こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第6主日(マルコ1:40-45)イエスに触れた人は、清められる

2012-02-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/02/12(No.575)
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年間第6主日
(マルコ1:40-45)
イエスに触れた人は、清められる
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本原教会に、同じ郷里の戸村神父さまという先輩がおられます。本原教会はフランシスコ会が担当している教会です。先週の月曜日、本原教会の朝のミサに参加しました。先輩神父さまを初め、4人で共同ミサをささげました。

その日、2月6日は聖アガタの記念日でした。ミサ中、先輩司祭とのつながりを思い出していました。中学・高校時代もよく本原教会に顔を出していましたが、特に大学生の時代にかわいがってもらいました。

聖アガタの、「アガタ」とは、「よいもの」という意味があるそうです。創世記に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1・31)とありますが、殉教者アガタも、ご自身を神への純粋なささげもとのなさって、「よいもの」となられました。

戸村神父さまも、同郷のわたしを、いつも「よいもの」として扱って下さいました。大学の夏のスクーリングで、休暇になると当時栃木県の松が峰教会に赴任していた神父さまのところに転がり込み、ご飯をご馳走になり、観光名所の日光に連れて行ってもらったりしました。

よく考えるとわたしは教区の神学生だったので、どれだけかわいがってもらってもフランシスコ会には得にならないわけです。それなのに、先輩はわたしを「よいもの」として、「極めて良いもの」として接して下さいました。その心の広さに、わたしは頭の下がる思いです。

福音は、重い皮膚病を患っている人をご覧になったイエスが、「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ1・41-42)という奇跡物語ですが、「手を差し伸べてその人に触れ」という部分に、わたしは心を打たれます。

重い皮膚病、それは、病気にかかっていない人を震え上がらせる症状だったと思います。思わず飛び退くような症状の人に、イエスは手を差し伸べ、触れて下さいました。イエスが医学の専門家だったから診察したのではなく、イエスは深く憐れんで、手を差し伸べたのです。

初めに、本原教会の同郷の神父さまの話をしましたが、目的があってわたしをかわいがって下さったわけではありませんでした。教区の神学生とか、自分のところの修道会の神学生とか、そういう区別なしに、寛大に接してくれた。その寛大さが、わたしの心に触れたのでした。

イエスのなさった奇跡は、それだけで十分心に触れる出来事だったと思います。声が届くはるか遠くから、「よろしい。清くなれ」と仰っても、病気は治ったかも知れません。けれどもイエスは、あえてこの重い皮膚病を患っている人に近寄り、触れた下さったのです。病気であるか、健康であるか、まったく区別なく接してくださるイエスの憐れみ深さに、この重い皮膚病の人は触れたのではないでしょうか。

イエスに触れてもらい、重い皮膚病の人はいやされたのですが、イエスは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(1・44)と厳しく注意します。心を打たれ、どうしても話したくなるような体験をした人は、たとえ話すことを止められても、止めることはできないと思います。

例えばそれは、「これは内緒よ。だれにも話さないでね」と言った話が、どこまでも伝わっていくのと同じです。わたしが戸村神父さまに受けた恩も、面と向かって「だれにも話すなよ」と言われたことはありませんが、きっとそのつもりだと思います。けれどもわたしには、仕舞っておくにはもったいない、貴重な体験です。

重い皮膚病を癒されたその人にとっても、イエスが自分に触れて下さったその憐れみ深さ、病気を完全に取り去ってくださる神のわざを、話さないではいられなかったのではないでしょうか。

これは、わたしたちへの模範だと思います。わたしたちも、イエスのように、だれかの心に触れるようなお世話、おもてなしをする力が与えられています。何も経済的に豊でなければ、心に触れるお世話ができないということではありません。祈りを教えることによっても、親切をほどこすことによっても、人の心に触れ、その人が心を洗われるということは可能です。

イエスはまずそのお手本を示してくれました。そしてわたしは幸いに、そのような人の心に触れるお世話を知っている恩人と出会いました。今はわたしが、だれかの心に触れ、その人をいやしたり慰めたり、もう一度立ち上がるお手伝いをしたりする番だと思います。

もしもカトリック信者が、だれかの心に触れるようなお世話ができるとしたら、それはわたしを通してその人にイエス・キリストを届けるときです。わたし自身は、心に触れるような力は持ち合わせていないかも知れません。けれどもイエスは、人の心に触れ、イエスに心打たれた人が自分の体験を次の人に知らせる、そういう力を持っています。

ですから、わたしの生活の中で、心からある人にお世話しようとするなら、もてなす人にイエス・キリストを体験させるとよいと思います。食事に招待したとき、食前の祈りを唱えて体験させるのも良いでしょう。そのとき、お世話を受ける人は、「同じことをほかの人からも受けたことがあるけれども、どうしてこの人のお世話は心に触れるのだろうか」と感じてくれると思います。

こうして、わたしたちのお世話、奉仕、隣人愛を通してイエス・キリストを体験させるためには、もっともっとイエス・キリストを知る必要があります。聖書の朗読会を活用したり、教会備え付けの聖書を借りていって、平日読み続けることもできます。いろいろ手を尽くしてイエス・キリストをよりよく知ると、わたしたちの生活そのままでだれかがわたしたちを通してイエスに触れる方法も、見つけることができるでしょう。

より多くの人が、イエスに触れ、イエスに触れた人が、さらに多くの人にイエスを知らせることができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(マルコ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の26聖人殉教記念ミサは、2月5日がちょうど日曜日に当たっていたので、日曜日に26聖人殉教記念ミサをするという方針がちょうど2月5日に当たっていたので良かった。ただ、会場となる西坂の殉教記念公園に向かっている時点で雨が降っていたので、残念ながら会場を中町教会に移動するのだと思っていた。
▼ところが、いつまでたっても会場変更のお知らせが入らない。長崎市内の人に尋ねてみても「変更はありません」としか言ってこない。これだけ雨が見えているのに、主催者は何を考えているのだろうと思った。26聖人記念館で祭服に着替えている時点でも、傘なしでは立っていられない状況だった。
▼ところが、ミサが始まるというそのときに、雨はほぼやんでしまい、傘をささずに済む程度におさまった。この時点で、わたしを含め多くの人の疑問も不満も消えてしまったかも知れない。雨のやんだ曇り空は、40分以上続いた。
▼説教が終わって、ミサの奉献文も唱えた頃、またもや雨。司祭たちはしばらくがまんしようとしたが、それも長くは続かず、次第に傘をさしはじめた。全員が傘をさす頃には、傘にあたる音で大司教の声が聞こえないくらいだった。「完全に、本部の判断ミスだ。」そう言いたかったが、ある1つの出来事でわたしは考えを変えた。
▼ミサは、「派遣の祝福とあいさつ」で終わる。派遣のあいさつをしたのは中町教会の主任司祭だった。「2012年の26聖人殉教記念ミサを終わります。行きましょう。主の平和のうちに。」本人がどういう意図でこう言ったかは分からないが、「2012年の」と言ってくれたことが、救いの言葉に聞こえた。
▼「いろんなことがあり、いろんなことを感じた今年のミサでしたが、無事に今年の殉教記念ミサを終わりました。行きましょう。主の平和のうちに。」そういう意図はなかったとしても、そう感じた人はいるはずだ。だから、わたしたちは語る言葉が本人の意図しないことも伝えてくれるかも知れない。そう思って言葉一つひとつをていねいに語りたい。

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新企画今週の1枚
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第182回目。知り合いから26聖人殉教記念ミサの写真を分けてもらいました。
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年間第5主日(マルコ1:29-39)イエスによって変えられ、わたしも人を動かしていく

2012-02-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/02/05(No.574)
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年間第5主日
(マルコ1:29-39)
イエスによって変えられ、わたしも人を動かしていく
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皆さん。マラソン大会、結果出しましたよ。何と、去年の13位から、5位に急上昇しました。1キロ6分、48分でゴールするだけの練習を積んできましたが、本番では1キロ5分25秒でカバーし、43分21秒でした。詳しいことは、張り付けている成績一覧を見てください。

ほぼ、満足できる結果だったのですが、惜しかったのは自分の前を走っていた4位の先輩です。8秒差でした。20メートルあったでしょうか。3位は、土井ノ浦の後輩です。彼とは1分近く離れていたので、来年追い抜くのは難しいかもしれませんが、目標にはしたいと思います。

ついでの話ですが、水曜日の晩、中学生のけいこのために浜串教会の聖堂の2階に上がってすぐ、「マラソン5位、おめでとうございます」と言ってもらいました。嬉しかったですねー。これまでの2ヶ月間の苦労が吹っ飛びました。わたしくらいの年齢であれば、中学生の子供がいても不思議ではないわけですが、子供に喜んでもらった親の気持ちがよく分かりました。子供が喜んでくれているその一言があれば、親はどんな苦労も苦労と感じないのでしょうね。

では福音の学びに入りましょう。イエスと弟子たち一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行きました。シモンのしゅうとめが、熱を出して寝ていたのですが、イエスは彼女を深くあわれみ、彼女の熱を取り去ってくださいました。

シモンのしゅうとめは、イエスのいやしを受けて、一同をもてなします。この出来事は一見するとわたしたちには縁遠いように見えるかもしれません。同じように、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、多くの悪霊を追い出してくださったとなっていますが、わたしたちはこの話を身近な出来事と感じることができないかもしれません。

奇跡に目を奪われがちですが、イエスとシモンのしゅうとめの反応を整理すると、中心にあるのは「悩み苦しんでいる人がいて、イエスはその人の悩み苦しみを取り去ってくださり、その人は一同をもてなす」という図式です。この中心にあるものが、何より大事だと思います。

つまり、わたしたちは人生を歩む中で、さまざまな悩み苦しみを経験しますが、その都度イエスはやって来て、あなたの悩み苦しみを取り去ってくださいます。もちろん、それは人間側が期待したとおりには起こらないかもしれません。

病人訪問をしながら、司祭はご聖体のイエスさまを届けますが、残念ながら司祭は病気を取り除くことはできません。けれども、ご聖体のイエスさまがおいでくださったことで、お見舞いを受けた人は慰められ、力を受けるのではないでしょうか。

ですからイエスは今も、人生のさまざまな悩み苦しみを抱えている人のもとを訪ねて、その悩み苦しみを取り除いてくださっています。救いの入り口を開くために洗礼を授けてくださり、罪の暗闇の中にある人に罪のゆるしを与えてくださり、いのちのためにご聖体となって食べ物を与えてくださいます。

また人生に迷う時期に堅信の秘跡で聖霊の七つの賜物を注いでくださり、病気や老齢でいのちの危険にさらされている人を病者の塗油で励ましてくださり、イエスを捜し求める人々のために叙階の秘跡によってイエスの代理である司祭を生み出してくださり、2人が一体となって歩んでいくために婚姻の秘跡で祝福してくださいます。

人間の側の期待通りとはいかないかもしれませんが、さまざまな形で、「悩み苦しんでいる人がいて、イエスはその人の悩み苦しみを取り去ってくださる」という図式が成り立っているのだと思います。問題は、そのあとの、「その人は一同をもてなす」という部分が残ります。わたしたちは、人生の様々な場面でイエスと出会いますが、その結果、一同をもてなすということにつながっているでしょうか。

シモンのしゅうとめは、自分が直面している悩み苦しみを取り除いてもらった感謝を、一同をもてなすことで態度に表しました。わたしたちもぜひ、イエスに出会い、イエスに自分の重荷を取り除いてもらった感謝を、形に表したいと思います。

いろんな場所に、感謝を表す形があるでしょう。家族に対してもてなしをすること、教会という、神の家族に対して奉仕活動をしてもてなすこともあるでしょう。小学生、中学生、高校生の教会活動のために力を貸すことも考えられます。自分が関わっているボランティアのグループ、社会の中での活動に参加することを通してなど、いろんな場所で自分にできるもてなしを発揮できます。

イエスはこの一連の動きを促すために、巡回して宣教しました。イエスは宣教に先駆けて人里離れた所で祈っておられますが、弟子たちはイエスを見つけると、「みんなが捜しています」と言いました。けれどもイエスは1つの場所に執着せず、次々に近くのほかの町や村へ出かけます。

人々がイエスに出会い、イエスによってもてなす人に変えられていく。その一連の動きを活発にするために、どんどん場所を変えていきました。初めは、イエスさまがエンジンを動かしてくださいます。それは、エンジンがかかった人が、他の人のエンジンを動かすためです。イエスはそうして、あちこちで神に出会い、神に変えられる人を生み出し、その人が周りの人を動かすことを期待しているのです。

きっと、今日のミサで、イエスはわたしたちのエンジンを動かしてくださり、わたしたちにも、わたしたちにつながるだれかを動かす人になるように、期待しているのだと思います。わたしたちはすでに模範になる信仰の先輩をたくさんいただいています。

特に、今日2月5日に祝う日本26聖人はそうです。26聖人はイエスによって殉教者の証しをするだけのエンジンを動かしてもらい、まわりの多くの人をさらに動かしたのでした。今日26聖人の取り次ぎを願いましょう。そして、イエスによって変えられ、まわりの人をもてなすことができるよう、ミサの中で恵を願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マルコ1:40-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼困ったことになった。日頃利用しているプロバイダーのメールサーバーが故障して、メインのメールアドレスでの送受信ができなくなってしまった。受付の人に「故障、どうなってますか」と問い合わせたら、「復旧のために努力しています」という返事だった。
▼1日置いてまた電話したら、「送信はできるようになりましたが、受信はまだ復旧できていません。また、いつごろ復旧できるかも、現在見通しが立っていません」ということだった。そう言われても、毎日のことだからどこかで決断しなければならない。つまり、メインのメール用に現在のプロバイダー提供のアドレスを使い続けるか、別の物を用意するかだ。
▼半日考えて、新しくWebメールを用意して、これをメインのメールアドレスにすることにした。本来は、プロバイダー提供のものが安心なのだが、これからメールを送って来る人が「メールを送りましたが、読んでもらえたでしょうか」ということがあってはいけない。残念だが、今のままでは危険が高まっていて、待っていられないと感じた。
▼インターネット検索や、Webの閲覧は問題なくできている。だから、現在のプロバイダーは活かそうと思う。だが、こんなことが度重なると、やはりプロバイダーそのものにも魅力を感じなくなる。ぜひ最大限の努力をして、この難局を乗り切ってほしいものだ。
▼マラソン大会。くどいようだが、4位の先輩とは8秒しか差がなかった。上り坂ではすぐそこまで近づくのだが、下りになると逃げられる。その繰り返しで、最後のゴール前もあと少しの気力が自分に足りなかった。
▼ただ、ゴール前に追い越して4位になったら、来年の目標を失っていたかもしれないから、それはそれでよかったのかもしれない。今年は、順位を一けた台にすることが目標だったが、来年は、タイムを競うマラソンにしたい。

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新企画今週の1枚
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第181回目。お世辞にもカッコいいとは言えないが、走っている様子。
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司祭の本業ではありませんが・・・マラソン大会の

2012-02-02 | Weblog
【お知らせ】

司祭の本業ではありませんが、マラソン大会の結果などを
ホームページ「話の森」にアップしました。
ランニングパンツが食い込んでいて、とてもお見せできませんが、
それでものぞいてみたい方はどうぞ。
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また、福江教会の主任司祭である下口神父さまが、
これまでのマラソン大会32回の歴史をまとめてくださっています。
あわせてごらんになると面白いと思います。1993年あたりが、
個人的にはお勧めです(笑)
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年間第4主日(マルコ1:21-28)中から出るイエスの権威で教え、導く

2012-01-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/01/29(No.573)
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年間第4主日
(マルコ1:21-28)
中から出るイエスの権威で教え、導く
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いよいよ火曜日にはマラソン大会に出場して来ます。練習以上のものは出ないと思いますから、いきなりトロフィーをもらってくるとか、そういうことは言えませんが、去年の長距離の部14人中13位よりは、明らかに順位を上げられると思います。

タイムとしては、今年の長距離の部は浦頭教会からマリアの園までの往復8キロだそうですから、48分、順位は1桁台、あわよくば8位入賞と、その辺が目標でしょうか。練習は昨日までで仕上げました。今日からは体を休めて、火曜日に走りたくてたまらないと、そういう状態に整えたいと思います。

もしも、冷やかし半分で応援に行く人がいらっしゃるようでしたら、当日朝8時10分に土井ノ浦から出る船に乗ってください。これが便利です。同じ船は、午後3時55分に出て、5時ごろ土井ノ浦に着きます。わたしは前日よきおとずれの仕事で長崎にいるので長崎から福江に行きますが、帰りは土井ノ浦に着く船に乗ろうと思っています。

2ヶ月の練習でしたが、あらためて分かったことがあります。練習を積んだ人には、練習に裏付けられた自信が、顔に表れるということです。何か目標を見据えているとか、周りにだれがいても自分の走りをちゃんとできるとか、そうしたことはかぶり物では決して身につかないもので、中からにじみ出てくるものだと思います。

さて今週の福音朗読ですが、イエスが安息日に会堂に入って教えると、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(1・22)とあります。

律法学者たちも、実は権威を振り回していたのですが、彼らの権威は律法に頼った権威で、いわば律法をかさに着て、威張っているだけでした。イエスは、律法学者とは全く違った形で、「権威ある者として教えた」のです。イエスには、中からにじみ出る権威がありました。

律法学者たちも、正しい権威を振るうことは可能だったでしょう。しかしそれは、常に律法に依存していて、しかも律法を正しく理解しているときにのみ備わっている権威です。彼らは律法を離れては、単なる人間に過ぎなかったのです。

イエスは違いました。会堂で教える時も、汚れた霊を追い出す時も、どんな時でもイエスの中に権威がありました。それは、だれとも違う、イエスだけが備えていた中からにじみ出る権威でした。

この、イエスだけが持つ権威、中からにじみ出てくる権威に、人々は驚いたのです。不思議に思ったのではなくて、圧倒され、畏敬の念をもったのです。中からにじみ出てくるものは、その人を雄弁に物語ります。人々は、イエスこそ真の権威をもっている方だと、理解したのです。

この場面から、わたしたちも何かを学び取りましょう。わたしたちも、自信を持って何かを話したり、教えたりしなければならないときがあります。よくわたしがたとえにあげる話ですが、外出先で食事をするときがあるわけです。そういうときに、食前食後の祈りを唱えることはすばらしいことですが、どのような権威を示すかに注意が必要です。

わたしたちは、見せびらかそうとして祈ることもできます。反対に、だれかに見せようとしてではなく、心から食事に感謝するために祈ることもできます。前者は、権威をかさに着た態度ですが、後者は権威がにじみ出た態度です。人々が公の場で祈るあなたを見て、その姿に圧倒されるのは、どちらの心がけでしょうか。見せようとして祈った姿でしょうか、心から感謝の気持ちがあふれて祈った姿でしょうか。

皆さんは、スポーツ選手が十字架の印をする姿を見たことがないでしょうか。その十字を切る姿にわたしたちが圧倒されるのは、見せようとして十字を切っているからでしょうか、喜びが心からあふれて十字を切っているからでしょうか。答えは明らかです。

いつも、中からにじみ出てくる権威が人を圧倒します。中から表れる権威が、本当の意味で人を教え、子供を導き、従わせるのです。権威をかさに着ても、権威を振り回しても、人は心を打たれないし、子供は心を開き、耳を傾けようという気にはなりません。ですから、わたしたちが何かの場面で教えなければならない、導かなければならないとしたら、中から出てくる権威によって、教え導くのです。

人によっては、自分にはそんなものが備わっていませんという人がいるかもしれません。何かの仕事を任されたり、選ばれて上に立つことになった。けれどもどんな顔をして、自分に任せられている人を教え、指導すればよいのだろうか。悩むかもしれません。

権威をかさに着てはいけない、権威に頼ってはいけないと言いましたが、1つだけ、頼れる権威があります。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストは、わたしたちにとっての唯一の権威です。ですから、あなたが自信をなくし、子供に、また人に教え導くのをためらっているなら、あなたの中にイエス・キリストがいるように心がけたらよいと思います。

つまり、「イエスだったら、この場面をどのように教え導くのだろうか」と考えながら、声をかけるということです。自分自身は確信を持てなくなっているかもしれませんが、「イエスだったらどう判断し、行動するだろうか」そのことに心を配るようにすれば、あなたが教え導こうとするとき、イエスが権威を与え、助けてくれるのではないでしょうか。

突き詰めると、わたしたちの中からにじみ出てくるものは、イエス・キリストであるべきだ、ということです。練習に裏打ちされた自信や、積み重ねた経験もあるでしょうが、それらは一歩間違えると、かさに着てしまうものになります。いつも、わたしたちの中から、イエス・キリストがにじみ出てくる。そういう権威の使い方を、イエス・キリストに願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マルコ1:29-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼メルマガ配信のタイミングについて。メールチェックをしていて、これまで「メールマガジン配信完了」というメールが届いても、特別気にしていなかったのだが、今回は嫌でも気になる時間にこの案内が来た。
▼「まぐまぐメールマガジン配信完了」という件名で、1月22日(日)23時37分に案内メールが届いていた。実際にこのメールを見たのは月曜日だったから、ふだんであれば読みもせずに削除していたことだろう。だが届いた時間が気になり、目を通してみた。
▼「?」「!」目を疑った。おもな部分を抜き出すと、「件名:こうじ神父今週の説教No.572→配送予定日時:2012/01/21 13:57:10→配送完了日時:2012/01/22 21:23:20→発行部数:236」となっているのである。
▼明らかに、土曜日の14時少し前に配信したのに、配送されたのは日曜日の21時過ぎだという。しかも、「※ご注意・実際にメールマガジンが読者さんの手元に届き始めるのは、これからです。配送経路の混雑具合によっては、読者さんにメールマガジンが届くまで時間がかかる場合があります。ご了承ください。」とまで釘を刺している。
▼てっきり数時間のうちには配送されていると思っていたので、今回の案内には正直驚いた。そこでまぐまぐから配信を受けている230人くらいに問い合わせたところ、何人かの人から「土曜日、午後2時頃には配信されていましたよ」とていねいな返事をもらった。どうやら実際は問題なく届いていたようである。
▼今回のハプニングがかえって、何かが起こった時には気にかけてくださる人がちゃんといることを教えてくれた。久しぶりに連絡を受けた人もいたし、中には初対面と思われる人も声をかけてくれた。多くの熱い声援があるから、このメルマガは成り立っている。感謝の気持ちがあふれて来た。

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新企画今週の1枚
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第180回目。92歳で天の国に召された大先輩司祭の追悼ミサ。29日16時から。
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年間第3主日(マルコ1:14-20)時は満ちた。生活の中心に何を据えますか

2012-01-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/01/22(No.572)
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年間第3主日
(マルコ1:14-20)
時は満ちた。生活の中心に何を据えますか
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この前、信者さんからこう言われました。「気のせいかなぁ。神父さま、痩せたような気がする。」気のせいじゃないですよねー。お腹とか、今までサッカーボールが入っていたのが、ソフトボールくらいになったのですから、これで痩せたことに気づかないなんて、どうかしています。

痩せてちょっと助かっていることがあります。これまでは歩いたりするとシャツとかがはだけたりして、ひんぱんに前を整えなければなりませんでした。最近は、少し歩いたくらいでは洋服がはみ出さなくなりまして、あーこれもお腹が引っ込んだ効果なんだなぁと実感しています。

福音朗読は、マルコ福音書からイエスの宣教開始にあたっての第一声と、ガリラヤで漁師を弟子にする場面が選ばれました。イエスは宣教にあたっての第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)と仰いました。この呼び掛けをどう理解するか。漁師を弟子にする場面からヒントを得たいと思います。

まずガリラヤの漁師だったシモンとその兄弟アンデレ、彼らがイエスの招きを受けます。イエスは2人が湖で網を打っているのを御覧になり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1・17)と言われたとあります。

みなさんは、この場面に驚きとか、疑問とか、何か感じないでしょうか。仮にわたしたちがイエスさまと同じように岸にいて、網を打っている漁師が浜串の沖の波止場にいるとしましょう。どれくらいの声だったら、沖にいる漁師に聞こえるのでしょうか。あるいは、沖にいる漁師の心をとらえて、網を捨てて従ってくれるでしょうか。

おそらく、大声で叫ばないと、岸にいる人の声は聞こえないはずです。イエスは大声で言ったのかなぁと、みなさんはお考えでしょうか。もしそうであれば、少なくとも最初の言葉は、「おーい」と呼び掛けてからでないと、漁師はイエスの声に気付かなったでしょう。

わたしは、今話したこととはちょっと違う考えをもっています。つまり、イエスが呼び掛けたのは、湖で網を打っている真っ最中ではなく、岸に戻ってから、静かに声をかけたのではないかなぁ、と考えたのです。タイミングを見計らって、それから声を掛けた。そう考えます。

この方法ですと、「おーい、ちょっと話があるんだけど、聞こえるか―」みたいな大声は出さなくて済みます。一方で、2人の漁師がどうしても話を聞かなければならない、そういう雰囲気作りが必要です。

そこでこう考えました。シモンとアンデレが湖で網を打っているのを御覧になった時からずっと、片時も目を離さず、2人を見つめておられたのではないか。そう考えました。さっきからずっとわたしたちを見ているあの人は、いったいだれだろう。わたしたちに何の用事があるのだろうか。わたしたちが岸に上がって来てからもずっとわたしたちを見つめている。きっと何か大事なようがあるに違いない。イエスがひたすら見つめ続けたことで、2人の漁師に心の準備ができた。それを見計らって、声を掛けたのではないか。そう考えたのです。

もちろん真実はどうか分かりませんが、十分に心の準備をさせてから、声を掛ければ、効果的だというのは皆さんも理解できると思います。いつか岸辺に立って、海の上にいる人を見つけて、考えてみてください。わたしの考えもまんざらでもないと思います。

さて、シモンとアンデレは、網を捨ててイエスに従いました。また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも、イエスの呼び掛けに応え、父ゼベダイと雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行きました。

彼らが取った行動をまとめると、漁師の仕事を生活の中心に据える生活から、イエスに従って歩むことを生活の中心に据えた、となります。ここから、さかのぼってイエスの宣教活動にあたっての第一声「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という呼び掛けは、「イエスに従って歩むことを生活の中心に据える」そういう呼び掛けだったと理解するのが適当だと思います。

ここで考えてほしいことがあります。イエスは、この宣教活動の始まりに、初めて「イエスに従って歩むことを生活の中心に据えなさい」と呼び掛けたのでしょうか。第一声としてはそうだと思いますが、わたしは、もっと以前から、具体的にはイエスの誕生のその時から、この第一声を発し続けていたのではないかと思うのです。

イエスの誕生は飾りも何もない、粗末な場所での誕生でした。喜ばしいことの何もない中での、唯一の喜びの源でした。そこへ羊飼いが訪ねて来て、後には占星術の学者たちも贈り物を携えて拝みに来ます。神殿に奉献される時、シメオンは幼子を抱いてもうこれで十分だと満たされました。12歳になって神殿へ出向いた時も、父なる神のもとに留まりました。

これらはすべて、中心に何を据えて生きるべきかを教えているのではないでしょうか。どの場面も、中心に神を据えて、イエスの導きを中心に据えて生活することを、教えていると思うのです。

そして、イエスはあらためて、何を中心に据えるべきかを第一声として呼び掛けられました。これは、わたしたちへの呼び掛けでもあります。ガリラヤの漁師たちのように、すっかり生活が入れ替わる人も中には必要でしょう。男の子が司祭職を目指して神学校に行くとか、女の子がシスターを目指して志願院に行くとか、それも大い期待します。それと同時に、わたしたちの日々の生活も、中心に何を据えるかを考えてほしいのです。

中心に何を据えるのか、見誤ってはいけません。これが中心だと思っても、それが根こそぎ揺さぶられ、洗い流され、何も残らないかもしれないのです。イエスの第一声「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」この声にふさわしい生活を積み重ねることができるように、ミサの中で照らしと導きを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(マルコ1:21-28)
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ちょっとひとやすみ
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▼申し分ない天気になった。風はあるが、日差しはかなりきつい。本来ならこのタイミングで外に飛び出して、5キロか、それ以上走ると汗もしっかり出せて気持ちいいはず。ところが、メルマガの配信が午前中に果たせず、残念ながらランニングは夜に持ち越し。
▼気が付いたら1月21日、1月31日の大会当日まで10日となっている。12月1日走り始めた時はずいぶんあるように思っていたが、時間は本当にあっという間に進むものだ。司祭団マラソン大会のお世話をしてくださる若手の司祭からケータイにメールが届いて、距離、コース形態などの概略を教えてもらった。
▼イメージしてきた練習通りなのだが、やはり本番は何が起こるか分からない。メールを送ってくれた若手の司祭も、「足がつらないように、注意してください」と書き添えられていた。それはそうだ。練習をしていても、いつも以上に力が入れば、けがをする危険はある。十分注意して本番に臨みたい。
▼大人の黙想会を例年通り3月の月夜間の期間に設定した。上五島は特に、漁業に従事する人が多いので、月夜間に黙想会を設定する教会が多い。この機を逃すと、遠洋漁業に従事する人は黙想会参加の機会を失ってしまう。そうやって、信者としての務め(ゆるしの秘跡・聖体拝領)を果たしている。本当に感心する。
▼説教師に、郷里の出身で修道会の司祭を依頼し、了解を得ていたのだが、ご本人から連絡があり、代理を立てて来てもらうとのこと。ちょっと残念。切り替えて、来てくださる説教師の話を楽しみにしたい。面識がないので、長崎に行った折に、どこかで顔をつないでおかねば。

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新企画今週の1枚
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第179回目。やや軽くなって、ランニング。でも考えている姿からはまだまだ。
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