こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)イエスの小さくなられた姿がわたしを養う

2017-06-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/6/18(No.890)
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キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
イエスの小さくなられた姿がわたしを養う
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キリストの聖体の祭日を迎えました。わたしたちが聖体を拝領する中で、神が御子を通して示そうとしている思いを学ぶ機会としましょう。キリストの聖体は心と体を養う糧です。心と体を神の思いに向けるヒントを得たいと思います。

父の日を迎えました。中田神父さまにとってお父さんや、おじいちゃんは、早くに亡くなってしまった人たちです。わたしのお父さんのお父さんは、わたしが3歳のころには亡くなっていました。わたしのお母さんのお父さんも、人間の死が理解できるようになってから最初に亡くなった家族です。いつも、先に亡くなりました。

だから中田神父さまは考えたのです。父方のおじいちゃん、母方のおじいちゃんは、生きているあいだの時間よりも、亡くなってから思い出す時間のほうが長い人たちでした。父方のおじいちゃんのことを、お父さんや洗礼の代父のおじさん、おじいちゃんより長生きしたおばあちゃんたちから聞きました。母方のおじいちゃんも同じでした。

中田神父さまの中で、思い出をつないで、両方のおじいちゃんの姿がよみがえりました。どんなことを大切にしていたのか、どんなことをしてはいけないと考えていたのか。今神父さまの心の中にあるおじいちゃんの姿は、亡くなってから、長い時間かけて形になったものです。

弟子たちにとって、イエスさまの姿も同じではないでしょうか。イエスさまと弟子たちと共に生活したのは3年間です。それより、復活して天に昇られ、聖霊が注がれてからの時間でイエスさまの教えが深まって、イエスさまの姿をはっきりと描けるようになったのです。

ここで意外なことを話しますが、イエスさまの出来事が書かれた福音書は、いちばん早く書かれたマルコ福音書でも70年代、イエスさまと3年間を過ごしてから40年も後に書かれています。最後に書かれたヨハネ福音書は、実に50年以上もあとに書かれているのです。イエスさまの姿をより詳しく描くために、40年、50年という長い時間も必要な時間だったのでしょう。

福音朗読に移りましょう。イエスさまは何度も、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」(6・54)ことを繰り返して言います。イエスさまを食べると言うのですから、イエスさまはバラバラにちぎられて、形がなくなってしまうことになります。まるで、親鳥が雛に餌となる動物を与えて、雛が食べるような光景です。餌として与えられた動物を食べているあいだ、雛たちは口の周りは血がいっぱい付いているはずです。

本当に、イエスさまが食べ物になることが父なる神さまの人間に対する思いなのでしょうか。イエスさまが肉と血になってしまうよりも、何か代わりの食べ物を与えて、イエスさまはそのまま活動を続けるほうが、神さまの計画が前に進むのではないでしょうか。いえ、父なる神さまは、イエスさまが肉と血になって食べられることを望まれたのです。

「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(6・53)今は、わたしたちにとってイエスさまの肉と血とはご聖体のことです。どうしてほかの食べ物ではなくて、ご聖体をいただかなければ、命はないのでしょうか。あんなに小さなパン、あんなに薄いパンのどこに、命を養う力があるのでしょうか。

中田神父さまは今51歳です。初聖体を受けたのは6歳の時です。45年間、ご聖体をいただいています。でも一度もおなか一杯になったことはありません。朝6時のミサでご聖体拝領してミサが終わってすぐ考えることは、「あー腹減った。何を食べようかな」です。それなのにどうして、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6・51)のでしょうか。

神父さまになってから25年、神父さまになる前よりもご聖体のことを思い巡らし、学んできました。それでも時々、ご聖体が命を養ってくれることを忘れてしまうことがあります。昨日も、病院に入院しているおじいさんにご聖体を運んでお見舞いしてくださいと言われて、「困ったなぁ。日曜日の説教の準備中で忙しいけどなぁ」と一瞬思ったのです。

けれども、命の危険にあるおじいさんにとって、神父さまが運んできてくれるご聖体はどんなに力強いことでしょうか。神父さまはそのことをもう一度自分に言い聞かせて、病院で待っているおじいさんにご聖体を運んでいきました。

ご聖体は、見た目には小さなパンで、おなか一杯にもならないし、栄養もありません。お金で考えたら10円の価値もないかもしれません。けれども、ご聖体を待っていた人は感謝してくれます。その姿を見ていると、「わたしたちへの愛のためにご自分を無にされたキリスト」の姿が見える気がするのです。

ご聖体を拝領する人は、その人が命の危険にあればなおさら、ご自分を無にされた神さまの愛をいただいているのだと思います。神父さまはこの前のお見舞いの時、イエスさまはこのおじいさんのためにご自分を無にされたのだなぁと思いました。神さまの深い愛をもう一度思い出しました。この姿が、わたしたちを生かす力なのだと思います。

わたしたちへの愛のために、ご自分を無にすることもためらわなかった神さまの愛が、キリストの聖体です。この神さまの愛が、永遠の命です。神父さまは初聖体から45年もかかって、司祭になって25年もかかって、神さまの愛はわたしたちを生かすのに十分だと分かってきました。忘れることもあるけれども、今ははっきりそう思います。

今日お父さんに感謝するためにごミサをお願いして、ご聖体を拝領する子供たちも、覚えていてほしいと思います。ご自分を無にされた神さまの愛、あの小さなパンにまで小さくなってくれた神さまの愛は、わたしたちに永遠のいのちを与えるのに十分なのです。できれば、小さなパンまで小さくなられたイエスさまにお仕えする司祭、お仕えするシスターになろうと手を挙げてくれる人がいたらなぁと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(マタイ10:26-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼引退した神父さまが田平小教区に住んでいる。田平教会出身の神父さまだ。田平小教区には赴任していないが、同じ時代を生きたたくさんの人が今も健在である。もちろんこの引退した神父さまも見たところ健在である。
▼ときどき、教会敷地内に設置されている案内書に立ち寄って、わたしとしばし会話を楽しむ。「何かニュースはないか?」引退してもいろんなアンテナを張り巡らせて、わたしたちと同じ時代を生きておられる。わたしも、名前しか知らない人の人となりを聞くことがあり、大変助かっている。
▼5月28日、赴任したことのある小教区の人に頼み込まれての結婚式を引き受けておられた。挙式の要件になっている「聖堂での挙行」でない依頼(結婚式場)だったため、大司教さまに手紙を書いて、挙式要件の欠如を補う許可までちゃんと取っての挙式をなさったそうである。
▼その神父さまが、「挙式のための祭服一式貸してくれてありがとう」とお礼を言いに来てくれた。わたしとしては「お礼なんてとんでもありません」という気持ちだったが、とてもうれしかった。また7月に依頼を受けているそうだ。今度も挙式の要件が欠けているが、7月の依頼に関しては所属する小教区の主任司祭が全て整えてくれるそうだ。
▼小教区内に居住している引退した神父さまは、かつて鯛之浦小教区在任中にわたしに洗礼を授けてくれた方だ。いくら感謝してもしきれない。今年85歳、わたしたちの通る道を指し示してくれていると思った。

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今週の1枚
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第497回目。マツダスタジアムに野球観戦に行きたいが、チケット入手困難。

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† 神に感謝 †
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