二〇一六年十月二日 NO・四三―二七 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)箴 言 六章(月) 〃 七章
司会 高 澤兄(火) 〃 八章(水) 〃 九章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 十章(金) 〃 十一章
招詞祈祷 イザヤ四六章九~十三節 (土) 〃 十二章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌二三番 ◎六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文 詩編百十九編サメク・ アイン ◎天路二四号ができました。
讃 美 讃美歌二六八番
献 金 感謝の祈り 豊口姉 すなわち、至るところでわたしたちの
讃 美 聖 歌五二一番 主イエス・キリストの名を呼び求めている
説 教 Ⅰコリント一章一~三節 すべての人と共に、キリスト・イエスによって
聖 餐 式 聖なる者とされた人々、
讃美祈祷 聖 歌五五三番 坂本兄 召されて聖なる者とされた人々へ。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰコリント一章二節
召命にあずかる
パウロがまず強調していることは「召命」である。パウロは自ら進んでキリスト者になったのではないし、まして「使徒」になったのではない。どこまでも神が彼を召されたのである。それはコリントの信徒にも当てはまる。二節でコリントの信徒は「召されて聖なる者とされた人々へ」と言われている。このようにキリスト者がキリスト者であるのは、神の側からの召し(招き)によって成立したのである。だからそこには自己を誇ることは起こらず、「神の恵み」と言わざるを得ない。
コリント教会が多くの問題を抱えていたことは、以下で明らかになるが、パウロは「神の教会」と呼ぶ。どんなに問題のある教会であっても、教会は神によってできた「神の教会」なのである。たとえ私たちの教会がどんなに見栄えがせず、問題を抱えているとしても「神の教会」であることを自覚すべきである。それは人間の手による他のどんな集まりとも区別される。
さらにパウロは、問題児のようなコリントの信徒を「聖なる者」と呼ぶ。これは皮肉でもお世辞でもない。なぜなら「キリスト・イエスにあって聖別された」からである。キリスト者とは、主イエスの犠牲による贖いによって神のものへと取り分けら「神の所有」となったので「聖なる者」なのである。私たち自身は、どこまでもいつまでも欠けの多い存在であるけれども、キリストが聖別して下さったがゆえに「神のもの」また「神の子たち」とされている。この立場(身分)は何があっても変わらない。それゆえ聖化は、私たちの側の品性の完全さではなく、どこまでもキリストにある神の賜物である。もちろんそれによって私たちの生活は強く規定されるのである。
二節にもう一つ「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」の文章がある。ここで語られていることは、コリント教会だけに限定されず、地域と時代を超えて、すべてのキリストの教会に当てはまる事柄である。そりゆえこれからこの手紙を現代の私たちに語られている言葉として読み、聞くことが出来るのである。
礼 拝 次 第 (日)箴 言 六章(月) 〃 七章
司会 高 澤兄(火) 〃 八章(水) 〃 九章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 十章(金) 〃 十一章
招詞祈祷 イザヤ四六章九~十三節 (土) 〃 十二章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌二三番 ◎六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文 詩編百十九編サメク・ アイン ◎天路二四号ができました。
讃 美 讃美歌二六八番
献 金 感謝の祈り 豊口姉 すなわち、至るところでわたしたちの
讃 美 聖 歌五二一番 主イエス・キリストの名を呼び求めている
説 教 Ⅰコリント一章一~三節 すべての人と共に、キリスト・イエスによって
聖 餐 式 聖なる者とされた人々、
讃美祈祷 聖 歌五五三番 坂本兄 召されて聖なる者とされた人々へ。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰコリント一章二節
召命にあずかる
パウロがまず強調していることは「召命」である。パウロは自ら進んでキリスト者になったのではないし、まして「使徒」になったのではない。どこまでも神が彼を召されたのである。それはコリントの信徒にも当てはまる。二節でコリントの信徒は「召されて聖なる者とされた人々へ」と言われている。このようにキリスト者がキリスト者であるのは、神の側からの召し(招き)によって成立したのである。だからそこには自己を誇ることは起こらず、「神の恵み」と言わざるを得ない。
コリント教会が多くの問題を抱えていたことは、以下で明らかになるが、パウロは「神の教会」と呼ぶ。どんなに問題のある教会であっても、教会は神によってできた「神の教会」なのである。たとえ私たちの教会がどんなに見栄えがせず、問題を抱えているとしても「神の教会」であることを自覚すべきである。それは人間の手による他のどんな集まりとも区別される。
さらにパウロは、問題児のようなコリントの信徒を「聖なる者」と呼ぶ。これは皮肉でもお世辞でもない。なぜなら「キリスト・イエスにあって聖別された」からである。キリスト者とは、主イエスの犠牲による贖いによって神のものへと取り分けら「神の所有」となったので「聖なる者」なのである。私たち自身は、どこまでもいつまでも欠けの多い存在であるけれども、キリストが聖別して下さったがゆえに「神のもの」また「神の子たち」とされている。この立場(身分)は何があっても変わらない。それゆえ聖化は、私たちの側の品性の完全さではなく、どこまでもキリストにある神の賜物である。もちろんそれによって私たちの生活は強く規定されるのである。
二節にもう一つ「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」の文章がある。ここで語られていることは、コリント教会だけに限定されず、地域と時代を超えて、すべてのキリストの教会に当てはまる事柄である。そりゆえこれからこの手紙を現代の私たちに語られている言葉として読み、聞くことが出来るのである。