内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

朝から繰り返される驟雨を眺めながら、技術が技術そのものとして現れるスポーツの世界について考える ― 夏休み日記(9)

2017-07-25 18:56:07 | 哲学

 今日は、昨日にもまして涼しい一日で、日中の最高気温は二十度以下でした。
 雨は昨日ほどの降りではなく、時に晴れ間も見えましたが、外が少し明るくなったことに気づき、本から目を上げて窓外の空に目をやると、たちまちかき曇り、窓前の樹々がざわざわと風に揺れ始め、さっと驟雨が襲ってきました。そんなことが日に何度か繰り返されました。
 この涼しさのおかげで講義の準備がよく捗ったのは嬉しいのですが、こんな快適さに慣れてしまうと、今週末からの東京滞在中の暑さに耐えられるかと、少し心配になってしまいます。
 今回の集中講義で取り上げる哲学者の一人は、写真・映画とスポーツについて哲学的に考察した日本で最初の哲学者である中井正一(1900-1952)です。岩波文庫版『中井正一評論集』(1995年)に収録されている「スポーツ気分の構造」(1933年)の中で、中井は、遊戯としてのスポーツを技術が目的生産性から遊離した技術そのものとして現れる一つの世界として捉えていて大変興味深く思いました。
 シモンドンを援用することで、中井の考察を技術論として発展させることができると同時に、逆にシモンドンの技術の哲学をそこには見られない視角から照らし出すことにもなります。
 シモンドン、三木清、中井正一それぞれの哲学が他の二者に対して触媒として働くことで、私の脳内の思考の網状化がより密になっていくのを、今また降り始めた驟雨の音を聞きながら、悦びとともに感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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