内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

神なき時代のマツリとしてのシンポジウム

2017-11-05 23:59:59 | 雑感

 上田正昭『私の古代史(上) 天皇とは何ものか―縄文から倭の五王まで』(新潮選書、2012年)第三章「マツリの展開」の中に次のような一節がある。

ヤマト言葉では日常生活をケ(褻)とよんでいるが、「ケガレ」の本来の意味については、日常の生命力が枯渇する「褻枯れ」とする説が有力である。したがって神を迎え、神威とふれあって生命力を振るいおこすために、「マツリ」をするわけでもある。

 この一節を読んで、ふと、シンポジウムというものもこの「マツリ」の一種なのかもしれないと思った。

神迎えの前には「イミ」の期間が必要とされる。「イミ」には積極的に身を清める「斎」もあれば、消極的に身を守る「忌」もある。禊の原義は「身滌ぎ」とされているが、禊や悪を払う祓には潔斎の意味もある。「イミ」が終わって神を迎える。日常のケ(褻)から非日常のハレ(晴)に入る。「マツリ」の本番が始まる。

 「マツリ」としてのシンポジウムという類比に乗っかれば、シンポジウムにとっての「イミ」とは、発表原稿を準備する期間ということになる。

そして「鎮魂」をする。今では「鎮魂」といえば文字どおり魂を鎮めることとされているが、古くは「鎮魂」を「ミタマフリ」と訓んでいた。神をまつり、神威とふれあって、衰微したタマシヒを振るい起たすことが「鎮魂」のもとの姿であった(視力の衰えをメシヒというように、タマの衰えがタマシヒである)。

 ここで言及されている「メシヒ」の「シヒ」は、「感覚・機能などが失われて働かなくなる、感覚がまひする」ことを意味する動詞「癈ふ(しふ)」の連用形か名詞化したものである。タマシヒとは、衰弱状態にある魂(タマ)だということである。したがって、もし日常(ケ)においてタマはつねにタマシヒへと頽落する傾向にあるとすれば、マツリという非日常(ハレ)は、魂の健康にとって必要不可欠だということになる。

「マツリ」の本番が済むと、非日常のハレから日常のケにもどる。神送りを済ませて「直会」になる。神に供えた御酒などを飲んで、ハレからケに直りあうのである。そして酒盛りすなわち「饗宴」になる。

 プラトンの『饗宴』(シュンポシオン)に見られる原義はさておき、今日のいわゆる学術的シンポジウムとは、神なき時代のマツリの一つなのかもしれない。