二〇一六年六月二六日 NO・四三―十三 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)詩 編 五八編(月) 〃 五九編
司会 みつ子師(火) 〃 六十編(水) 〃 六一編
奏楽 慰 子姉(木) 〃 六二編(金) 〃 六三編
招詞祈祷 イザヤ四十章一~二節 (土) 〃 六四編
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌八七B番 ◎三十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎アジア祈祷日献金は四万四千円ありました。六千円
交 読 文 詩 編百十二編 上乗せして熊本教会に五万円献金しました。
讃 美 讃美歌二三四A番 ◎三日、井戸から水道にかわりました。
献 金 感謝の祈り 高澤姉
讃 美 聖 歌六〇七番 罪の何のかかわりもない方を、
説 教 Ⅱコリント五章十八~二一節 神はわたしたちのために罪となさいました。
讃 美 聖 歌四三七番 わたしたちはその方によって
祈 祷 高澤兄 神の義を得ることができたのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅱコリント五章二一節
神との和解
十八~二十節に「和解・和解させる」という語が五回も出てくる。ここでパウロは、キリストによる救いの内容を「和解」という言葉で示している。人間同士の係争では、「和解」は当事者間の了承でなされるが、神と人間の和解は、どこまでも神の側から一方的に与えられるものである。つまり「和解する」のではなく、「和解させられる」のである。神が「和解を与え」、人が「和解を受ける」のである。
神と人間の係争は何か。神は人間の罪を問われる―神の正義に反する行為を―。そして罪が、神と人間の間を裂いている。この係争を解決するために、神は一方的に主体的に行動を起こされた。つまり「罪と何のかかわりもない方(キリスト)を、神はわたしたちのために罪となさいました」(二一節)と。十四・十五節では、主イエスの死と復活は、私たちの代理・代表である、と言われた。それは私たち自身もそこに死に、また復活するということ、キリストに合されることである。しかしここでは「交換」(転嫁)が言われている。キリストが私たちのために、罪とされたがゆえに、私たちから罪が取り除かれ、代わりに私たちが「神の義を得」た、と。
十九節の「神はキリストによって世を御自分と和解させ」とあるが、ここの「世」という言葉を軽視してはならない。ヨハネ三章十六節でも「神は…世を愛された」とあるが、この「世」とは、すべての人を指している。K・バルトは、キリストの十字架において「この世の無神・罪・敵対は、…客観的に排除され…もはや取り消されることはあり得ない。事実は、今その通りであって、その事実を知っている者が多かろうと少なかろうと、この世がそれに対してどのような態度を取ろうと、そのままであろう。この世は神のものなのである。」と言う。それほどキリストの十字架の御業は、完全でありすべてに及ぶのである。パウロはローマ八章三一節で「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と言っている。神との「和解」とは、そのことである。主イエスはインマヌエルなるお方であるので、もはや私たちは、罪と死、さらにあらゆる苦難を恐れることから救い出されている。
礼 拝 次 第 (日)詩 編 五八編(月) 〃 五九編
司会 みつ子師(火) 〃 六十編(水) 〃 六一編
奏楽 慰 子姉(木) 〃 六二編(金) 〃 六三編
招詞祈祷 イザヤ四十章一~二節 (土) 〃 六四編
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌八七B番 ◎三十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎アジア祈祷日献金は四万四千円ありました。六千円
交 読 文 詩 編百十二編 上乗せして熊本教会に五万円献金しました。
讃 美 讃美歌二三四A番 ◎三日、井戸から水道にかわりました。
献 金 感謝の祈り 高澤姉
讃 美 聖 歌六〇七番 罪の何のかかわりもない方を、
説 教 Ⅱコリント五章十八~二一節 神はわたしたちのために罪となさいました。
讃 美 聖 歌四三七番 わたしたちはその方によって
祈 祷 高澤兄 神の義を得ることができたのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅱコリント五章二一節
神との和解
十八~二十節に「和解・和解させる」という語が五回も出てくる。ここでパウロは、キリストによる救いの内容を「和解」という言葉で示している。人間同士の係争では、「和解」は当事者間の了承でなされるが、神と人間の和解は、どこまでも神の側から一方的に与えられるものである。つまり「和解する」のではなく、「和解させられる」のである。神が「和解を与え」、人が「和解を受ける」のである。
神と人間の係争は何か。神は人間の罪を問われる―神の正義に反する行為を―。そして罪が、神と人間の間を裂いている。この係争を解決するために、神は一方的に主体的に行動を起こされた。つまり「罪と何のかかわりもない方(キリスト)を、神はわたしたちのために罪となさいました」(二一節)と。十四・十五節では、主イエスの死と復活は、私たちの代理・代表である、と言われた。それは私たち自身もそこに死に、また復活するということ、キリストに合されることである。しかしここでは「交換」(転嫁)が言われている。キリストが私たちのために、罪とされたがゆえに、私たちから罪が取り除かれ、代わりに私たちが「神の義を得」た、と。
十九節の「神はキリストによって世を御自分と和解させ」とあるが、ここの「世」という言葉を軽視してはならない。ヨハネ三章十六節でも「神は…世を愛された」とあるが、この「世」とは、すべての人を指している。K・バルトは、キリストの十字架において「この世の無神・罪・敵対は、…客観的に排除され…もはや取り消されることはあり得ない。事実は、今その通りであって、その事実を知っている者が多かろうと少なかろうと、この世がそれに対してどのような態度を取ろうと、そのままであろう。この世は神のものなのである。」と言う。それほどキリストの十字架の御業は、完全でありすべてに及ぶのである。パウロはローマ八章三一節で「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と言っている。神との「和解」とは、そのことである。主イエスはインマヌエルなるお方であるので、もはや私たちは、罪と死、さらにあらゆる苦難を恐れることから救い出されている。