以前から考えていたことで、拙ブログでもたびたび言及していた「ダンスは観客とどんな関係を取り結ぶのか」という論点について若干の整理をしたいと思う。どうもぼくだけが考えていることではなく、むしろ観客の立場で劇場に足を運ぶ人なら当然感じる事柄らしく、幾つかのブログでまた雑誌で、この論点に関わることが語られているのである。
最初に気になったのは、稲倉達さんの『演劇人』022号(2006年)に載った原稿である(「他者への回路としてのコンテンポラリー・ダンス公演」)。稲倉さんは2004年のピナ・バウシュ公演において舞踊団達が「仲良しサークル」のように映り、「ダンサーたちが形成する集団を社会や共同体のアナロジーとして見ることができなかった」という。公演で示されるもの(とくにその個と集団の関係)と我々の社会との乖離、稲倉さんはそこに、かつて感じていたバウシュ公演への強烈な印象と現在とのズレの根拠を見る。確かに、かつてのバウシュの公演では、シアトリカルなシーンの中に「いじめ」のような場面がしばしばあって、それを見るとき、ぼくも何か差し迫ったもの、自分の現実と区別することの出来ないリアルで切実な何かの表象として受け止めていた。いまでは、そのようなシーンはやや乏しくなりまたその分ソロで踊るシーンが比例して増えている。ひととひととの(また個人と社会の)関係の呈示がじりじりするような痛みを見る者に与えることは減り、その代わり、ひとつのトーンの中に個々人は溶け合わされていく。
さて、この乖離の意識はしかし、「私たちの実生活における周囲への感受性を新たなものにするような公演」を予感させるものとして稲倉さんは捉える。「雇用の流動化」「生活の個人化」が進む社会の中で、ダンスの公演が示すひととひととの(また個人と社会の)関係も変化しているのではないかというのである。つまり、バウシュ公演におけるソロの踊りの増加は、その端的な表れということになる。
問題はならば、バウシュのソロ・パートに我々は現代的なリアリティを感じているのか、と言うことになりもするだろう。ぼくは残念ながら、あまりそこに(例えば)「雇用の流動化」「生活の個人化」が呼び起こすたぐいの現代的リアリティを感じることはない。そこに個人の妄想、個人の暴走が看取されるならば、話は別であろう、が。彼らは実に立派な「ダンサー」であることを我々に誇示するだけなのである。
いやいや、重要なことはそこではない。稲倉さんの指摘で重要なのは、いまの社会状況に親和性のある関係の呈示が行われているのか否かという視点からダンス公演を分析する必要を唱えていることである。そしてそれは、恐らく、単に舞台上での「関係の呈示」と言うこと以上に、観客との関係が「今の社会状況に親和性のある関係」となっているのかどうかを分析することだろう。例えば、コンドルズに関して、
「「流動化」「個人化」を経験した観客には、コンドルズの提示する共同体の心地よさを享受したい、祭りに身を委ねたいと思う一方で、共同体的快楽に没入することへの抵抗感もある。そうした抵抗感を中和し、ベタな事態の回避を担保してくれるのがB級テイストなのだ」
あるいはまた、藤田一のデュオ公演について、「息のあったデュオ」とはほど遠い分、それによって相手の大歳との間に「他者とのコミュニケーションの姿」を露わにした点(稲倉さんは、あまりに稽古の出来た二人だと息が合う分他人同士がそこに対峙しているといった状態が消滅してしまうと考える。だから練習不足にも一分の価値はあるという。まっとうな見解だと思う)に注目して、
「藤田は、藤田・大歳・観客の三者の関係を、「創造者の共同体−観客」という対立関係から、三者が他者として認め合う「公共圏」へと調整を図ろうとしている」
と捉えている。
藤田公演をぼくは見ていないし、コンドルズへの理解は意見を異にする点もあるけれども、稲倉さんの視点は良く理解できるし重要なものであると思わずにはいられない。そうだ、あと、稲倉さんのブログでは、まことクラヴ「シカク」公演に感じたシニシズムの不快感を、昨今の「和食ダイニング」に行ったときに感じる感覚と重ね合わせてみている。興味深い視点だとおもう。
「和食ダイニング」アナロジーに引きつければ、それはまた、公演を「サーヴィス」モデルで見る見方でもある。そう考えると、福岡在住の方達による(らしい。面識なし。その点稲倉さんも同様)このブログでも、今月行われた若い世代の公演が「アングラ」を標榜していることに注目しながら、それが「サーヴィス」の点で反対しようとしているエンタメに負けていると論じている。なるほど、
「そういう「アングラ」はもうダメだと言いたい気がします。なぜなら、アングラ表現が、サービス業資本主義に対する「反抗」として、観客への「サービス」を拒否する「野蛮」となるかぎり、それは既存のサービス業の水準を下回ることになると思うからです。サービス業が感情と身体を拘束し類型化するとするならば、自由な身体はそれに対する「反抗」として野蛮化するのではなく、むしろその産業の先を、それを上回るさらに「洗練されたサービス」のイメージを、観客に与えるべきでしょう。」
この筆者にとって、公演は「サーヴィス」なのだという視点は揺るぎないもののようだ。ぼくにはその理解が興味深い。「サーヴィス」モデルとは別のモデルも考えれば幾つも想定できるはず。リアリティあるパフォーマーと観客との関係は、「サーヴィス」モデルだけではないだろう。ぼくは基本的にはそう思っている。つまり新しい「モデル」をリアリティを湛えつつ提示することがトライアルするべき、新たに公演を行うに値するポイントだとさえ思う。しかし、むしろ現状は、パフォーマーと観客との関係は多様化ではなく偏狭化してきていると見るべきなのかも知れない。先に稲倉さんの原稿に関してあげた雑誌『演劇人』には、菅孝行「新しい観客への旅 他者を素通りする演劇を超えて」が載っていて、そこで菅氏はまさにその狭い(一定の、一義的な)関係を憂うのであるけれど、さて、観客はまさに「サーヴィス」関係以外の選択肢を求めてもいないし、それ以外が有るとも思っていないかも知れないのである。(続)
最初に気になったのは、稲倉達さんの『演劇人』022号(2006年)に載った原稿である(「他者への回路としてのコンテンポラリー・ダンス公演」)。稲倉さんは2004年のピナ・バウシュ公演において舞踊団達が「仲良しサークル」のように映り、「ダンサーたちが形成する集団を社会や共同体のアナロジーとして見ることができなかった」という。公演で示されるもの(とくにその個と集団の関係)と我々の社会との乖離、稲倉さんはそこに、かつて感じていたバウシュ公演への強烈な印象と現在とのズレの根拠を見る。確かに、かつてのバウシュの公演では、シアトリカルなシーンの中に「いじめ」のような場面がしばしばあって、それを見るとき、ぼくも何か差し迫ったもの、自分の現実と区別することの出来ないリアルで切実な何かの表象として受け止めていた。いまでは、そのようなシーンはやや乏しくなりまたその分ソロで踊るシーンが比例して増えている。ひととひととの(また個人と社会の)関係の呈示がじりじりするような痛みを見る者に与えることは減り、その代わり、ひとつのトーンの中に個々人は溶け合わされていく。
さて、この乖離の意識はしかし、「私たちの実生活における周囲への感受性を新たなものにするような公演」を予感させるものとして稲倉さんは捉える。「雇用の流動化」「生活の個人化」が進む社会の中で、ダンスの公演が示すひととひととの(また個人と社会の)関係も変化しているのではないかというのである。つまり、バウシュ公演におけるソロの踊りの増加は、その端的な表れということになる。
問題はならば、バウシュのソロ・パートに我々は現代的なリアリティを感じているのか、と言うことになりもするだろう。ぼくは残念ながら、あまりそこに(例えば)「雇用の流動化」「生活の個人化」が呼び起こすたぐいの現代的リアリティを感じることはない。そこに個人の妄想、個人の暴走が看取されるならば、話は別であろう、が。彼らは実に立派な「ダンサー」であることを我々に誇示するだけなのである。
いやいや、重要なことはそこではない。稲倉さんの指摘で重要なのは、いまの社会状況に親和性のある関係の呈示が行われているのか否かという視点からダンス公演を分析する必要を唱えていることである。そしてそれは、恐らく、単に舞台上での「関係の呈示」と言うこと以上に、観客との関係が「今の社会状況に親和性のある関係」となっているのかどうかを分析することだろう。例えば、コンドルズに関して、
「「流動化」「個人化」を経験した観客には、コンドルズの提示する共同体の心地よさを享受したい、祭りに身を委ねたいと思う一方で、共同体的快楽に没入することへの抵抗感もある。そうした抵抗感を中和し、ベタな事態の回避を担保してくれるのがB級テイストなのだ」
あるいはまた、藤田一のデュオ公演について、「息のあったデュオ」とはほど遠い分、それによって相手の大歳との間に「他者とのコミュニケーションの姿」を露わにした点(稲倉さんは、あまりに稽古の出来た二人だと息が合う分他人同士がそこに対峙しているといった状態が消滅してしまうと考える。だから練習不足にも一分の価値はあるという。まっとうな見解だと思う)に注目して、
「藤田は、藤田・大歳・観客の三者の関係を、「創造者の共同体−観客」という対立関係から、三者が他者として認め合う「公共圏」へと調整を図ろうとしている」
と捉えている。
藤田公演をぼくは見ていないし、コンドルズへの理解は意見を異にする点もあるけれども、稲倉さんの視点は良く理解できるし重要なものであると思わずにはいられない。そうだ、あと、稲倉さんのブログでは、まことクラヴ「シカク」公演に感じたシニシズムの不快感を、昨今の「和食ダイニング」に行ったときに感じる感覚と重ね合わせてみている。興味深い視点だとおもう。
「和食ダイニング」アナロジーに引きつければ、それはまた、公演を「サーヴィス」モデルで見る見方でもある。そう考えると、福岡在住の方達による(らしい。面識なし。その点稲倉さんも同様)このブログでも、今月行われた若い世代の公演が「アングラ」を標榜していることに注目しながら、それが「サーヴィス」の点で反対しようとしているエンタメに負けていると論じている。なるほど、
「そういう「アングラ」はもうダメだと言いたい気がします。なぜなら、アングラ表現が、サービス業資本主義に対する「反抗」として、観客への「サービス」を拒否する「野蛮」となるかぎり、それは既存のサービス業の水準を下回ることになると思うからです。サービス業が感情と身体を拘束し類型化するとするならば、自由な身体はそれに対する「反抗」として野蛮化するのではなく、むしろその産業の先を、それを上回るさらに「洗練されたサービス」のイメージを、観客に与えるべきでしょう。」
この筆者にとって、公演は「サーヴィス」なのだという視点は揺るぎないもののようだ。ぼくにはその理解が興味深い。「サーヴィス」モデルとは別のモデルも考えれば幾つも想定できるはず。リアリティあるパフォーマーと観客との関係は、「サーヴィス」モデルだけではないだろう。ぼくは基本的にはそう思っている。つまり新しい「モデル」をリアリティを湛えつつ提示することがトライアルするべき、新たに公演を行うに値するポイントだとさえ思う。しかし、むしろ現状は、パフォーマーと観客との関係は多様化ではなく偏狭化してきていると見るべきなのかも知れない。先に稲倉さんの原稿に関してあげた雑誌『演劇人』には、菅孝行「新しい観客への旅 他者を素通りする演劇を超えて」が載っていて、そこで菅氏はまさにその狭い(一定の、一義的な)関係を憂うのであるけれど、さて、観客はまさに「サーヴィス」関係以外の選択肢を求めてもいないし、それ以外が有るとも思っていないかも知れないのである。(続)










