こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖母の被昇天(ルカ1:39-56)憐れみを忘れない神の働き

2017-08-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/8/15(No.899)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
憐れみを忘れない神の働き
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聖母の被昇天の祝日を迎えました。マリアを祝い、マリアのもとにとどまるということは、どんな意味合いがあるのでしょうか。与えられた朗読を通して考えてみましょう。

朗読の後半、46節から56節にかけては「マリアの賛歌」と呼ばれる個所です。マリアが言葉に表した世界が、わたしたちにどのようにつながるのかが分かれば、わたしたちがここにとどまる意味も理解できるようになり、8月15日にミサに集う意義と価値を人々に語って聞かせることもできるでしょう。

「マリアの賛歌」はマリアの個人的な体験から始まります。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」(1・48)。それはマリアの個人的な体験でしたが、そこから神の働き方を見たのです。旧約時代、人々が神の声に耳を傾けない中、神に忠実なノアとその家族に目を留め、洪水が地上を覆って、ノアの家族だけが救われました。

アブラハムはカルデアのウルから出た小さな部族でした。エジプトという大国にあって虐げられていたイスラエルの民を救い出し、エッサイの子供たちの中で末の弟に目を留め、イスラエルの王となさいました。人々が目を留めるものには目もくれず、人々から低く見られていた部分に目を留めるお方だと理解したのです。

マリアは、自分の個人的な過去の体験から神のなさり方を知ります。過去から現在に至るまで、神は思い上がる人、権力をふるう人、富める人ではなく、身分の低い人、飢えた人に近づいてくださるのです。そしてこの小さな人々に寄り添う態度は、未来にも変わらない。これがマリアの理解した神の働き方でした。

わたしたちも、今こうしてマリアの賛歌を聞きながら、神のなさり方は過去現在未来、変わらないということを知りました。わたしたちはなぜここに集まっているのでしょうか。それは、マリアが声を上げた神のなさり方を、わたしたちもいっしょになって讃えるためなのです。

わたしたちは見物人でしょうか。マリアの賛歌を聞きながら、なるほど神のなさり方はそうなのかと理解し、それでもなおマリアのそばを通り過ぎるのでしょうか。そうであってはいけません。わたしたちがマリアを祝い、マリアのそばにとどまるのは、マリアが体験し、理解したことを現代に向かって証言するためです。

神のなさり方は今も変わらない。世の人々がほめたたえ、あこがれる人々の脇を神は通り過ぎ、低いとされている者、取るに足らないとされている存在のもとへやってくる。わたしたちは神のこのような働き方を讃えますと、ミサの中で表明するのです。

これをひとことで言うなら、「憐れみを忘れない神の働き」と言えるでしょう。わたしたちはこの世がほめたたえる生き方に立たず、「憐れみを忘れない神の働き」を讃える「新しい神の民」なのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(マタイ15:21-28)
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ちょっとひとやすみ
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▼ここ長崎では、あちこちで「平和学習」が行われる。修学旅行生が「平和学習」を積んで帰っていく。8月6日の広島原爆、8月9日の長崎原爆の歴史を学んでいく。あえて、もう一つ加えるなら、終戦記念日と重なる「聖母被昇天」の祭日を通して、平和について考えてもらえたらと思う。
▼説教にも触れたが、マリアは神のなさり方を「世の人々があこがれる者」を通り過ぎて、「取るに足らない者」のもとにおいでになる方ととらえた。平和を求める人々も、実は「世のあこがれる者」ではなく、「取るに足らない者」の立場に立つ人々ではないだろうか。
▼脚光を浴びている人々は、競争に打ち勝ち、多くの人や物の犠牲の上に立ち、今がある人々だと思う。そうした人々がいくら「平和な世界」と声を上げても、何か違うように感じる。平和は政治が作り出すものではないと思うし、力で築き上げるものでもないと思う。危うい緊張関係の上に成り立っている平和は、果たして安らぎと憩いを与えてくれるだろうか。
▼12日(土)朝ミサの前に、「病者の塗油を授けてほしい」と願いに来たおじいちゃんがいた。あとで聞くと、単に重い病気で不安を感じているだけではないそうだが、わたしはこのおじいちゃんを見ていて「神は低いとされている者、取るに足らない者のところへおいでになるのだ」とあらためて思った。
▼低くされている人を高く上げる神がわたしたちの信じる神であれば、わたしたちは何度も自分の姿勢を見つめなおし、謙虚さを忘れてはいけないと思う。責任とか、権限とかを預けられているうちに、知らず知らず「思い上がる者」「権力ある者」の立場に立ってしまう。そうなると神はわたしたちの脇を通り過ぎる。声をかけようとした人が自分の脇を通り過ぎていった経験のあるわたしにとって、それはあまりにもつらい場面である。

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今週の1枚
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第506回目。聖母マリアのもとに「取るに足らない」人々が集まり、平和を願う

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† 神に感謝 †
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