内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

常体と敬体の巧みな組み合わせが生み出す思考のリズム

2017-09-18 21:26:38 | 日本語について

 日本語の初歩では、一般に、敬体、つまり「です」「ます」体をまず習います。常体よりも習得が容易で、かつ、実際話すときにも、敬体を原則としたほうが無難だからです。
 ちょっと日本語に慣れたからといって、調子に乗って常体を使うと、いくら話しているのが外国人だからといっても、それを聞かされる日本人の中には、あまりいい気持ちのしない人も少なくないのではないでしょうか。
 かく言う私も、無神経に常体を使う外国人あるいはハーフは嫌いです。そんな程度の言語センスで図に乗るな、と言いたくなることがしばしばあります。まあ、そんなこと言ったってね、当の日本では、旧態依然たるそんな保守主義は、メデイアを席巻するハーフタレントたちにものの見事にぶち壊されてしまったようですけれど(ちなみに、ローラは嫌いじゃありません、私は)。
 相当に日本語に熟達した人にとっても、日本人が聞いて自然に感じられるほど敬体と常体とを適切かつ巧みに組み合わせることはなかなかにむずかしいことです。それゆえ、「教育的配慮」から、原則として両体を混ぜるな、と日本語教育者は教えることになります。
 それどころか、日本人同士だって、敬体・常体の按配はむずかしい。類まれな文章の達人である友人が、あるとき、せっかく一定の原則にしたがって両者を注意深く組み合わせて文章を書いているのに、編集者が機械的にどちらかに「統一的に」校正してしまうんだよねぇ、と嘆いていました。
 昨日の記事の最後に引用した丸山圭三郎の文章でも、敬体と常体が混用されています。しかし、それは適当に混ぜて使われているのではありません。そのまったく逆で、一般的にテーゼとして認められていることは常体、そこから筆者(もともとは話者)である丸山が引き出して特に主張したいことを述べるときは敬体になっているのです。この組み合わせが、「です」「ます」体だけの単調なリズムを破って、表現にダイナミズムを与えてもいます。
 この文章を学生たちに読ませるのは、その組み合わせの妙を理解させるためでもあります。もちろん、安易に真似をしてはいけないよと、注意はしますが。
 今日の記事の終わりに掲げる次の井筒俊彦の文章(これも学生たちに音読さる文章の一つ)でも、敬体と常体が巧みに組み合わされています。

要するに、『コーラン』は、これを読誦することが肝要だ、ということです。啓示された神のコトバは、いつも声を出して誦んでいなくてはいけない。声を出して誦むことによって、はじめてお前の心にそのコトバがしみ込むだろう。それをおこたると、せっかく啓示された神のコトバもすぐに忘れられてしまう。忘れられてしまうということは、心にしみてこない、従って働かない、何の作用も及ぼさない、ということです。「アッラーの御心ならでは忘れまい」つまり、もし忘れさせることが神の意志ならば、それはそれで仕方がない。いくら誦んでいたって、誦んだコトバが心にしみ込まないこともあるかもしれないが、そうでない限り、毎日毎日、日夜を分たず『コーラン』を読誦していれば、そのコトバが心にしみつき、やがては強力に働きだすだろうというのです。

井筒俊彦『『コーラン』を読む』、岩波現代文庫、二〇一三年、七頁。











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