換票)は、1万年から8000年前のメソポタミアのものといわれ、取引品目の絵を描いた粘土板だった。

各地を結ぶ交易ネットワークの中心地である市場では何をどのようなことばで取引したのだろうか?また、何を食べ、どのような歌を歌い、どのようなパフォーマンスを楽しんだのか?興味は尽きない。「世界の美しい市場」(tabinote、田口和裕、渡部隆宏、2017/5)は世界各地の市場65ケ所を紹介している。

ヒューストンの次はアレクサンドリアの図書館、その次はウィーンのE2(イー・ツバイ:路面電車のルート番号)、、、と思っていたが、今回の脳梗塞で夢に終わった。しかし・・・

次回から、「記憶と想像」の旅を続ける。


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脳梗塞とリハビリ(4)

2017-04-25 | 日本の将来
前回の「◇片足立ち」から続く。

◇視認:OT(職業/作業療法)の課題
投げ上げた「お手玉」のキャッチ。これがうまくキャッチできない。

簡単な作業だが「お手玉」が視界から消えるのでうまくいかない。冷静にみると投げ上げたときは見えるが、落下の途中で「お手玉」を見失う。さらによくみると、見えたり見えなかったり、「お手玉」が映画のコマ送りのような状態で見える。これは、目が「お手玉」の動きをリアル・タイムで追尾できないためである。

むかし西部劇で、拳銃の早撃ちは0.1秒のアクションと聞いた。相手の動きに1/10秒の早業で応える。それは、コンピューター用語ではレスポンス・タイム(応答時間)=0.1Sec.という。この応答時間が遅いため、目が「お手玉」を見失う・・・リアル・タイム性が悪いので「地対空」の制御がうまくいかない。(座っている筆者=地、空中のお手玉=空)

対策:
a.頭を静止、目を左右、上下に動かす。
b.頭を静止、目の前に親指を立てて左右に動かし目で追う。また、水平の親指を上下に動かし目で
  追う。
c.親指を静止、頭を左右、上下に動かし、親指を追う。また、頭を左右にかしげて静止した親指を
  追う。
d.お手玉やテニスボールのキャッチ、また、お手玉を3、4m先の壁に投げる。

眼球の分解掃除のように思ったが、目がスムーズに動くにつれ、キャッチのミスも減少した。しかし、タイミングのズレもありミスが皆無ではない。このミスは見えないので気付かない。

◇同時並行作業:OTの課題
一つの作業をしながら、別の作業をする。一般に言う「ながら作業」である。「ながら作業」が難しいのは老化現象のせいもある。

人間の「ながら作業」の処理方法とは違うが、コンピューターには並行処理(Parallel Processing)や多重タスク処理(Multitasking)がある。処理能力に余裕があるコンピューターは、見た目には多くの作業を同時に実行しているように見える。もちろん、これらの処理には一つの仕事だけに偏らないようにする仕組みがある。しかし、仕事の内容にもよるが、同時に多くの人がコンピューターを利用するとレスポンス・タイムが遅くなる。

ちなみに、コンピューターの高速処理を表す指標の一つに、MIPS値(Million Instructions Per Second:毎秒100万命令を実行)がある。1980年代の汎用大型機は1MIPS程度だったが、今日では1,000MIPSのコンピューターも存在する。【例:四則演算の“+”や“-”は一つの命令(Instruction)】

次の対策は「ながら作業」に慣れる作業である。かなり難しいが、実生活ではほとんどは「ながら作業」である。

対策:
a.ラケットにテニスボールほどの球を乗せて、廊下を歩く。対向者の回避や廊下の坂も歩く。
  (手元のボールから目線を上げると対向者が見えて回避可能・・・遠山を見る目つき)
b.サッカーボールほどのボールのドリブルで廊下を行き来、敏捷性を強化する。ゆるい坂もある。
c.体の柔軟性の強化・・・骨盤運動や平行棒と傾斜可動踏み台で柔軟性を改善する。
d.階段の上り下り、手摺を持たない上り下りも試みる。「下り」の不安感が大きい。
  (実生活では手摺がある壁際を歩く。転倒防止が最優先)

現在:
「視認」と「同時並行作業」を繰り返すうちに、自立歩行が安定し始めた。リハビリ室の平坦な床では、自立歩行は安定するが、芝生の柔らかな感触、横断歩道や通路の小さな段差、公道の歩行者や自転車の動きで自立歩行が不安定になる。足裏、目、耳からの情報が多く、脳の反応が遅れて体の制御が乱れる。街なかの実地訓練でかなり慣れたが、今でも立ち止まることが多い。

自分と相手それぞれが「空間を動く」、これは「空対空」の相対運動、その制御は複雑になる。渡り鳥の隊列や艦隊航法は相対運動の例である。車の自動運転もこの関係にある。リハビリの場合は、不安になれば立ち止まれば「空対空」⇒「地対空」に制御の難易度が下がるので安定しやすい。異常があればまずしゃがむ、あるいは何か寄り掛る。これはリハビリの基本と教わった。

◇同時並行思考:ST(言語・視聴覚療法)の課題
これは頭の中の「ながら作業」である。頭のすばやい反応が決め手、脳トレにもなる。

対策:
a.当日の新聞記事を音読しながら、特定のカタカナ一文字を見付け、記事の大意を記憶する。
b.カラーのブロックや絵を組み合わせて指定の模様を描く。
c.トランプ・カードをめくりながら、たとえばスペードの数字を加算する。
d.ランダムな一桁数字を聴き、突然ストップ、最後の3桁を答える。また、カセット・プレーヤーから
  流れる音声のうち、特定音声に応える。

ゆっくりと処理すれば簡単だが、スピードを上げると難しい。実際にはコンピューターと同様に、異なった仕事が交互に続く状態である。たとえば、a.では「音読」「文字検索」「文意の記憶」という3つの作業をすばやく切り替える。その切り替えで慌てと焦りが生じ、頭が混乱する。ちなみに、現在のコンピューターには感情はないが、早晩ビッグ・データ由来の知能や好み(Preference)を持つと思われる。その時、コンピューターも“もたつく”かも知れない。

現在:
STの検査項目の一部は、年齢層別に自己得点と最高、平均、最低点がグラフで図示される。客観的な自分の位置が分かるので大変役に立つ。得点の中には、最低点以下の項目もあった。それが自分の実力=実像である。自分だけは例外と過信するのは禁物である。

リハビリの入院生活で、体の柔軟性も一つのキー・ポイントと痛感した。

大学卒業からは仕事だけ、ゴルフやテニスその他の娯楽には無関心だった。そのせいか、筆者の体の硬さは先生たちに有名で、柔軟性の改善を大きく阻害した。ただ一つ、握力だけは今も強く右40Kgと左35kg、学生時代の激しい運動(カッター部:端艇)の残り火は今も続いている。総じて、筆者の体の特性はリハビリには不利と分かった。しかし、毎日のリハビリでわずかな変化を重ねるうちに、変化が励みになり徐々に身体の動きも良くなった。

以上、3ヵ月間のリハビリは160回以上、22人の療法士の先生から指導を受けた。バランス感覚の障害で、立つことはもちろん、ベッドの端に腰掛けることもできなかったが、自立歩行までに回復した。リハビリの専門家たちに感謝している。

楽観ばかりではない復活、80歳代に向かう今後の自立歩行はポンコツ車ていど、高速道路をスイスイとはいかない。それがバンコクに続き今回も神に救われた自分の姿である。ポンコツとはいえ、胸を張ってつつがなく人生を全うすることが神への答礼である。

続く。

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脳梗塞とリハビリ(3)

2017-03-25 | 日本の将来
脳梗塞とリハビリ(2)から続く。

(3)リハビリ生活の中身
2)リハビリの本質
まず、リハビリの目的は、失った運動機能を取り返すことである。失った運動機能は手足の動きだけでなく、視覚や聴覚やバランス感覚など、目に見えないものもある。

具体的には、療法士の先生の動きを、何回も真似ながら失った動きを少しずつ取り戻す。その動きで、脳の中に新しい脳細胞の回路(ネットワーク)が生れ、動作の反復でその回路が活性化し、徐々に脳内に定着するという。

その論拠は、心筋梗塞では壊死した心筋は再生しないが、脳梗塞ではリハビリにより別の脳細胞が新しい回路を作り、失われた機能を補完する。心筋はOnly One、脳には使われない予備細胞が待機しているので再生が可能という。これが心筋梗塞と脳梗塞の違いだと先生たちに教えられ、絶望から希望が湧いてきた。

たとえば、筆者は体を右にひねると激しい目まいに襲われた。この症状に対して、輪投げの輪を10個左から右に移動、続いて逆方向の作業、これを繰り返しと徐々に目まいが改善した。この改善では、単に輪投げの輪の移動だけでなく、ベッドでのマッサージとストレッチも必要だった。さらにエアー・クッションを利用した骨盤の運動や平行棒での歩行訓練、また、平衡感覚を取り戻す目と首の運動や「同時並行動作」(後述)も必要だった。

リハビリを進めるにつれて、一つの症状に潜む多くの原因を探り当て、一つひとつを改善しなければならない。その作業から、人間は、脳という名のコンピューターと骨格・筋肉という名の動力系が構成する極めて緻密な生きものと知った。脳の指令であちこちの筋肉が動き、総合的に微調整を加えながら目的を達成する。80年近くも人間として生きたが、人体への無知さ加減を我ながら恥ずかしく思った。

動作の繰り返しで新しい脳の神経細胞の回路を生成することは、新しいコンピューター・プログラムを脳に刷り込むことに等しい。それは、今日の工場でみられる学習型ロボットに新しい動作を覚えさせるのと同じである。なお筆者の独断だが、脳内のコンピューターはデジタル・コンピューターでなく、アナログ・コンピューターに近いとみた。【補足1参照】
【補足1:コンピューター】
 今日ではコンピューターといえば、デジタル・コンピューターを意味する。しかし、1960年代のデジタル・コンピューター(デジコン)には、大きさ、計算速度、記憶容量、リアルタイム性に多くの課題があった。当時、デジコンとは別にアナログ・コンピューター(アナコン)も存在した。現在でも、微分回路(電気回路または機械的な仕組み)など、いろいろなアナログ系のシステムや機構が存在する。たとえば、このブログ冒頭の「ほのるる丸」の速度計は、ピトー管と回転子と回転円錐板から成る微分機構(メカ)だった。【参考:高校物理⇒距離を時間で微分=速度、速度を時間で微分=加速度】
 アナコンは電圧・電流などの強弱をそのまま数値に見立てて数値計算をするコンピューターである。数値の計測精度は低いが、変化への反応が速いというリアルタイム性に優れているため、制御系の分野で活躍した。
 さらに、アナコンとデジコンそれぞれの弱点を補完するために両者を連結したハイブリッド・コンピューター(Hybrid-computer)も存在した。ちなみに筆者がヒューストン大学で経験したシステム制御用のハイブリッド・コンピューターは32チャンネルのAD・DA変換回路(Analog Digital・Digital Analog Converter)がアナコンとデジコンを連結していた。当時、システム制御には便利だったが、小型化・軽量化には程遠い代物だった。
 デジコンとアナコンの大きな違いは、取り扱うデータにある。たとえば、デジコンが計算する数値は2進数(文字も2進値に変換)、他方、アナコンは電圧や電流の強弱(ボルトやアンペアの値)をそのまま使用する。人間が感じる温度、痛み、甘み、音などはアナログ系のデータである。
【補足2:神経細胞の伝播速度】
 新幹線が誕生した1960年代の中頃、運転手が前方に障害物を見付けてブレーキを掛けるまでの時間が新聞に載った。その記事で、神経細胞の伝播速度は、秒速約70mと知った。
 今日では、神経細胞の伝播速度は、情報の種類と伝達部位により異なるが、毎秒数mから100m程度といわれている。デジコンとアナコンが扱う電気や電波や光は秒速30万km(一秒で地球7回り半)、人間に比べて超高速処理が可能である。ただし、伝送する情報量は、データの圧縮やブロッキングの技術が介在するので伝播速度だけでは単純に比較できない。

ここで書物の引用になるが、イルカは知能、運動能力、コミュニケーション能力ともに優れた高等動物といわれている。講談社の「イルカと人間」(黒木敏郎著、1973年)には、“イルカやシャチの脳の神経細胞がヒトの十分の一程度と仮定しても・・・イルカの脳作用と同じ作動を行い得る計算機や制御システムを組み立てたとした場合・・・たいへんな重量と大きさになり、そんじょそこらの潜水艦に積んだら、ただその装置の重さだけで沈んでしまう仕儀になりかねまい。”とある。

潜水艦はさておき、21世紀の現在でもコンピューターはまだまだ発展途上、ハードとソフトの将来は計り知れない。リハビリの分野でもコンピューターの活用が進み、近い将来にはCAP(Computer-Aided-Person:コンピューターに支援された人=筆者の造語)と呼ばれる人が現われ、高齢化社会の様相が一変するだろう。

想像に過ぎないが、内装型(Built-in:埋め込み型)や外装型(コルセット、服飾品、装身具などの着脱型)の補助具が現われ、遠隔操作が加わると夢が広がり、同時に危険性も増す。たとえば、90歳のジイサンが、今日はハイキング、人工筋肉を付けて行こうなどといった具合である。この種の補助具は、すでに物流や介護の業界で実用化に入っているが、軽量化とポータビリティーが進めば高齢者たちの日用品になると思われる。その頃、車の自動運転や社会のロボット化が進み、技術の発達に応じた法整備も欠かせない。経済格差以前に知識格差が深刻になる恐れがあり、STEM教育の必要性も忘れてはいけない。【参照:2)STEM教育(ステム教育)、ヒューストン再訪(3)】

コンピューターの話で脱線したが、ここで3ケ月にわたるリハビリで気付いた自分の姿を紹介する。

3)リハビリで判明した自分の姿
昨年10月3日の脳梗塞発症で失った運動機能は数々ある。「失った」機能の中で最も厄介なのは、「失った」と認識できない「失った」ものである。ある日、突然顕在化して大きな混乱を招く「プログラム・バグ(虫)」(注)のようなものである。これは生命にかかわるので、リスク管理の対象になる。【注:コンピューター・プログラムの最終テストでも発見できなかったエラーをバグという。バグの発見と修正には時間がかかる。】

なお、幸か不幸か役所の要介護認定で筆者は「非該当」(2017/1/17)、「介護保険」は役立たずだったが、それでいいと思っている。福祉社会といえど最後は「自分の身は自分で守る」ことになる。

以下、日常生活に欠かせない幾つかの基本的な運動機能のリハビリを「対策」と「現状」に分けて紹介する。ただし、この説明は筆者の記憶と解釈であり、リハビリ病院の治療指針とは関係ない点に注意されたい。

◇片足立ち・・・二足歩行は片足立ちの連続:PT(理学療法)の課題
脳梗塞の前は小学生の孫とよく競い合ったが、小脳の梗塞で第一に「片足立ち」ができなくなった。

人間が立ち止まっているときは両足で体重を支えている。この状態から前進(後進)するとき片足立ちの状態になる。この時、入院生活で筋肉が落ちて片足で体重を支えきれない、ふらつく、不安定などが原因でうまく直進できない。特に、階段の上下は支える足に大きな力が働くので転倒の危険性も大きい。「高齢者⇒転倒⇒大腿骨骨折⇒寝たきり」は最悪、しかしこのケースは意外に多いという。リハビリ中によく注意された。

対策:
a.平行棒を利用した片足立ちの練習、歩行訓練では継ぎ足歩行は非常に難しく今も困難
b.エアー・クッションなどの器具を用いた骨盤運動&バランス感覚の回復
c.お手玉投げ&真後ろ(マウシロ)を見るように身体を左右にねじる運動
d.リハビリ室、院内廊下(訓練用の緩い坂あり)、院内庭園(訓練用に設計した小道、飛び石、階段、
  芝生斜面など)、公道、電車の乗降車、横浜駅の雑踏、スーパーやショッピング街などの先生同
  伴の歩行訓練・・・指、手、足裏の触覚、視覚、聴覚が察知する外部情報とそれに反応する脳の
  細胞回路の活性化と定着
e.不意に前後左右から押された時の身体の立て直し、細い道への対応、ジャンプなどの訓練

現在:
今年(2017)1月5日の退院時点では30分1.5kmていどの自立歩行が可能になった。階段の上り下りが可能だが、必ず手摺に手を掛けて転倒を防止する。これでPTの目標達成。

現在は、家内と二人連れで徒歩/電車利用の2、3時間の外出も問題なし。単独行動を避け、車の慣らし運転の状態、3月一杯は週一の外来リハビリを継続。

「◇視認」に続く。

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脳梗塞とリハビリ(2)

2017-02-25 | 日本の将来
脳梗塞とリハビリ(1)から続く。

3.リハビリテーション
(1)病棟の様子
小脳の梗塞は約3週間の治療で終了、自宅近くのリハビリ病院に転院した。この病院は4、5年前に小学校跡地に開設されたリハビリ専門病院である。カタログによれば、病床数は224、うち回復期リハビリテーション用132床、障害者用44床、医療用48床である。昔は子供たちの運動会で訪れた広々とした敷地、まさか自分がリハビリでお世話になるとは思わなかった。

(2)患者の顔ぶれ
筆者が入院した病棟は、回復期リハビリ棟の4階フロア、患者は40数名だった。患者数は入退院で常に変動するが、筆者が入院していた約2ヶ月半では女性が少し多めだった。

食堂に集まる患者の過半数は車椅子、次に歩行器や杖の人、自立歩行は5、6人だった。もちろん、車椅子から歩行器や杖に変わる人、逆戻りする人もあり、着席に必要なスペースが変化するので食卓の変動は日常茶飯事だった。車椅子での着席、手が不自由、食器の取扱い、薬の服用、食後の歯磨きなど、食事が始まると看護師・介護士さんたちスタッフは大忙しである。

患者の年齢層は30から80歳代、推定だが60歳代以上が圧倒的に多かった。リハビリの原因は脳卒中、脳手術、骨折など様々だが、食堂に初めて入った時の印象は、老人ホームのような感じだった。首に前掛けをかけて食事をとる人びとに、日本の将来を見た気がした。

79歳を迎えた筆者は高齢者よりさらに高齢の後期高齢者である。しかし、長年の独り旅で身に付けた「自分の身は自分で守る」と「余裕があれば他人を助ける」は忘れまいと本能的に考えた。また、その考え方がリハビリの本質だと後で気付いた。

(3)リハビリ生活の中身
入院中は、朝食=7時頃、昼食=12時頃、夕食=18時頃、消灯=21時、以降朝6時の点灯まで読書灯やTVはNGになる。50歳代より若い世代には、長い夜を苦痛に感じる人もいる。また、夜間のトイレの介助や見守りなど、ナース・コールを掛ける人も多い。なお、食事時間を「頃」としたのは、ひと口ひと口と流動食やスプーンで食事を取る人には定時前から定時後まで介護士さんが付きっきりになるからである。列車の時刻表のようにはいかない世界である。

リハビリの内容と時間は、患者に応じて異なるが、平均して1日3回ほどのリハビリを受ける。リハビリは1回1時間、リハビリとリハビリとの間に少なくとも1時間の休憩が入る。しかし患者が立て込むと休みなしの場合もある。患者別のスケジュールは週単位で決まっている。

前回でも触れたが、リハビリはOT(Occupational Therapy:作業療法)、PT(Physical Therapy:理学療法)、ST(Speech Therapy:言語聴覚療法)に分かれている。筆者の場合は、OTとPTが多く、STは週2~1回ほどだった。

1)リハビリの目標
OT、PT、ST併せて100人以上の療法士の先生が指導する内容は、患者一人ひとりの目標に対応している。自立歩行ができない人、右手が不自由な人など、障害とその度合いは百人百様である。患者はそれぞれの目標に向かって日々のリハビリに励んでいる。

筆者の目標は、「自宅から2、300m圏内にあるスーパー、公共設備、駅への自立歩行」だった。この圏内で日常生活はこと足りる。

リハビリ中の頭の中にはヨーロッパの静かな広場、そこには商、公、教、文化施設が整い噴水が憩の場になっている。噴水の木陰で街の芸術家がキャンバスに向かっている。あるいは、エトナの中心街のようなコンパクト・シティーが頭に浮かぶ。

青い空に浮かぶ真っ白な雲、緑の丘に囲まれたコンパクトで静かな町(City)を思う。エトナは山岳地帯の町だったが、ダウンタウンに坂道はなかった。今まで忘れていたが、コンパクト・シティーの要件として水に強い平坦な土地を追加する。坂道や山の斜面はもっての外、数百年に一度の津波を恐れて、岸壁の町から山の斜面に移住するなどという構想は、素人の発想、NGである。移住先の安全をとるか?数百年にわたり寝起きを共にして実現する岸壁の繁栄をとるか?二者択一でなく、数世代をかけて新しい技術を開発する気構えで取り組むべき課題である。その課題は、Risk Seeking(リスクを積極的に取る)/Risk Aversion(リスクを回避する)の観点で幅広く分析すべきである。

この問題については、200~300年の計で日本の姿を計画すべきである。国交省の2050年を目標にするGデザインではあまりにも近視眼的にすぎ、薄っぺらな紙に描かれた空論に見える。もっとも、百年単位の視点で地球を見ると、泡沫(ウタカタ)のように儚い国が多い中、200年先にも日本とその国土が存在するように「自分の身は自分で守る」ことがまず大切である。「自分の身は自分で守る」ことに「反対」「反対」では話にならない。いわれのない不安でヒステリックになるのをパニック・テラー(Panic Terror)という。・・・語源=ギリシャ神話

坂道で思い出すが、日本語の「山の手」には高級住宅街のイメージがある。しかし、たとえばリオの山の手は高級住宅街どころか貧民街である。他にも、ダウンタウンに比べて生活に不便な山の斜面に掘立小屋が立ち並ぶ光景もある。また、日本の大都市近郊では、1960年代は見晴らしのいい憧れの新興住宅街だったが今では過疎化が進み、交通の便も悪い。陸の孤島に残された街並みと老人にとっては、かろうじて生き残った2km先のただ一軒の八百屋への買い出しも一日仕事と昨年NHKテレビが放映した。5、60年前には想像もしなかったとため息をつく80歳代のおばあさんの姿が忘れられない。

小脳(バランス感覚)の梗塞で歩行障害を持って初めて分かったことだが、車椅子や歩行障害者にとっては、坂や階段やエスカレーターは鬼門である。特に、混み合った下りエスカレーターでは降りるときが危険である。もちろん、筆者が入院したリハビリ病院にはエスカレーターは一台もなかった。

参考だが、皇居(含外苑:230万m2)ほどの広さがるヒューストン大学(270万m2)のキャンパスには、約150の建物がある。筆者が知る限りだが、校内には昔からエスカレーターが1台もない。すべての建物の入り口はスロープ付き、古い建物の観音開きの出入り口も90年代には自動化を終え、電動車椅子の学生も自由に校舎を移動できた。出入りが多い学生センターやヒルトンホテルもエレベーターだけである。筆者の記憶だが、エレベーターは必ず2台(門)以上、しかも大型で低速である。物資の運搬用も兼ねているようだった・・・目先の流れに妥協しないある種の思想を感じる。他方、人出の多いショッピング・モールにはエスカレーターもあるが、その脇にはガラス張りのエレベーターが待機している。エスカレーターだらけの日本の建物は、今は便利だが将来が気に掛る。【参考:ヒューストン再訪(5)、(8)50年の時の流れ

リハビリは一日に3時間ほどだけ、後はベッドや食堂で時間をつぶす。まさにKill Time(時間をつぶす)である。おまけに、読書もできない長く暗い夜が待っている。そこで、夜ごと世界の音楽で懐かしい昔を、ヘッドホーンを通して頭の中に再現した。絶え間なく流れる百数十曲の音楽は砂漠のオアシス、乾ききった頭脳に水、こころがすっかり若返った。音楽は本当にありがたい。

バランス感覚を失って身体は不自由だが、幸い思考力には目立った不具合はない・・・と思っていたがそうではなかった。・・・頭の中に生きる梗塞前の自分は今では過去の人=虚像、その虚像のベールを剥がして現在の自分の姿=実像を明かしていくのがリハビリ。リハビリは単なる体操ではない。

続く。

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ブログ再開のお知らせ・・・脳梗塞とリハビリ(1)

2017-01-25 | 日本の将来
前回から続く。

1.「ブログ休止」変じて「脳梗塞入院」
前回「小諸城址」(2016-09-25)の末尾で、このブログを2~3ヶ月休止するとお知らせしました。その約1週間後の昨年10月3日に脳梗塞を発症、今月5日(2017-01-05)まで治療とリハビリで入院しました。現在は週1回の通院でリハビリを継続中。

思わぬ不運との出会い、まさに人生の明日にはなにが起こるか分からない。しかし、不思議なことに今回も「途切れない糸」は途切れることなく、筆者は今も生きている。

生と死は紙一重というが、2004年8月9日のバンコクでの心筋梗塞も危なかった。あの時は、数ヶ所の冠動脈閉塞を画面で見ながら独り静かに死を覚悟した。人間は、いざとなれば意外に冷静になれるものだと思った。しかし、径2.3mmのステントの挿入で生命の減算が加算に変わり、発症後6時間も経過した心臓は奇跡的に持ち直した。

バンコクの退院後、横浜市立大学付属病院(横浜市大病院)で約半年間隔のカテーテル検査とステントの追加、最終カテーテル検査は2006年10月、今も定期的に受診している。治療中も近場(バンコク)の海外活動は継続した。今回は、同じ病院の脳卒中科のお世話になった。

バンコク病院(Bangkok General Hospital)を退院するときに、あと何年?との筆者の問いにベテラン医師(タイ人)の答えは「自分の患者は、12年後に亡くなったが、その死因は心臓病でなくガンだった。しかし、12年後あたりは注意しなさい。」とのアドバイスだった。

あのとき以来「12年」がいつも心に引っかかっていたが、その「12年」が今回は小脳梗塞という形で現実になった。この異変は、こころの奥底に潜む気掛かりな「活断層」が2016年秋という名の「地表」に姿を現したと云える。

この脳梗塞にはもう一つの不思議がある。それは、前々回のブログで紹介したヒューストンへの旅行である。

かつて、国連を目指して入学したヒューストン大学、その入学からちょうど50年後の昨年6月に、国連ハノイ校5年生(10歳)の孫が夏期講座に参加した。その講座は、2015年秋に筆者の娘がインターネットで偶然に見付けた小学生向けゲーム設計コース、その開催地がヒューストン大学だった。

孫の夏期講座参加は筆者にとっては「ヒューストンの呼び声」、その呼び声に応えるように筆者・娘・孫の三世代3人は大学を訪れた。孫の「英語力」と「コンピューター能力」に問題なし、喜々と新しい世界に溶け込む孫の姿に筆者は大いに満足した。その満足感は、任務を終えた第一段目のロケットが大気圏で燃え尽きるのに似たものだった。

ヒューストン空港で娘と孫はNYへ、筆者は成田へそれぞれの旅路に向かった。あの日あの空港で50年にわたる一つの物語は幕、しかし次の世代が展開する新しい物語が楽しみである。

---◇◇◇---◇◇◇---

「ヒューストンへの旅」を終えた筆者の人生は、3ヶ月後の同じ日に暗転、次の幕開けは救急車だった。

人生はどこまで行っても未知の世界、不測の出来事だけでなく、そのタイミングでも明暗が分かれる。人生は、あれこれと興味深い。

今回の脳梗塞も知るよしもなかったが、もし脳梗塞が「ヒューストンへの旅」の前ならば旅行は中止、50年にわたる物語も立ち消えになったはずである。逆に、旅を終えた後の脳梗塞は望ましいタイミング、おかしな話であるが今回は歓迎すべき脳梗塞だった。救急車で始まったが、この“親愛な運命”とは誠実に付き合おうと考えている。当然、やり残しの課題も立ち消えないのでこれも大きい。

このようないきさつで、今回は予定を変更、当分は筆者が体験した脳梗塞とリハビリの世界を紹介する。それは、高齢化社会の傾向と対策にもかかわる話に発展する。

2.脳梗塞と入院
16年10月3日朝6時、PC(パソコン)を立ち上げようと机に座ったとたん、激しい目まいで椅子から転げ落ちた。床に伏してもなお続く目まいで椅子の脚にしがみ付いた。119番で近くの横浜市大病院に搬送された。

レントゲン、MRI、CT、心臓エコーと下肢エコーと首動脈エコーなどで小脳梗塞と診断され、10月11日までの9日間は昼夜の点滴が続いた。症状が落ち着くとベッドの端に腰掛けることができるようになった。しかし、右に振り向くと激しい目まいに襲われた。ベッド真上の天井が壁のように横に見えるのも小脳のダメージが原因と知った。

目まいの改善、看護師と介護士さんたちのサポートで車椅子を利用、次に歩行器、さらに点滴支持器に頼る歩行・・・次々と症状は改善した。どうしても改善したいという強い意志は、海外生活で身に付けた「自分の身は自分で守る」そのものだった。たとえば、1リットルほどのペットボトルを利用して腕や指の衰えを防いだのも一つの工夫だった。

10月17日の入院15日目から始まったリハビリでOT(作業療法)とPT(理学療法)を毎日受けた。しかし、この病院では治療が主、リハビリは副である。したがってリハビリが主の専門病院への転院をソーシャル・ワーカーに相談した。

リハビリでは、まず障害を克服するために、基本的な体の動きを療法士(先生)から教わる。その時、器具を使うこともある。患者は先生の助けを受けて、その動きをまねて習熟する。ときには、自分の症状に絶望感を覚える患者には、先生と周囲の人びとの声援も大きな支えになる。たったの数メートルだったが、補助具なしの自立歩行ができたときは心から感激した。二足歩行の理論は知らなかったことばかり、その奥深さをこの歳になって初めて知った。

横浜市大病院で脳梗塞治療と基本的なOTとPTを受けて、入院から19日目の10月21日に自宅近くの横浜なみきリハビリテーション病院に転院した。

【補足:リハビリテーションの基本用語】
リハビリテーションにはOT、PT、ST、3つの療法がある。これら療法は身体の動きと脳内の神経回路を生成(活性化)させる。療法士(Therapist)は国家資格を持つ先生である。略語とその内容は次のとおりである。
◇OT(Occupational Therapeutics:職業/作業療法)=部品や道具を使って手/指先作業などを改善
◇PT(Physical Therapeutics:理学療法)=マッサージ、平行棒や道具で身体の動きや歩行を改善
◇ST(Speech Therapeutics:言語療法)=計算、記憶、視覚、言語などの能力検査と改善
 STは、転院先のリハビリ専門病院で指導を受けた。

余談だが、転院のため横浜市大病院の玄関で拾ったタクシーは、今どき珍しい神風タクシーだった。病院からリハビリ病院は直線距離で約2km、広々とした道路で急激な左折と右折や不必要な追い越し、途中から筆者は目まいを再発した。妻の支えで下車、リハビリ病院の受付でしばらく動けなくなった。受付の関係者は、運転手を特定できるので苦情を云うべきと憤ったが、60歳代になっても身に染みついた乱暴な運転と接客態度は、今さら治るはずはない。あの種の人間は「死ななきゃ直らない」人である。この体験で、筆者は「今後は車を運転しない」に傾いた。

続く。

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小諸城址再訪

2016-09-25 | 地球の姿と思い出
ヒューストン再訪(5)から続く。

(1)初めてのひとり旅
時は1961年、大学4年生の夏、人生で初めてのひとり旅にでた。京都駅から夜行列車に乗って中央線の小渕沢から小諸へ、小諸から高崎経由で東京へ、東京駅23時35分発の夜行列車で京都に帰るという5日ほどの行程だった。

この旅の目的は、中央線のスイッチバックと碓氷峠のアプト式電気機関車の体験だった。この二つは、日本からなくなる前にぜひ見ておきたいと思った。

当時の中央線はスイッチバックで峠を越える時代、信越線の碓氷峠はアプト式鉄道だった。スイッチバックは、列車が山腹を斜めに登り、次に斜め後進で山腹を登る。前進と後進のジグザグで峠を超える方法だった。アプト式はレールとレールの中間に歯車用の軌道を敷き、電気機関車の歯車と噛み合わせて急坂を登る鉄道だった。【参考:中央線のスイッチバックは1972年にすべて解消、碓氷峠のアプト式は1963年9月に廃止】

また、この旅では予期しない光景や親切に出会い、今も時々思い出す。その一つは小諸城址の草笛である。

小諸城址での光景、それは黒い頭巾に黒装束と地下足袋(ジカタビ)姿、まるで忍者か修験者のような人が石垣を背に草笛を吹いていた。口上もなく、ただ一心に草笛を吹き続ける姿が非常に印象的だった。後にも先にも草笛を見たのはあの時だけ、草笛は草でなく3センチほどの木の葉で吹くものと知った。今も、石垣を背に忍者姿で草笛を吹く光景が鮮明に現れる。

若い頃の記憶はいつまでも褪せることはない。あのスイッチバックと草笛は「黙々と何かに打ち込むこと」の記憶として頭に焼き付いている。それは、いわばスイッチバックと草笛の教え、その後の人生で難関に出会うたびにこの二つがこころに浮かび、努力した。

(2)小諸城址の草笛
最近、友人に誘われて、静岡の興津から52号線-141号線の約180kmを北上し、小諸城址を再訪した。もちろん、小諸と聞き反射的にあの石垣と草笛が浮かび上り、記憶をたどりたく思った。

昔の記憶を頼りに、ここに違いないと下の写真にある石垣を見付けた。近くで一休みする庭園の手入れをする人に、草笛の思い出を話すと、即座に「横山祖道」とその人の名前がかえってきた。この城址の有名人とは夢にも思わなかったので、驚きとともに来て良かったと思った。遅ればせながら、故人の冥福を祈った。

            小諸城址の石垣
            

下の写真は、草笛禅師「横山祖道」を紹介する看板と草笛再生ボックスである。再生ボックス中央のボタンを押すと、藤村の「千曲川旅情のうた」に対する「横山祖道」作の草笛の曲が流れる。

            石垣正面の横山祖道の看板
            

看板には草笛禅師「横山祖道」「昭和55年まで22年間の亘り雨の日も風の日もこの場所で難しい説教に代えて草笛の優しい音色で旅人や子供に教えを説いた」とある。この説明の下に島崎藤村の「千曲川旅情のうた」が記してある。

あれから55年、ふたたび同じ石垣の前で同じ草笛を聞いた。しかも、あの人はただ者ではなかった。道理で、あの草笛は時の流れに淘汰されることなくいつまでも生きている。半世紀振りの再訪で、目に見えない何かの存在を感じた。ふと、シャルル・トレネ作詞作曲の「詩人の魂」を思った。【詩人の魂:詩人が世を去った後も彼らの歌はいつまでも巷を流れる・・・といったフランスのシャンソン】

石垣のすぐ近くの展望台からは、下の写真のように千曲川が見える。この光景は今も昔も変わらない。懐かしさを感じるthe same old sceneである。

            眼下の千曲川
            

土曜日の城址は人影もまばら、静かに時が流れていく。日本の城の石垣は、大小の石が織りなす曲線美といえる。その曲面には武者返しの機能があり、同時に石垣の崩壊につながる壁面の張り出しを抑える効果もあるという。ヨーロッパでよく見る垂直で幾何学的な城壁とは異質、日本の城には天然とエンジニアリングの融合からくる「趣」がある。

帰途は、小諸から141号線と52号線を南下、興津に向かった。9月中旬の好天に恵まれ、川沿いの山々は美しく、水と緑が豊かな我が国の素晴らしさをつくづくと感じた。

            美しい山と川と集落
            

国道沿いの家々は手入れが行き届き、草むす屋根は見当たらない。外国の小さな集落に比べると、日本の豊かさが良く分かる。しかし、この豊かさはすでに陰り始めている。

国道から外れると途端に家並みが静かになる。舗装していない道はないが、行き交う人が少ない。あちこちにシャッターを下ろした店が目に付き、子供の姿は見当たらない・・・我が国の陰りである。しかし陰りがあれば、日差しもあるはず、見渡せば日差しに向かう新しい方向もある。

まずは現状分析が大切、少子高齢化により誘発されるであろう事象とその対策を、国道を南下する車内であれこれと考えた・・・次回に続く。

お知らせ:
このブログを2010年8月26日に始めて、今回で119回になりました。その内容は、思いつくままに言語、コンピューター、生産管理、ビジネス、国内外旅行などと多岐にわたりました。ここで1、2ケ月の小休止、過去の内容を整理した上でふたたびグローバル化と少子高齢化を念頭に、日本がとるべき方向を検討する積りです。
以上

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ヒューストン再訪(5)---大学内のスシ店と日本車

2016-09-10 | 地球の姿と思い出
ヒューストン再訪(4)から続く。

(6)大学のスシ店
母国を離れた留学生が多くの時間を過ごすのはどこか?・・・筆者の場合は、学生センターと図書館だった。多くの時間を過ごしただけ多くの思い出が残っている。

二つの建物は、下の写真のように隣同士、外観は50年前とほとんど変りない。しかし、建物の中はすっかり今風に生まれ変わっていた。

            図書館(左)と学生センター(右)
            

かつての学生センターには、食堂、書店、日用品店、郵便局、理髪店、ボーリング場など、何でもそろっていた。特に、自炊をしない筆者には食堂は必須の場所だった。

1967年の秋、ある名誉会(Honor Society)のヒューストン支部へのイニシエーション(入会式)もこの建物だった。2階の部屋で、ただ1本のローソクの明かりを前に、筆者の入会は認められた。居並ぶ人たちは黒いアカデミック・ガウンに四角い帽子、闇に浮かび上がる人びとのシルエットは幻想的な光景だった。もちろん、その儀式は現実の話、入会の証書と証(アカシ)の金製バッチは今も手元に保管している。

また、大学を訪れるたびに1階の書店で書物を買い求め、そのまま地階の郵便局から船便で自宅に発送した。専門書は重く、1冊1.5kg近くのものもある。今は齢相応にビジネス・クラスに乗っているが、エコノミー時代は手荷物の重量制限が気になった。この書店ではあれもこれも買いたくなる。

最近のリフォーム(Renewal)で学生センターの内部はすっかり変わってしまった。その一つは、日本庭園と呼ばれた庭がなくなったことである。20mX30m程度の小さな庭だった。

筆者が入学した1966年8月から聴講生として再入学した2003年秋まで、その庭園はこの学生センターの地階に存在した。1階の回廊から見下ろせたその庭園は、下の写真のようにステージ階段に変身した。ステージ階段は一種の階段教室である。

            日本庭園がステージ階段に変身
            

もともと、あまり日本風とはいえない庭だったが、今では跡形もなく消失した。さらに、庭園に面した学食は大きなフード・コートに変わり、マックやパンダなどが入っている。また、昔の日用品店はUHのロゴ入りコロンブス衣類店に発展、書店はスタバの横に読書コーナーを設けて1階から地階に移転、売場を拡張した。

建物の内部だけでなく、学生センターの北隣りに学生センター北館、美術館近くにサテライト学生センター(分館)も増設した。北館は体育系の施設、サテライトはフード・コートである。学生数の増加で、建物の増改築と駐車場の立体化が進み、270万m2(縦横約1.6km)の敷地も建物だらけの感がある。

下の写真は、サテライト学生センターのテラスである。テラスは地下になっており、建物は地下に隠れる構造になっている。

            サテライト学生センター(分館)
            

下の写真はサテライトのフード・コートである。今回、写真の右奥にスシ店があるのを知った。その名はスシック(Sushic)、しかし、サマー・タームは休店とのことだった。ニギリなどの「生もの」を扱うからかも知れない。

            サテライトのフード・コート
            

下の写真はスシックの店構え、背面にメニューがある。ニギリズシの写真もあるが、壁のメニューからロール(西洋巻き寿司)が中心の店だと分かる。

            サテライトのスシック
            

筆者は西洋寿司を食べたことがないので、外観と味はわからないが、壁のメニューを要約すると次のようになる。
注:メニューの英語は原文とおり、カッコ内の日本語は筆者のコメントである。ここでは「Imitation Crab(偽物のカニ)」はカニカマと訳す。また、手掛かりがないものは「内容不明」とした。
CONVENTIONAL ROLLS(伝統的で標準的な巻き寿司)
 CALIFORNIA ROLL(*1補足参照)、PHILADELPHIA ROLL(*2)、ATOMIC ROLL(アトミック巻き=内容
 不明)、CATERPILLAR ROLL(*3)、CRUNCHY ROLL(天かす巻き)、RAINBOW DRAGON ROLL(*4)、
 SHASTA ROLL(シャスタ巻き=地名?内容不明)、TEMPURA ROLL、TEMPTATION ROLL
 以上の巻物はいずれも一品$5.99~$9.99程度
COMBOS(盛り合わせ)
 ALL STAR COMBO・・・・・$11.99(カリフォルニア・ロールとカニカマなどのオール・スター盛り合わせ)
 DELUXE NIGIRI SUSHI・・・・・$7.99(デラックス・スシ=ニギリ6個、すし種は不明)
TERIYAKI BOWLS(テリヤキ丼)
 CHICKEN・・・・・$7.99(トリ)
 SHRIMP・・・・・$7.99(エビ)
 VEGGIE・・・・・$6.99(野菜=人参、椎茸、ブロッコリ、ピーマン、玉ネギ)
以上、29種類の料理のうち、主なものをリストした。

【補足説明】
以下、Wikipediaの「巻き寿司」の説明で上のメニューを補足する。

*1)カリフォルニア・ロール
補足=アボカド、カニ(またはカニカマ)、きゅうり、トビコ(またはマサゴ)を巻いたもの。裏巻きにする場合はトビコ(マサゴ)を外側に乗せたり、白胡麻をまぶすことがある。

*2)フィラデルフィア・ロール
補足=ベーグル・アンド・ロックス(ベーグル#動向を参照)が基になっており、生またはスモークサーモン、クリームチーズを使用。きゅうり(またはアボカド)やネギ(または玉ネギ)を含むものもある。

*3)キャタピラ・ロール
補足=カリフォルニアロールの上にアボカドだけを乗せたもの。「キャタピラ」はイモムシのこと。

*4)レインボー・ドラゴン・ロール
補足=カリフォルニアロールの上にマグロ、サーモン、白身(ハマチ、タイ、アバコ、ヒラメ、オヒョウなど)、エビ、(またはエビの天ぷら)、アボカド、アナゴ(またはウナギ)などを乗せたもの。
---補足説明おわり---

学生センターから日本庭園がなくなり、代わりにスシ店が現われた。どちらも「生粋の日本」とは言い難いが、「アメリカ生れの日本」には違いない。

(7)学内の日本車の割合
前回の2003年秋に続き今回は約10日の滞在、キャンパスを歩きながら思い出すたびに駐車している車が日本車か否かを「Yes、No」とカウントした。

前回は約2ヶ月の滞在、サンプル数は忘れたがキャンパスの車の6割以上が日本車だった。その理由として、学生は中古でも故障が少ない日本車を好むと推定(独断)した。

今回は、サンプルの総数が217台、うち日本車が106台、日本車の比率は約48.8%だった。本当は、1000台ほどのサンプルが望ましいが、今回はサンプル数が少なかった。また、今回は6月のサマー・ターム、学生は少なく職員や一般の訪問者の車が多かった。なお、日本車のメーカーはトヨタ、ニッサン、ホンダ、マツダの順に多く、スズキとミツビシそれぞれ1、2台だった。

(8)50年の時の流れ
今回の再訪で、このキャンパスに立って50年の時の流れを振り返った。

昔に比べてキャンパスの大きさはほとんど変わらないが、古い建物に新しい建物が加わり、バリアーフリー化と自動扉化やコンピューター化など、その中身は大きく変化している。ウエルカム・センター(歓迎館)やビジネス・センターや研究所の新設だけでなく、出入りする人々の幅も幼稚園児からシニアまでに広がっている。売店も子供のスポーツ服を売っている。

一方、大学内ではエスカレーターを見たことがない。ふと、60年代にロンドン地下鉄で見た大規模なエスカレーターは、今や時代遅れになったのだろうか?と思った。

いつの間にか消滅した日本庭園、代わりに現れた「アメリカ生まれの巻き寿司」、学内の半数近くが「日本車」という事実・・・「社会・文化的な距離」が日本から一番遠いこのキャンパスに「日本」が存在する。さらに、もう一つの驚きは、アメリカでも最も典型的な車依存社会といわれたヒューストンで、キャンパスを取り囲むように路面電車が走っている。その案内書は英語とスペイン語の2ケ国語である。

また、目を筆者の傍らの孫と娘に移せば、孫は朝8時から夕方6時まで10時間のパソコン教室、数日の体験で友だちもできヒューストンが大好きと云う。皆と食べる食事も楽しいという。娘もアメリカ国内でしか入手できない品物を手に入れ大満足、この地でアメリカを感じると云う。

今、このキャンパスには筆者と娘と孫の過去と現在と未来が混在している。その混在の一つの共通項は「フレンドリー(Friendly)」、そこに新しい視界が開けて未来への方向性を感じ取った。これは大きい。

10日少々の旅を終えて、娘と孫は知人たちの待つNYへ、筆者はダラス経由成田へ、ヒューストン空港からそれぞれの目的地に向かった。

筆者は第一段目のロケット、娘と孫は第二段と三段目のロケットと云える。ミッションを終えた第一段目のロケットは、先に向かう第二段と第三段目のロケットからヒューストン空港で分離、旅のスタイルを気ままな一人旅モードに切り替えた。

次回は国内旅行「小諸」に続く。

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ヒューストン再訪(4)---LRT(路面電車)

2016-08-25 | 地球の姿と思い出
ヒューストン再訪(3)から続く。

(5)ヒューストンのLRT(路面電車)
筆者が、LRT(Light Rail Transit:路面電車)の工事をダウンタウンで見たのは2003年秋だった。あれからすでに13年、驚いたことに、今ではヒューストン大学の北と南の境界道路を10分から15分間隔で路面電車が走っている。

昔のRapid Transitと呼ばれたバス・サービスはMetro(メトロ)に生まれ変わり、メトロバス(MetroBus)とメトロレール(MetroRail:路面電車)を運営している。ここでは、メトロレール=路面電車=LRT、メトロバスはメトロレールと接続する路線バスで9,000以上のバス停を持っている。

下の図は、MetroRailのHPから引用したメトロレールのネットワークである。図のRed Line(赤=21km)、Purple Line(紫=11km)、Green Line(緑=5.3km、一部工事中)はすでに稼働している。また、図に「計画」とある青と茶の路線は住宅地区とショッピング・モール(ギャレリア)方面に伸びている。

   メトロレールのネットワーク(稼働中&計画)
   

下の写真は、ヒューストン大学南駅である。開通して日が浅くチケット(カード)の自動販売機がぽつんとプラット・フォームに立っていた。大学はサマー・ターム(夏期)中、乗り降りする人は見当たらない。

            UH South/University Oak駅の様子
                       

電車の料金はバスと同じ、1回1ドル25セント(学生、65歳以上、障害者などは60セント)、3時間以内であれば乗り継ぎ可能である。90年代の昔から1ドル25セント、いつまでも昔のままであって欲しい。60年代は確か1ドル、当時1ドル=360円で高いと思った。

バスと路面電車は同じ乗車カードで料金も同じだが、なぜか、バスではドライバーにあなたは無料といわれた。よく分からないが、以後どのバスでも当り前のように無賃乗車を続けた。ドライバーは身分証明の提示を求めないが、見た目でシニアと判断するらしい。このあたりは、大らかというかいい加減というか、かなり大ざっぱである。

HPによれば、車両は全長30mの3連接車、たとえばH2型の定員=257人、座席数=56席である。座席が少ないのは車椅子や自転車の乗客への対応かも知れない。一般に、市バスやアムトラック(郊外電車)では自転車持ち込みはOKである。

下の写真は車内の様子である。座席は見えないが、手前に自転車が見えた。平日午後の4時ころの電車、駅に乗客なし、車内に乗客3~4人だった。

            車内の様子
            

下の写真は、レッド・ラインのダウンタウン停留場である。駅と駅の間隔は視界に入る程度である。メイン通りの中央に複線のレールが敷かれ、歩道とレ-ルの間に1車線の車道が通っている。プラット・フォームの高さは15cmほどである。写真には、3連接1編成の電車が2つ連なって写っている。写真右手前は隣の駅のプラット・フォームである。土曜日の夕刻だったが、ダウンタウンの交通量や人出は少ない。ギャレリアの賑わいに反して、ここに問題がる。参考だが、レッド・ラインの利用客は、1日48,000人ほどとの報告がある。

            ダウンタウンの駅(メイン通り:Main St)
            

上の写真にあるメイン通りを見て、ふと京都の四条通りを思った。昨年の秋、四条通りは1車線減らして歩道を拡張した。メイン通りは1車線減らして代わりにレールを敷いた。どちらも、往復2車線の車道を、歩道または路面電車に譲ったが、この小さな変化は未来を示唆しているかも知れない。【参考:京都訪問---四条通りの変化(続き)2015-10-50、このとき、ヒューストン再訪は夢にも思わなかった。】

ちなみに、ヒューストンのダウンタウンは100mほどの間隔の直交格子型都市、メイン通りが4車線から2車線になっても大きな混乱はなかったようである。ただし、LRT導入当初は路面電車と車の接触事故が多発したそうである。

下の写真はメイン通りとウィーラ-通りの交差点にあるTC(乗換え場)である。以前は、バスターミナルだったが、路面電車の停留所とバス停が一緒になった。電車のプラット・フォームの反対側がバス乗り場になっているだけである。駅というより一種の広場、人々は自由にレールの上を横切っている。日本の駅に付きものの陸橋(Overpass)や地下道(Underpass)とエスカレーター、通路に並ぶ小さな飲食店などは見当たらない。

            メイン通りXウィーラ-通りのTC(Transit Center)
            

ヒューストンの路面電車は、昔の京都市電やヨーロッパの路面電車と同じ感覚の電車である。筆者にとっては、路面電車は歩行者、車、バスと同列で街の視界内を行き来するものに思える。「歩く」より「チョイ乗り」の方が便利、あるいは「動く歩道」や歩行者を歓迎する「レッド・カーペット」に近い存在である。不要になれば巻き取れば良い。日本の大掛かりな鉄道とは異なったイメージの乗り物である。線路内に人が立ち入るたびに全線ストップ・点検というシステムとは本質的に違っている。

下の写真は、ダウンタウンの交差点を横切る路面電車、ヒューストンも変わった。

            ダウンタウンの交差点
            

人口では全米第4位のヒューストンは代表的な車依存社会、1940年代から90年代にかけての60年間、高速道路の建設だけに目を向けてきたといわれている。しかし、時代の流れに応じてその針路を変更し始めた。

そこには根強い反対があったが、地下鉄や高架電車という妥協案でなく路面電車の導入に踏み切った。それは、車依存社会からの脱却であり、ロスやアトランタでも見られる全米的な流れである。1972年にアメリカ交通省がLRTを定義してからすでに半世紀近くが経過した。

ヒューストンの郊外、たとえばダウンタウンから4,5km離れたヒューストン大学周辺では道行く人はめったに見かけない。歩行者や自転車・バイクの日常生活でなく、今も変わりなく車依存の生活である。車がなければ非常に不便、日本や東南アジアのようにあちこちにコンビニや小さな飲食店は見当たらない。日本の過疎地のような風景である。

逆に、人口が減少する日本の将来は、今のヒューストンのようになるのではないかと思う。水道、電気、ガス、通信、橋梁の老化が進む日本、国土交通省の「国土のグランドデザイン2050」で間に合うのだろうかと気掛かりである。人口の減少と高齢化の同時進行は、頭数の減少の2乗に反比例して人の活動を委縮させるのではないかと。

レールを敷いて路面電車を走らせる。しかし、ダウンタウンは別として、そこに待っていましたとばかり乗客が殺到するわけではない。それは、出だしは質素だが、将来への布石である。今から10年、20年もたてば沿線に変化が芽生える。そこから発展する5、60年先の街の姿が楽しみである。

将来、LRTの沿線に戸建てや集合住宅との複合住宅が立ち並ぶのだろうか、商業や工業、文教といった都市機能だけでなく、どのような新しいルールと文化が花開くのか、未知数が多い。未知への関心は、自分が存在するしないの問題ではなく、5、60年先の地球の姿への好奇心である。未知への好奇心の先には夢がある。その夢を育てるのが今を生きることである。

次回は「ヒューストン再訪(5)---大学内の日本車とスシ店」に続く。・・・寿司食材のおもしろい英語名を紹介する。

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ヒューストン再訪(3)---iD Tech Camp

2016-08-10 | 地球の姿と思い出
ヒューストン再訪(2)から続く。

(4)iD Tech Camp(夏期教室)への参加
孫は、6月下旬にヒューストン大学でiD Techの「マインクラフト 3D ゲーム設計」(Minecraft 3D Game Design)に参加した。コースの対象は、10-12歳の男女、期間は1週間だった。朝8時から夕方6時まで、休み時間と昼食もグループで行動するというコースだった。

課題は1週間でマインクラフトの3次元ゲームを作成、最終日に親たちに作品を披露するというコースだった。この課題を達成するために、ゲームの構想設計、基本設計、コマンドの用法、色の制御など、15項目の技術を習得する。もちろん、生徒が思い浮かべるゲームは生徒ごとに異なるので、授業は個別指導だった。

最終日の午後3時から保護者参加の修了証&成績表の授与と作品の発表会という段取りだった。

下の写真は、作品の発表会で撮影した教室のイメージ(ピンボケ写真)である。子供たちは自分が作ったゲームを親たちに説明している。別のコースでは、床をロボットが走っている教室もあった。

            授業の成果発表会---子供の後ろは親たち(イメージ)
            

この教室に参加したのは、ヒューストンの地元の子供たちだった。孫は初日から皆と友達になり、英語力とコンピューター力には全く問題はなかった。今回のiD Techではただ一人の日本人、しかし周囲の人が気付かないほど違和感もなくアメリカの社会に溶け込む孫の姿に筆者と娘は共に安心した・・・ハノイの教育はアメリカの空港、街なか、大学でも、年齢相応(Age-appropriate)に通用した。

ここで忘れていけないことがある。アメリカで英語が通じるのは当たり前、本人が英語の世界で使いものになるかならないかは別問題である。これが、日本語と英語の世界に描く今後の夢と課題である。

教室で親しい友達もできて、孫はすっかりヒューストンが気に入った。「アメリカに来て良かった」と孫と娘、この言葉で筆者の任務は終了、肩の荷が軽くなった。このあと、娘と孫はヒューストン空港から娘の友人たちが待つNYへ、筆者にはダラス経由成田への気楽な旅が待っている。

ここで、iD Techについて、2~3の点を補足する。
1)iD Tech
iD Techは1999年にシリコン・バレーのガレージから始めた自営/従業員所有会社(family-operated, employee-owned company)である。HP参照

全米150以上の大学で、子供たちの年齢に応じた様々な夏期教室を開催している。6-18歳を対象に、1週間と2週間の共学コースや合宿コースを運営している。

ヒューストン大学のiD Techは今年で11年目、プログラミング、ゲーム設計、アプリ開発、ウェブ設計、動画、静止画などのコースがある。たとえば、プログラミング・コースではJava、C++、Pythonなどのプログラミングを教える。子供にはかなりきついコース(Tough Course)である。

2)STEM教育(ステム教育)
筆者の記憶では1990年代中ごろ、アメリカでSTEM教育(Science サイエンス、Technology テクノロジー、Engineering エンジニアリング、Math 数学の統合的な教育・・・STEMはこれらの単語の頭文字)の必要性が話題になった。STEM教育でSTEM能力(Skills)を身に付ける。平たく言うと、ハイテク社会では理工系の基礎知識がなければ就職も難しくなるという話だった。新聞の求人広告には「エクセルができる人は優遇します」などとあり、90年代にオフィス・オートメーション(OA)が加速した。

ヒューストン大学のiD Tech CampはSTEM教育の一環である。大学のハイテク設備の利用、コンピューターと関連技術の学習、メンバー同士の協調性、仲間との食事や相互理解などを通して、子供たちに新しい社会規範を習得させる。コンピューター画面の作業だけでなく、時には遊びも入る楽しい教室だった(孫の話)。なお、STEM教育は小さな子供から始めるのが効果的と言われている。

3)iD Techの運営方針
先生一人に生徒8人以下の授業、個別指導、問題解決型教育(Project-based Curriculum)、安全&リスク管理(Safety & Risk Management)が教室運営の基本方針である。教室のスタッフについては、犯罪歴(Criminal Background)、性犯罪歴(Sexual Offender Background)、身元照会(Multiple Reference)、身分証明(Identification)をチェック済みとのこと、いかにもアメリカらしい。
以上

次回は「ヒューストン再訪(4)---LRT(路面電車)」に続く。

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ヒューストン再訪(2)---NASA(Space Center Houston:ヒューストン宇宙センター)

2016-07-25 | 地球の姿と思い出
ヒューストン再訪(1)から続く。

(3)NASA(Space Center Houston:ヒューストン宇宙センター)
ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げたというニュースに感動したのは1957年、続いて61年にガガーリンが宇宙飛行に成功した。このニュースに、ほら吹き男爵の月旅行も夢ではなくなると、新しい時代の幕開けに興奮した。そのころ、日本は鉛筆のような糸川教授のペンシル型ロケットの時代だった。

宇宙開発ではソ連に遅れをとったアメリカも、次々と宇宙計画を発表、その遅れを急速に挽回した。60年代以降にNASA(航空宇宙局)が発表した主な計画は次のとおりである。
◇マーキュリー&ジェミニ計画:有人宇宙飛行・・・1958-68年
◇アポロ計画:月面着陸・・・61-72年、69年のアポロ11号月面着陸
◇スカイラブ計画:宇宙実験室・・・73-79年
◇スペース・シャトル計画:宇宙往還輸送・・・81-2011年
◇火星探査:有人探査・・・目標時期を2030年代に設定
ソ連とアメリカの競争から始まった宇宙開発は、今ではアメリカ、ロシア、日本、カナダ、欧州宇宙機関(ESA)が共同で運営する国際宇宙ステーション(ISS)の時代を迎えた。現在、日本はISSの中で最大の実験棟「きぼう」と物資補給機「こうのとり」を運営している。

今回の旅行では、NASAは孫にぜひ見せたい場所の一つ、朝9時にホテルから45号線をタクシーで南下、約40分でヒューストン宇宙センターに到着した。タクシー代は60ドル足らず、国際空港へ行くより少し高いが、効率は良い。

下の写真は正面玄関、日曜日の午前10時前だったが混雑はなかった。

            ヒューストン宇宙センターの正面玄関
            

簡単な手荷物検査を受けて入場すると、そこは円形展示場、みやげ物コーナーとフード・コートが続いている。

展示場の右手奥に構内見学トラム(4輌編成ほどの観覧車)の発着場がある。トラムが満席(約80人)になり次第発車、ツアーは約1時間半で無料だった。

            構内見学用のトラム
            

下の写真は、ロケットの展示場ロケット・パークである。

            ロケット・パーク
            

ロケット・パークの右手には世界で最も強力なサターンVの展示館がある。展示館の外壁には、3段式のサターンVロケットが描かれてる。もちろん、このロケットは、69年7月に月面着陸に成功したアポロ11号の打上げにも使われた。

サターンVが最後に使われたのは、73年5月のスカイラブ1号(宇宙ステーション)の打上げだった。この打上げでサターンVの製造は終了、未使用機が3基残った。そのうち1基が下の展示館で公開されている。なお、スカイラブのラブはLaboratory(実験室)の意味である。

            サターンV展示館
            

下の写真は、第一段ロケットから第二段、第三段方向を見た全体像である。三段目のロケットの先に、打上げの目的に応じた司令船(Apollo Command Module)を搭載する。

            サターンVロケットの全体像
            

上の写真の手前は第一段ロケット、直径10m、全長42mである。発射時の重量は、燃料のケロシンと液体酸素(酸化剤)込みで約2,000トンになった。

下の写真は、一段目の5基のF-1エンジンである。5基の推力は3、460トン、発射後約2分30秒で地上68kmの高度に達し、速度はマッハ8(秒速約2,720m)、ここで一段目を切り離す。

            一段目のエンジン(F-1エンジン5基)
            

下の写真は、二段目の5基のJ-1エンジン、5基の推力は453トンである。直径10m、全長25mである。高度176km、速度マッハ20.6(秒速7,000m)に達したとき、二段目を切り離す。なお、二段目と三段目の燃料は液体水素と液体酸素(酸化剤)である。

            二段目のエンジン(J-1エンジン5基)
            

下の写真は、三段目のエンジンである。J-2エンジン1基で推力は102トンである。

            三段目のエンジン(J-2エンジン1基)
            

三段目は、宇宙船を地球周回軌道に乗せ、アポロ11号の場合は、地球周回軌道から月を周回する軌道に移動した。

ちなみに、アポロ11号の司令船の大きさは、乗員3名を収容する全高約3.5m、直径約3.9m、約5.8トンだった。この月面着陸司令船を含むサターンV(全長101.6m)の総重量は約3,000トン、その9割近くが燃料だった。このロケットを見て、地球の引力を振り切るには、莫大なエネルギーが必要と実感した。

サターンVによる力ずくの宇宙飛行は、やがて効率化を目指すようになった。その結果、73年頃から宇宙実験室の時代を迎え、実験室への人員と物資の輸送は、スペース・シャトル(宇宙往還機)が担うことになった。

下の写真は、実験室のモックアップ(実物大模型・・・実物は宇宙で稼働中)の格納庫である。見学した日は日曜日だったが、平日は働く人も見られるという。

            宇宙実験室Mock-up(模型)の格納庫
            

下の写真は、宇宙から帰還したスペース・シャトル(レプリカ:複製)である。宇宙から帰還したスペース・シャトルをジャンボ機の背中に乗せて発射基地に輸送する様子を表している。このレプリカは、ヒューストン宇宙センター正面の右手に展示してある。

            シャトル(レプリカ)を背負って輸送するジャンボ機
            

宇宙開発のプロジェクトは常に危険と背中合わせである。スペース・シャトル「チャレンジャー号」は86年発射後73秒で爆発(7名死亡)と「コロンビア号」は2003年地球に帰還する際の大気圏に突入で空中分解(7名死亡)の事故はテレビ画面の記憶に新しい。この他の国でも死亡事故が数件起こっている。

ここで筆者の「思い出」になるが、ヒューストン大学はNASAと密接な関係を持っていた。大学とNASAは車で40分ほどの距離、先生たちはNASAとの行き来で忙しかった。アポロ8号が月周回に成功したのは68年12月末で筆者の在学中、学部長宅でクリスマスを兼ねて月周回飛行を祝ったのを覚えている。

宇宙開発と共にコンピューターの利用が科学技術の分野から社会科学の分野に広がった。具体的には、ロケット制御や構造解析などの技術計算から生産管理や経営学、マーケティング、経済学でのコンピューターの利用が盛んになった。当時の学会には、2000年代の経済学は数学が主流になるとの見方もあった。

たとえば、プロジェクト管理(CPM、PERT)や線形計画などは大学院レベルの教科だった。CPM(Critical Path Method)は月周回スケジュールやロケット建造工程の最適化、線形計画は製造のコストや利益の最適化に利用した。最適化を手で計算すると膨大な時間がかかるが、コンピューターではその場で回答が得られるので便利だった。しかし、コンピューター利用はセルフサービス、5、6台の大型汎用機にはいつも待ち行列があった。

久し振りにNASAを訪ねて、巨大なロケットとそのミッションを支えたコンピューターの活躍を思い出した。すでに50年の歳月は流れ去り、今はIoTの幕開け、新しい時代は何をもたらすか?興味深い。

次回は、「ヒューストン再訪(3)---iD Tech」、孫の英語力とコンピューター力に続く。

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ヒューストン再訪(1)---ヒューストン大学とギャレリア

2016-07-10 | 地球の姿と思い出
「途切れない糸」から続く。

1.ヒューストン再訪
(1)ヒューストン大学
ヒューストン大学を最後に訪れたのは、2003年秋、すでに13年も昔のことである。

あの時は65歳の聴講生、バンコクの仕事を中断しての2ヶ月の聴講だった。さらにその前は、66年に船乗りを辞めての留学、ちょうど50年も昔の話である。ここは、卒業後に妻や娘とともに数回訪れた思い出の大学である。

50年前の筆者は28歳の若者?だったが、時の流れに偶然が連鎖して今回は娘と孫の3人で訪問することになった。それは「途切れない糸」そのもの、どうしても実現すべき夢の一つだった。

その夢は、孫の英語力とコンピューター力を確かめること、もう一つは筆者が思い浮かべるコンパクト・シティーとLRT(Light Rail Transit:路面電車)との関係を観察すること、以上の2つだった。この2つは、他人からのあやふやな伝聞でなく、自分自身の目で確かめるべきことである。それが生きていることの証しであり、夢の実現である。

ここで参考として、ヒューストン大学の概要を紹介する。
敷地:667エーカー(約270万m2)・・・約1.6kmX1.7km(50年前より少し周辺に広がった)
◇学生数:40,000+・・・(1966年=約16,000、2003年=約33,000)
◇学部(Colleges):13
◇専攻&副専攻(Majors+Minors):120
◇大学院&専門教科(Graduate+Professional Programs):200
◇学生職員比(Student Faculty Ratio):22.1・・・1988年=13・・・大学の巨大化で悪化
◇Cutting-edge Research Center(先端技術研究所):24
◇Nations Represented(関係国数):137・・・留学生出身国や共同研究国
◇大学間スポーツチーム:17・・・クーガ(山岳豹:Cougar)がマスコット、67から学内で飼育
◇活動中の学生組織:470

大学の本館、図書館、学生会館(Student Center)を見渡す風景は50年前と変わらないが、今はキャンパス内をバスが循環している。白いボンネット型は外回り、消防車のような赤いバスは内回りである。今はSummer Term(夏期)、学内は静かで循環バスに乗る人もなく無用に見えるが、決められたルートを決められた時間に走っている。自動運転システムができれば、真っ先に導入すべきと思った。ボンネット型バスにアメリカの田舎を感じた。ちなみに、筆者はテキサスの田舎も好きである。

            学内循環バス(内回り)と本館(右奥)
            

2003年には学内循環バスはマイクロバスだったが、今は大型バスになっている。学生数の増加でバスも大型化した。上の写真右奥の本館は1927年の石造りのまゝである。

さらに、にわかに信じがたいが大学の南境界線にLRTの駅ができていた。なお、LRTはヒューストンではメトロと呼ばれる路面電車である。

下の写真は、かつては大学とダウンタウンを結ぶ路線バスの停留場だった。しかし、今は学内循環バスのバス停に変化した。2003年の聴講では、足がない筆者はこのバスであちこちに出かけた。当時、20年にも及ぶ根強い反対を押し切って、ダウンタウンにLRTのレールを敷いていた。

            ダウンタウンへのバス停変じて循環バス停に
            

下の写真は、LRTのヒューストン大学南口駅である。背景の建物はムーディー・タワー(Libbie Shearn Moody Towers:学生寮)である。Moody Towersは学生寮のほんの一部、写真には見えないが、教会と学生居住区の敷地は大きく、充実している。筆者は、Moody Towersの住人は主にUndergraduate留学生と理解していた。(現在は不明)

            LRTのUH(University of Houston)南駅
            

LRTの料金はバスと同じ、昔ながらの1ドル25セントで3時間以内であれば乗り継ぎ可能、65歳以上は無料である(市内バスも同じ、筆者は証明なしでも無料だった・・・顔を見れば判る)。

下の写真は、大学の南側を走るLRTである。朝夕の間隔は10分、その他は15分、乗客は少ない。車内には自転車を置くスペースもある。(郊外電車への自転車持ち込みは一般的、ヒューストン市内のバスも車体前面に自転車を搭載できる)

下の写真の背景はクーガ村(Cougar Village:汎用イベント会館)である。孫たちのiD Techの教室やロボット教室、アメフト研修、芸術関係など、学外の一般人参加の教室もこの建物にある。目的は不明だったが、先生が付添う幼稚園児ほどの子供の行列もクーガ村近くで見た。昔から大学と市民の垣根は低かった。

            大学横を走るLRT(路面電車)
            

古い建物は内部のリニューアル(リフォーム)が進み、観音開きの扉も自動化、階段はバリアー・フリー化した。しかし、エスカレーターは一台も見なかった。エスカレーターは車椅子で利用できないからである。

6月からは夏期(Summer Term)が始まり、学生も少なくなる。その時期には、秋の新入生の校内見学や夏期講座(Summer School)に参加する小中学生を見かけることが多い。ちなみに、筆者の孫と娘もiD Tech(一種のSummer School)に参加するために、ハノイから東京経由でヒューストンにやってきた。

(2)ガレリア(ショッピング・モール)
今回のヒューストン再訪の主役は筆者の孫、ヒューストン大学ヒルトン(University of Houston Hilton)到着の翌日が10歳の誕生日だった。日本では小4である。

参考だが、このホテルは、ホテル・レストラン経営学部に付属するホテルで、スタッフはすべて学生らしい。スタッフは親切、レストランの料理はReasonable、味は悪くないが、量が多め、Kids(子供)用メニューも日本の大人用以上だった。コーヒーだけでなく、ミルクも飲み終えるとすぐにお替りを持ってくる。

孫の誕生日は土曜日、早速、ヒューストン市内のショッピング・モール、ギャレリアで誕生祝いをすることにした。

ホテルを出て、向かいの学生センター(Student Center)から娘がウーバー(Uber:配車サービス)でタクシーを呼ぼうとした。しかし、ここでトラブル発生、相手からアメリカ国内の電話番号を求められて先に進めなくなった。

学生センターのスタッフが、娘のiPhoneを引き取り、大学の電話番号で対応しようしたが、国内電話番号をもたない外国人には使えないシステムと判明した。スタッフたちはあれこれ試みたが結局は、イエロー・キャブを呼ぶことになり、無事ギャレリアに到着した。

以後、そのタクシー・ドライバーにビジネス・カードをもらい、時間場所指定で送り迎えの足を確保した。本人がビジー(Busy・・・仕事中)の場合は、替わりのドライバーが迎えにきた。迎え料はなし、NASAの迎えもNASAの出発からヒルトンまでメーターで賃走した。もちろん、常識的なチップは払った。

下の写真は、ギャレリアのレストラン前に乗りつけたアメ車である。ガレリア入口の通路は一時駐車禁止、この車は一時駐車のためにやむなく歩道に乗り上げた。

            ギャレリアのレストラン前に乗りつけたアメ車
            

このレストラン、Cheesecake Factoryはキッズ(Kids)の誕生祝いのセレモニー付きメニューを提供するので、ここで孫の誕生日を祝った。

下の写真はギャレリア地階のスケートリンク、かなりの人出だった。なかには、プロ級?の女性が2、3人、いろいろなポーズを練習していた。

            ギャレリア地階のスケートリンク
            

外気温は36~37°Cだが、全館空調のためスケートリンクの氷は正常だった。

商店街は地階(スケートリンクとフード・コート)、一階と2階はブランド品店やデパートである。7月4日の独立記念日を控え、4割引などのセールス・キャンペーンで賑わっていた。

ヒューストンは全米4位の大都市とはいうものの、ニューヨークやロスのような国際都市と違い、観光客や爆買いの東洋人にも出会わない。ここは典型的な車社会、アメリカのど真ん中といった感じの都会である。

今回の旅の主役は、10歳になったばかり孫である。

父親の転勤で母と共にハノイに移り住んだのは2013年の8月だった。あれから3年近く、ハノイのインター(ナショナル スクール)に入学、日本の小学校は小1の4月~6月の3ヶ月だけ、その後、英語の世界が始まった。

日本の家庭で育った小学生が突然、英語の世界に入る。そこではさまざまな試練に出会った。親にも話せない苦労もあったと思う。英語の壁を克服するためには、日本語力の強化・・・これは学校や周囲のアドバイスであり、その効果は本人も認め始めた。しかし、思考面ではすでに英語が主、日本語が副になっている。

筆者が日本の小学校に強く望むのは、まず日本語教育の充実である。日本語力は英語やフランス語や他の外国語習得の基礎になる。これは長年の経験論、日本語がいい加減な日本人はシッカリとした外国語を話せない。流暢な発音の問題ではない。流暢であっても意味不明では仕事にならない。グローバル化に向かう日本の教育界は外国語学習を念頭に、言語学や論理学を踏まえた日本語教育システムを構築すべきである。英語学者の意向だけでは、国の道を誤る。

すでに、ハノイのインターではパソコンは一人一台、本人が選択した第二外国語(フランス語)も昨年9月から始まっている。

筆者の周辺に起る偶然と決断の結果、孫はヒューストン大学のiD Tech Campでマインクラフト(Minecraft 3D Game Design)を一週間学ぶことになった。そこは、外国人を想定しないアメリカ人のための教室である。

筆者はちょうど50年前の8月、この大学で初めてコンピューターの洗礼を受けた。理系ではコンピューターの利用が必須、最大のカルチャー・ショックだった。

50年も前の昔、船乗りの航海日誌は英語だったので、授業には問題はなかった。逆に、筆者のノートは読み易いと級友(アメリカ人)に評判となり借りに来る人がいた。その結果、コンピューター関係教科(Advanced Numerical Analysis)の助手にもなり、研究室と給料をもらった。学費減免と教科書代減額もありがたかった。さまざまな思いがあるこのキャンパス、孫と娘と3人で歩くのは夢のようである。

さて、孫の英語力とコンピューター力は本場のアメリカで通用するか否か?That is the question. である。

明日は日曜日、NASAを訪ねる予定である。次回は、NASA, Houston Space Center(ヒューストン宇宙センター)を紹介する。

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