二〇一七年三月五日 NO・四三―四九 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)エレミヤ 四三章(月) 〃 四四章
司会 高澤 兄(火) 〃 四五章(水) 〃 四六章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 四七章(金) 〃 四八章
招詞祈祷 詩編百二三編一~四節 (土) 〃 四九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌九〇番 ◎九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みにあずかりました。
交 読 文 詩編百三八編 予告
讃 美 讃美歌三一二番 ◎三月二六日(日)午後一時より教会総会。
献 金 感謝の祈り 豊口姉 このようにわたしが言うのは、
讃 美 聖 歌三九三番 あなたがたのためを思ってのことで、
説 教 Ⅰコリント七章二五~四十節 決してあなたがたを束縛するためではなく、
聖 餐 式 品位ある生活をさせて、
讃美祈祷 聖 歌五五四番 みつ子師 ひたすら主に仕えさせるためなのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰコリント七章三五節
キリスト第一のパウロ
今日の箇所は、注意深く読まないと誤解してしまいやすいのではないか。つまりここでパウロは、未婚の者が独身でいることを勧めてはいるが、決して独身者が既婚者よりもより優ると言っているのではない。あくまで「人は現状のままにとどまっているのがよいのです。」(二六節)と言う観点から言っているのであって、決して結婚を軽んじているわけではないことに留意すべきである。
そう主張する理由・根拠は、「今危機が迫っている状態にある」(二六節)からであり、「定められている時は迫っている」(二九節)という認識に基づいている。さらに付け加えるなら「この世の有様は過ぎ去るからである」(三一節)。二九節の言葉は、キリストの再臨を指しているが、二六節は、現在の危機を指していると思う。つまりパウロたちが置かれている現実―すなわち当時キリスト者として生活することは迫害の危険にさらされていたのである。それゆえ「結婚する人たちはその身に苦労を負うことになる」(二八節)―つまり配偶者や子供たちの身に危険が臨む事態になれば心を痛めざるを得ない。しかしひとりならば、自分が苦しむだけである。だからこのように勧めるのは、独身礼賛ではなく「わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくない」(二八節)という愛からでている。
さらにここでのパウロの勧めの根底にあるのは、すべてのキリスト者に「品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるため」である。パウロは「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(ローマ十四章七~八節)と言っているが、これがパウロの生きる意味・価値であった。この事を第一に考えた結果の勧めである。パウロは常に「どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣います」(三二節)という人であった。自分の幸福のために主を利用する人ではなかった。この態度が「キリスト教は御利益宗教にあらず」というゆえんである。
キリスト第一のパウロの姿に圧倒される。「主よ、(我を)憐れみたまえ(キリエ・エレイソン!)。」
礼 拝 次 第 (日)エレミヤ 四三章(月) 〃 四四章
司会 高澤 兄(火) 〃 四五章(水) 〃 四六章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 四七章(金) 〃 四八章
招詞祈祷 詩編百二三編一~四節 (土) 〃 四九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌九〇番 ◎九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みにあずかりました。
交 読 文 詩編百三八編 予告
讃 美 讃美歌三一二番 ◎三月二六日(日)午後一時より教会総会。
献 金 感謝の祈り 豊口姉 このようにわたしが言うのは、
讃 美 聖 歌三九三番 あなたがたのためを思ってのことで、
説 教 Ⅰコリント七章二五~四十節 決してあなたがたを束縛するためではなく、
聖 餐 式 品位ある生活をさせて、
讃美祈祷 聖 歌五五四番 みつ子師 ひたすら主に仕えさせるためなのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰコリント七章三五節
キリスト第一のパウロ
今日の箇所は、注意深く読まないと誤解してしまいやすいのではないか。つまりここでパウロは、未婚の者が独身でいることを勧めてはいるが、決して独身者が既婚者よりもより優ると言っているのではない。あくまで「人は現状のままにとどまっているのがよいのです。」(二六節)と言う観点から言っているのであって、決して結婚を軽んじているわけではないことに留意すべきである。
そう主張する理由・根拠は、「今危機が迫っている状態にある」(二六節)からであり、「定められている時は迫っている」(二九節)という認識に基づいている。さらに付け加えるなら「この世の有様は過ぎ去るからである」(三一節)。二九節の言葉は、キリストの再臨を指しているが、二六節は、現在の危機を指していると思う。つまりパウロたちが置かれている現実―すなわち当時キリスト者として生活することは迫害の危険にさらされていたのである。それゆえ「結婚する人たちはその身に苦労を負うことになる」(二八節)―つまり配偶者や子供たちの身に危険が臨む事態になれば心を痛めざるを得ない。しかしひとりならば、自分が苦しむだけである。だからこのように勧めるのは、独身礼賛ではなく「わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくない」(二八節)という愛からでている。
さらにここでのパウロの勧めの根底にあるのは、すべてのキリスト者に「品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるため」である。パウロは「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(ローマ十四章七~八節)と言っているが、これがパウロの生きる意味・価値であった。この事を第一に考えた結果の勧めである。パウロは常に「どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣います」(三二節)という人であった。自分の幸福のために主を利用する人ではなかった。この態度が「キリスト教は御利益宗教にあらず」というゆえんである。
キリスト第一のパウロの姿に圧倒される。「主よ、(我を)憐れみたまえ(キリエ・エレイソン!)。」