内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

簡潔な言表において不可分な統一体をなす知と意志

2017-07-12 11:16:35 | 哲学

 フーコーは、古代ギリシャ都市国家におけるソクラテス・プラトン的自己への配慮とは異なる自己への関係の新しい形がローマ帝政期に現われたことを示した。この新しい主体性の形は、聴解・書記・都市から離れた田園への退去などの実践と、災厄の予見・節制・表象の絶えざる吟味・死の瞑想などの一連の修練とを通じて形成されていく。このような様々な実践と修練の目的は、単に真理を獲得するだけではなく、それを体得することにある。そうすることではじめて真理は己の行動の恒常的な基礎と指針とになりうる。
 これらの実践と修練とからなる自己への配慮の中で、自己知は副次的な位置を占めるに過ぎない。自己知の役割は、私たちが真なる諸言説を獲得し、それを己の内に統合化し、それらによって己を変容させるプロセスをコントロールすることである。コントロールするとは、そのプロセスを意識化し、計測し、それと同時に、そのプロセスを強化し、促進させることだとフーコーは言う。
 第四講演の中で、フーコーはそれに付け加えて、「そこでの問題は、現実の自己を真なる言説の中に立ち現れさせることではなく、真理の恒常的にコントロールされた習得によって真なる言説が自己を変容させるようにすることだ」という(フーコー前掲書、124頁)。
 このような自己知を、フーコーは、1980年のカリフォルニア大学バークレー校とダートマス大学で行った講演の中では、「グノミック gnomique」と呼んでいる。その意味は、「格言・箴言・宣告のように簡潔な形式で言表される」ということである。しかし、この形容詞の基になっている「グノメー gnômê」について、フーコーは、ダートマス大学での講演で次のようにさらに厳密な規定を与えている。

Le terme gnômê désigne l’unité de la volonté et de la connaissance ; il désigne aussi une courte phrase par laquelle la vérité apparaît dans toute sa force et s’incruste dans l’âme des gens. Donc, nous pouvons dire que, même aussi tardivement qu’au premier siècle après Jésus-Christ, le type de sujet qui est proposé comme modèle et comme objectif dans la philosophie grecque ou hellénistique ou romaine est un soi gnomique, où la force de la vérité ne fait qu’un avec la forme de la volonté.

L’origine de l’herméneutique de soi, Vrin, coll. « Philosophie du présent », 2013, p. 50.

グノメーという語が示しているのは意志と知の統一です。この語はまた、真理がそのまったき力の中に現われ、人々の魂の中に象嵌されるような短い文を指します。それゆえ、紀元後一世紀という後期になっても、古代ギリシャ・ヘレニズム・ローマ時代の哲学においてモデル・目標として提示された主体のタイプとは、グノミックな自己であり、その自己においては、真理の力と意志の形とは一体をなしているのです。











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