内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

道徳的行為とは自由な行為である ― ジルベール・シモンドンを読む(142)

2016-10-31 01:17:40 | 哲学

 個体化された存在としての主体の行為とはどのようものか。この問いに対するシモンドンの答えを見ていこう。

L’acte n’est ni matière ni forme, il est devenir en train de devenir, il est l’être dans la mesure où cet être est, en devenant. La relation entre les actes ne passe pas par le niveau abstrait des normes, mais elle va d’un acte aux autres comme on va du jeune-vert au vert et au jaune, par augmentation de la largeur de la bande de fréquence (p. 334).

行為は、質料でも形相でもなく、生成しつつある生成であり、それが存在であるのは、この存在が、生成しつつ、在るかぎりにおいて、である。諸行為間の関係は、規範の抽象的なレベルを通じてではなく、一つの行為から他の諸行為へと、ちょうど黄緑が緑と黄へと周波数帯の幅を増大させることによって広がっていくように、拡張されていく。

 一つの行為が行為として意味を有するのは、それが生成しつつある行為的連関の中で実行されるかぎりにおいてだというところまでは、それ自体は特異な考え方ではなく、むしろ私たちの常識にも一致している。

L’acte moral est celui qui peut s’étaler, se déphaser en actes latéraux, se raccorder à d’autres actes en s’étalant à partir de son centre actif unique (ibid.).

道徳的行為は、拡張されうる行為であり、側面的な複数の行為へと自己を多相化することができ、おのれの唯一の活動的中心から自己拡張することによって、他の複数の行為と接続されうる。

 唯一の活動的中心とは何なのであろうか。それは無数に存在する個体化された個体存在としての行為主体のことであろうか。そこから行為的連関が増幅されていくというのは、一つの中心から波紋が広がるようにしてなのか。しかし、そうであるとすれば、行為主体は必ず複数存在するのであるから、ある主体の行為の波紋と別の主体の行為の波紋とが、ちょうど波の干渉のように、重なり合って強め合ったり弱め合ったりするということも生じるだろう。行為的連関は、むしろ何重にも重なり合った多数の波が引き起こす複雑な干渉からなっていると見るべきではないだろうか。
 これらの疑問を抱えつつ、シモンドンがマルブランシュを援用しているところ読んでみよう。

Reprenant la formule de Malebranche relative à la liberté, et selon laquelle l’homme est dit avoir du mouvement pour aller toujours plus loin, on pourrait affirmer que l’acte libre, ou acte moral, est celui qui a assez de réalité pour aller au-delà de lui-même et rencontrer les autres actes (ibid.).

自由とは、つねにより遠くに行くことができることだ、という前提から、自由な行為 — シモンドンによれば、それが取りも直さず道徳的行為なのだが — とは、自分自身を超えて行き、他の諸行為に出会うのに十分な現実性を有している行為のことだと定義される。

Il n’y a qu’un centre de l’acte, il n’y a pas de limites de l’acte. Chaque acte est centré mais infini ; la valeur d’un acte est sa largeur, sa capacité d’étalement transductif (ibid.).

行為の中心は一つしかなく、行為には限界がない。各々の行為は、中心を持っているが、無限である。一つの行為の価値とは、その幅であり、転導的に拡張する能力である。

 ここを読むと、一個の個体化された主体としての個体が行為の中心なのではないことがわかる。行為の主体ではなく、行為そのものが一つの中心なのだ。というよりも、転導的拡張能力つまり一定の原理の適用範囲を自ら拡張する能力を有していてはじめて、行為は行為たりうるのであり、その拡張能力の程度がそのままその行為の価値に対応していると言うことができる。
 ここまで読んだところで、シモンドンの道徳的行為論について暫定的にまとめておこう。
 道徳的行為は、それが実行される集団・共同体・社会内に既存の規範に従うだけの自己限定的な行為のことではない。道徳的行為は、端的に自由な行為である。己自身を中心として、そこから転導的に自己拡張することによって、他の諸行為と連関を形成することができる行為である。かくして形成された行為的連関は、その中心が行為主体にではなく行為そのものにあり、その中心からの行為の自己形成・自己拡張として生まれて来る。行為的連関を現実に律している規範は、その連関の自己形成過程を通じて自ずと表現される。










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