内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学の方法としての「膨張」(その六)― 科学がもたらす快楽と哲学がもたらす歓喜

2017-06-19 21:17:54 | 哲学

 ベルクソンは、芸術に対してばかりでなく、科学に対しても、哲学の優位性を主張する。それは、私たちが生きる知覚世界により大きな時間・空間的広がりと奥行きを哲学が与えてくれる点においてである。
 この点についても異論は多々ありうるだろうが、まずはベルクソンのテキストを少し読んでみよう。引用するのは、1911年4月10日にボローニャの哲学国際会議(Congrès international de philosophie)での有名な講演「哲学的直観」(« L’intuition philosophique »)の最後の段落の最後の数行である。

Les satisfactions que l’art ne fournira jamais qu’à des privilégiés de la nature et de la fortune, et de loin en loin seulement, la philosophie ainsi entendue nous les offrirait à tous, à tout moment, en réinsufflant la vie aux fantômes qui nous entourent et en nous revivifiant nous-mêmes. Par là elle deviendrait complémentaire de la science dans la pratique aussi bien que dans la spéculation. Avec ses applications qui ne visent que la commodité de l’existence, la science nous promet le bien-être, tout au plus le plaisir. Mais la philosophie pourrait déjà nous donner la joie (La pensée et le mouvant, op. cit., p. 142).

 クレティアンが指摘してるように(J.-L. Chrétien, La joie spacieuse, op. cit., p. 28)、ここでの哲学への優位の置き方は問題を孕んでいる。
 芸術が、天与の才と幸運に恵まれた一部の選ばれた者にしか、しかも間遠にしか、与えない満足を、哲学は、万人に、いつでも、与えるであろう。こうベルクソンは言う。それは、(直観をその方法とする)哲学が、私たちを取り巻く亡霊たち(現在の必要に切り詰められた知覚世界の中でその本来の生命を失った事物)に命を再び吹き込み、(現在の必要に拘束されて生命力を失っている)私たち自身を生き返らせることによって可能になるであろう。
 しかし、哲学が万人によってつねに実践されているのならば、私たちの生きる世界はいつも生き生きとして、創造性に満ちているはずである。ところが、現実はそうではない。上掲の引用でも条件法が使われていることからわかるように、哲学が万人によってつねに実践されるには、それ相当の諸条件、満たすのがかなり、いや非常に、困難な諸条件が揃わなければならないであろう。その点、哲学は芸術に対して優位を占めるわけではない。
 科学に対しては、哲学は実践においても思弁においても相補的な役割を果たすであろうと言われている。しかし、科学は、その応用が生活の利便性の向上しか目ざさず(これも異議あり!ですよね)、私たちに充足を約束しはするけれど、せいぜいのところ快楽(plaisir 広い意味での物質的・肉体的束の間の満足ということでしょう)しかもたらさない。それに対して、哲学は、それだけでもう私たちに喜び(joie)を与えることができるだろう。
 この喜び(歓喜)と私たちの生きる世界の拡張(dilatation)とは、ベルクソン哲学において、同じ一つの経験である。











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