稲毛聖書教会

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週報

2017年02月12日 | 週報
 二〇一七年二月十二日  NO・四三―四六      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第             (日)エレミヤ   二二章(月)  〃   二三章
            司会 みつ子師(火)  〃   二四章(水)  〃  二五章 
              奏楽 慰 子姉(木)  〃   二六章(金)  〃   二七章 
招詞祈祷  イザヤ四十章九~十一節   (土)  〃    二八章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌七五番         ◎九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎次週は「祈りこころ」の読書会です。
交 読 文  詩編百三五編        
讃  美  讃美歌二九一番          
献  金  感謝の祈り      堅田姉   あなたがたの体は、神からいただいた
讃  美  聖 歌四三七番         聖霊が宿っている神殿であり、
説  教  Ⅰコリント六章十二~二十節  あなたがたはもはや 
讃  美  聖 歌四九一番         自分自身のものではないのです。
祈  祷             高澤兄    だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番              Ⅰコリント六章十九・二十節
   
   キリストの自由のあり方
 「わたしには、すべてのことが許されている。」という言葉は、十章二三節にも出てくるが、これはコリントの信徒の合言葉であったようだ。それは、パウロが伝えたキリストの福音の帰結に通じる。つまりキリストによる「罪の赦しと律法からの解放」(コロサイ二章十三~十五節)によって、キリスト者は「自由」(ガラテヤ五章一節)が与えられた、とパウロ自身が語っているからである。それゆえおそらくパウロ自身もこのような言葉を伝えたと推測できる。この合言葉は、後々まで古代教会に息づき、グノーシス主義の異端の合言葉となるのである。しかしパウロはこの事実を認めつつも「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と誤用を戒める。そして十章二四節で「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」と言う。キリストの十字架の犠牲は、まさに人のためであった。それによって私たちは罪と死と律法の支配から救い出されて自由にされたのである。しかし罪と死と律法からの自由は、どこまでもキリストの肢体として、キリストに繋がっていることによって私たちのものなのである。キリストの愛は、どこまでも他者の益を目指すのに、キリストの体の一部分である私たちが、欲の赴くままに放縦に身を任せることは、キリストに繋がる肢体としてありえないことだ、というのがここでのパウロの主張である。むしろ「体は主のため」(十三節)に働くのである。

 キリスト者の自由は、私たちが個人で持ちうるものではなく、どこまでも「キリストにあって(結ばれて)」つまりキリストの体の一部であることによって、私たちに与えられている。「教会はキリストの体である」と言われるが、それゆえ「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿っている神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではない」と言われる(十九節)。キリストの肢体であるキリスト者(教会)は、キリストの御心を行う器官である。パウロはコリントの信徒が自由を履き違えて、勝手気ままに行動できるという過ちを正し、キリストの体にふさわしい振る舞いを行うようにと促す「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と。これこそキリスト者の自由の要である。
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