こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(ルカ18:9-14)わたしたちを義としてくださるのは神

2016-10-23 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/161023.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
16/10/23(No.852)
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年間第30主日
(ルカ18:9-14)
わたしたちを義としてくださるのは神
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年間第30主日を迎えました。「30主日」と聞くと、「あーそろそろ年間の主日も終わりだな。次に待降節がやってくるな」と意識できると素晴らしいと思います。今週与えられた「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえから、学びを得ることにしましょう。

皆さんは自転車のパンク修理をしたことがあるでしょうか。わたしは、今は亡くなった父から修理の仕方を一度だけ教わって、それ以来自分でパンクのたびに修理をしていました。最近は自転車にも乗らないのでパンク修理がどうなっているのか知りませんが、わたしが小学生のころは、タイヤからチューブを引き出し空気を入れながら水を張ったたらいにつけ、泡が出る様子で穴を突き止め、修理に取りかかっていました。

自転車店で買い求めたパンク修理キットを使い、穴の開いたチューブの周辺をやすりでこすり、接着剤をチューブ、張り合わせるゴム両方に塗って張り合わせ、十分に乾いたらもう一度水を張ったたらいに入れて空気の漏れがないかを確かめ、最後にタイヤの中に戻します。ちょっと面倒ではありますが、男の子にとってはこれら一連の作業が、一人前に自転車を乗り回せる証でもありました。

この自転車のパンク修理、意外に思われるかもしれませんが今週の福音朗読を読み解くのに役に立つのではないかと思っています。パンク修理のポイントは2つで、先ず破れを見つけること、そして破れを外から塞ぐことです。

さて福音朗読ですが、神殿で祈る二人は、言わば「パンクした自転車に乗っている人」です。そしてどちらの自転車のパンクが修理を終えて帰ったかというと、ファリサイ派の人ではなく、徴税人だったということです。

二人の祈りを比べましょう。ファリサイ派の人の祈りは、自転車のタイヤがパンクしていることに気づかないで祈っているような祈りです。「わたしはほかの人たちのようなものではなく、ましてやここにいる徴税人のような者でもないことを感謝します。」さらに自分の自転車がパンクしていることを認めようともせずに、空気入れで空気を入れ続けています。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(18・12)祈りの言葉にどれだけ自分の犠牲を詰め込んでも、タイヤのチューブが破れていれば意味はありません。

しかし徴税人は、自分の自転車はパンクしており、修理が必要なことを知っていて、神に憐れみを乞い求めるのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」人間の目からも明らかですが、破れを認め、修理を乞い求める人こそ、助けの手を差し伸べてもらえる人なのです。

タイヤのチューブに破れがあれば、どれだけ空気を入れてもすべて抜けてしまいます。中からチューブを膨らませても、結局無駄なことです。破れを見つけ、破れを認めて外から塞いでもらわなければ、永遠にその自転車のパンクは直らないのです。

ファリサイ派の人が取った態度は、まさにこの中から空気を詰めようとする行為でした。むしろ自分の破れに気づき、認め、その破れを外から塞いでもらうことを願うべきだったのです。そうすれば破れが直り、並の人では到底できない週に二度の断食とか全収入の十分の一のささげものも、神の義に叶ったことでしょう。

いっぽうの徴税人は、自分の欠けた所と正直に向き合っていました。後ろ指さされるような稼業をしていたのですから、自分の破れは火を見るよりも明らかでした。そこで彼は、自分の破れを外から塞いでもらえるように神の憐れみにすがったのです。

神はいつも、人間の破れを覆い塞いでくださる方です。神は人間を、天使よりやや劣るものとして造られました。天使は破れが生じませんが、人間は破れが生じる者としてお造りになったのです。神は創り方を知らなかったのではなく、神の憐れみによって、時々生じる破れを覆い塞いでもらいながら生きる者として人間をお造りになったのです。

わたしの知る限り、自転車のパンク修理は中からはおこないません。中から空気をどれだけ入れ続けても、外から破れを塞がない限り永遠に終わりが来ないのです。人間には必ず何かしらの破れがあるのです。それを自分の祈りや英雄的な努力でどれだけ中から詰め込んで修理しようとしても、その努力は永遠に終わらないのです。ただ一つ、自分の破れを認め、神の憐れみで破れを覆い塞いでもらう。これ以外に、自分を直してもらう方法はないのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちの祈りの家である教会に来た時、わたしはどんな祈りをしているでしょうか。周りを見回して、ほかの人のような者でないことを感謝しますとどこかで自分を納得させていないでしょうか。あるいは自分の祈りで破れを埋め尽くそうと考えて、かえって空気入れを使って入れた空気が、破れから噴き出していないでしょうか。

イエスが示したたとえは、わたしたちにも示されたたとえだと考えるべきです。わたしたちにも破れがあります。人によっては針の孔ほどで、勢いよく空気が抜けていないために気づかないかもしれません。けれどもイエスは、たとえばゆるしの秘跡であなたが立ち寄るなら、「空気が減っています」と指摘してくれるでしょう。ぜひそのわずかの孔を、自分のおこないで埋めようと思わず、神の憐れみによって直してもらう道を選んでほしいのです。

「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」イエスの答えは今も昔も変わりません。わたしも、神の憐れみといつくしみにより頼んで、破れを直してもらいましょう。目に見えない破れであればなおさら、神に指摘してもらわなければ見落としてしまいます。ゆるしの秘跡、聖体拝領など、神の憐れみはわたしたちを義としてくださるのです。心を開いて、神の手当てに自分を委ねることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(ルカ19:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼今週日本シリーズだが、まだ結果を語れないのでこの話は来週に。今週は長崎教会管区の司祭研修会について。火曜日から木曜日まで、ぴったり日本シリーズのパ・リーグ主催ゲームと重なる日程で缶詰めになる。ソフトバンクが勝ち上がっていたらなぁ、いやこれは過ぎたことだから言わないでおこう。
▼長崎教会管区と言えば、わたしにとっては大神学院時代に共に学び、共に祈った仲間たちとの再会である。どの先輩後輩も、一言では語れない物語がある。その先輩後輩たちと久しぶりに会って、話に花を咲かせることができそうだ。
▼もちろん研修会だからそれなりの研修はしないといけない。だが管区の集まりなど滅多にあるものではない。一度も会ったことのない先輩もいる。後輩もいる。そんな中にいて、貴重な話を聞くことができたら、本題の研修にも負けない学びになると思う。
▼会場は福岡市の中心部。車で直接行きたいが、3日間車を停めると目の飛び出るような駐車料金を請求されそうだ。そこで一計を案じた。福岡教区の同級生の教会にいったん立ち寄り、そこで車を置いて、そこからは公共機関で会場入り。これで最小限の費用で済む。
▼今回訪ねて車を置かせてもらう同級生は福岡に行ってからのずっと親友である。腹を割って話せる親友はそうそういないが、彼はそういう親友である。実はほかの司祭から、もっと安く費用を上げる方法を聞いたのだが、同級生にお世話になるほうを選んだ。

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今週の1枚
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第459回目。ロザリオの月。祈りの声が聖堂に響く。

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† 神に感謝 †
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