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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

小西真奈美というホラー

2006年05月31日 | Weblog
そうか、月曜日もやってたんですね『モーターサイクル・ドンキホーテ』。見に行けばよかったかも、と少し後悔しながら、愛読する宮沢章夫ブログのなかに、青土社のMさんというひとの本作の劇評が載っていて、そこに、〈「人はなぜ女優になるのか」。この問いへの答えは、意外にもあっさりと提示されます。「なんとなく」。これが事実だ。〉とあり、何か気になったのは、日曜日に情熱大陸を見たからだ、きっと。その日は小西真奈美がフィーチャーされていて、見るともなく見ていたのだけれど、しばらくしたら「このひと、ちょっと怖い人だ」と思えてきて、徐々にゾクゾクしてきた。ディレクターというかカメラマンの相当な思い入れを感じる番組は、小西の映画撮影の日々やカンヌでの映画宣伝の日々を粘着質的に追いかける。そこでの小西の表情になかなか「素顔」らしきものがあらわれないのが気になる。いつでも瞬時に生まれる笑顔は、見慣れた彼女の魅力を反復再生する、がその様子がどうも怪しい、と感じる。他人にとって魅力的な笑顔というのを知っていて、スッとそこに逃げる。小西にとって笑顔を作る(=演じる)ことは、本質的なものを隠すために行うことなのではないかと気づく。番組が進んでぞっとしたのは、素をルーツを感じさせないとぼくと同様のことを感じたのだろうディレクターが昔の写真を見せてくださいとお願いしたとナレーションした直後のテロップ。「ないんです」。何かこの「ない(本当にないかどうかよりも重要なのは「ない」と言って隠蔽してしまいたい何かが予感できる)」ことに根本的な何か、小西が女優になりたいと思った真理があるような気がした。現実的なもの(ラカン)が露呈するのをひたすら回避しようとする身ぶり、それこそが小西の笑顔ではないのか。

とすると、女優になるというのは「なんとなく」ではないぜ、という思いが噴出する。女優になることは、あるいはよりグリーンブラット的に言えば「役割演技」をすると言うことは、そうとう切迫した「やむをえず」ではないのか。あるいは、気づけばそうせざるを得ないような場に生きている、そういうものだろう。だから、女優をやめることは出来ないというMさんの結論はその通りだろう。というよりも、人生を生きることは俳優を生きることそのものなのだ、きっと。

でも、小西の笑顔がある「女優=人生」の真理を語っているとして、でも、何かもう少し「悠々」と女優=人生を生きることもできるのではないか、そうだったらいいな、とも思うのです。役を生きつつ、つまり「他者を同化すること」をしつつ、グリーンブラットが『驚異と占有』の序で挙げるバリ島人みたいにその際に「元の形状に戻る弾力」があってもいいのではないか、と思うのです。つまり、押しつけられる役割の中でひょうひょうと自分のしたいことを遂行する、といったようなこと、が。

でも、それも「現実的なもの」の恐ろしさを幼年期に回避することの出来た人間の無邪気な理想なのだろうか、などとも考えてしまう。と、そのくらい底知らずの「ホラー」をぼくに意識させた小西だったのである。
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