内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

完璧な行為は狂気の沙汰である ― ジルベール・シモンドンを読む(150)

2016-11-08 00:52:38 | 哲学

 それだけで完璧であろうとし、それを繰り返すことに執着する行為は、己自身によって生成を支配しようとし、他の諸行為に自らを連接しようとしない。非道徳的行為も反道徳的行為も、それ自身の限界の中で完璧であろうとし、結果、ただ繰り返し再開されるだけで、他へとは繋がっていかない。そのような行為はそれだけで他の諸行為に対してエゴイストな行為である。己自身にばかり執着し、他の諸行為との連環を自ら切断する。他の諸行為がその行為に入り込んで来ることもなく、その行為が他の諸行為へと入り込むこともなく、ただそれらを支配しようとする。このように専ら他を支配しようとするだけで行為連関のうちに己を書き込もうとしない行為、それは、実のところ、もはや行為ではない。
 それに対して、道徳的行為は、行為として己を位置づけ、限界づける内的組織を内蔵している。そのような行為は、部分的に抑制的な制御を実行しつつ展開される。この抑制的制御がその行為を行為的連関の中に差し入れる。
 この連関性を持たず、他の諸行為から何も受け取ろうとしない自存性(aséité)に固執する行為は、「狂気の沙汰」(« acte fou »)である。ところが、このような行為は、ある点において、「完璧な行為」(« acte parfait »)と同じである。











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