内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「物のあはれ」の倫理、あるいは受苦の共同態という虚構の幻出

2017-04-18 09:48:56 | 哲学

 もし昨日の記事で提示した推論が妥当であるとすれば、『古事記伝』における国粋主義的な言説と「物のあはれ」論に見られる〈現在〉における感性の共同体への志向とは、宣長において、矛盾しないどころか、表裏一体をなしている、とさえ言うことができるだろう。
 しかし、山田が参照している百川敬仁『内なる宣長』(東京大学出版会、1987年)の次の一節(手元に原本がなく、山田の『三点確保』からの孫引きであること、乞御寛恕。山田書には百川書からの引用箇所の頁数が示されていない)を読めば、私たちがここで直面しているのは、「整合的な」宣長像という狭い意味での思想史な問題枠組みを遥かに超えた、現代日本において再び問い直されるべき倫理学的根本問題の一つであることがわかる。

「宣長の要求するところはきわめて厳格である。一方で秩序の規範を尊重しながら他方でそれに従いかねる心を歌うという引き裂かれた心情にあくまで踏みとどまること、それが『まごごろ』の本性に忠実な『物のあはれ』の倫理というわけだ。これに堪えるとき、おのずから言外に溢れる悲哀は疎外された大都市の大衆の根本気分にふれ、交響し増幅しあって、現実の諸条件を棚上げに一瞬の共同態を幻出させるのである」。(山田前掲書、149頁)

 折りに触れ「物のあはれ」を感ずる心は、受苦の共同態を善悪正邪の「彼岸」に一挙に一瞬にして幻出させる。この「彼岸」とは、しかし、善悪正邪が言挙げ・言(事)分けされる以前の〈古〉として絶対化され、神聖化されている。そのことと現実の秩序の規範を遵守することとは少しも矛盾しない。この受苦の共同態の中で、「物のあはれ」の名の下に、私たちを拘束する社会的規範とそれに従おうとしない心情とが〈歌〉によって「止揚」されてしまうからだ。
 「物のあはれ」が文学の自律的価値の問題という枠組みを超えて、共同体的倫理の原理と化すとき、私たちは、「美しい日本」の中の受苦の共同態という虚構の裡に幽閉され、そのことに気づくことさえできなくなってしまう。











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3 コメント

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siturei siteorimasu (konnitiha)
2017-04-18 18:14:46
 興味深く目を通させていただきました。受難に耐えきって、そこにあるのは、規範を超えることができずに、または規範を超えるなんてとんでもないという自己抑制からの受苦という今日の体制擁護者たちをはじめとする個々人の受苦というありようとそれによる”もののあわれ”というものに類するようなものにとどまろうとする卑屈な感性なのだろうな…と。
そんなことを自分勝手に思い起こしつつ、暗愚な当方は日々の労苦などに列島の片隅でランボゥじゃないですが、ああ、時よ来いと…
闘い勝ち取ってきた日々やその崩壊、そしてその停止を現在進行形で感じ取りつつ、先に逝った同志らへの踏みとどまり切れぬもの悲しさを抱えつつ無様に生き続ける自らに問いかけなおしながら…
 沈丁花がその香を終演させ、春の激雨にひしがれたフリージアの香を時に感じつつ、先に逝った同志たちにジャスミンを捧げようといつもながらに思う当方です…
感想 (桜井丹九郎)
2017-04-18 20:09:01
ブログ主様は、非常に学識のあるかただと、拝察します。
ただし、おっしゃってる趣旨が、もうひとつ、よく会得できません。
本居宣長のことですが、たしかに保守的な学者ですが、決して、『国粋主義者』というほどじゃないでしょう。
基本的には、実証主義、帰納法にもとづく研究者だったとおもいます。
『物のあはれ』が、『受苦の共同態』を幻出していると、おっしゃってますが、意味が理解し難いです。
『物のあはれ』というのは、繊細な日本的情緒をのべたものであり、政治的な自己犠牲をもとめたものではありますまい。
失礼かも知れませんが、もう少し常識人に理解できるような事をおっしゃっていただきたいです。
棚上げしまくっています (funkytrain)
2017-04-18 22:27:17
こんにちは。

「「物のあはれ」が文学の自律的価値の問題という枠組みを超えて、共同体的倫理の原理と化すとき、私たちは、「美しい日本」の中の受苦の共同態という虚構の裡に幽閉され、そのことに気づくことさえできなくなってしまう。」

物のあはれ、がはたして「文学の自律的価値の問題」であるのかどうかが、そもそも疑わしい。というか「文学の自律的価値」というものがそもそも存在する領域がどこかにあるのでしょうか。「文学の自律的価値」なるものは幻想ではないのか。それは抽象にすぎないのではないか、という疑問がまずわきあがる。

しかしそれは本筋とは関係ないのでさて措いて、「物のあはれ」が共同体倫理の原理と化す、ということは具体的になにを謂っているのでしょうか。

「「物のあはれ」の名の下に、私たちを拘束する社会的規範とそれに従おうとしない心情とが〈歌〉によって「止揚」されてしまう」


「共同体倫理の原理」なるものが「物のあはれ」に収斂されうるとは思えないわけです。「現代の倫理学的根本問題」と言われているものは、心情に訴えかける感傷的な歌でもって現実社会への矛盾を自分のなかで解消してしまうこと、を意味しているのでしょうか。

社会規範とそれに抗う心情が歌によって止揚されるということが、仮にあるとしても、(よくありますね)それは一時的なことがらに過ぎず、人はまたぞろ「社会規範とそれに抗う心情」という分裂の日常に舞いもどるのではないでしょうか。「一瞬の共同態」はまさに一瞬のものでしかない。それゆえに「棚上げ」なのでしょう。ただ、それは刹那的な高揚にしか貢献しないはずです。それとも大衆は自分たちが棚上げにしたものを「棚上げ」だとは気づかぬほどに愚かなのでしょうか。そうは思えない。むしろ、あまりにも多くの事を棚上げにしてしまっている自覚さえあるのではないか。そして、その自覚までもを棚上げにするほかない現状と折り合いがつかぬままに、どうすればいいのかと自問自答しながら生きているものではないでしょうか。知的特権階級にある者が考える「大衆」がはたして現実の大衆と重なり合いうるのか、重なるとしてどの程度重なっているのか、非常に疑問を持っております。

「私たちは、「美しい日本」の中の受苦の共同態という虚構の裡に幽閉され、そのことに気づくことさえできなくなってしまう」

という物語そのものがすでに虚構なのではないかという疑問を抱いてしまいます。なぜなら現実の歴史はやはりこうした物語で語り得るほどシンプルではなくて、錯綜したもの、もっと言えばデタラメなものだと思うからです。だとして、ではどのような言説が有効なのかと考えれば、それがわからないので困ったものであります。その結果、すべてを「棚上げ」にして泉鏡花の小説に逃避したりする自分がおります。だめですね。

いろいろ言いましたが、ここ数日のロマン主義的言語観うんぬんの文脈の流れから、おっしゃることの筋道を辿ってもいますので、さらなる論の展開を希望しております。

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