アンケートをとると、必ず「4人以上が1人をいじめる」が半数以上になるんです。いうならば、いじめの定番です。もちろん、3人が1人も、2人が1人も、1人が1人もないわけではありません。それなりにあるのです。しかし、4人以上が1人ほどではないのです。
いじめられるのは1人
それにしても、いじめられる対象が「1人」であることには違いがありません。いじめられるのは「1人」なのです。「4人以上が2人以上」も数としてはまったく比べものになりません。
きたねえじゃねえか
授業でこの事実を確認した直後に生徒さんに、こう、尋ねます。
「ずいぶんときたねえとは思いませんか?」
すると、多くの生徒が「きたない」と答えます。そして、僕はこう続けて尋ねることにしているのです。
「じゃあ、いじめの現場であなたそれを言えますか?」
こんな、カマトトみたいな質問を僕はしてみるのです。みんないいますよ。「できません」と。で、つづけてこう問うのです。
なぜ、一人くらい「きたねえじゃねえか、テメエら」といえないのでしょうか?
「そりゃあ、やられるから・・・」
「やられるかもしれない、しかし、それでも『きたねえじゃねえか』と言える人がなぜいないのだろうか?なぜ、やられてでも『きたねえじゃねえか』と言う人間がいないのでしょうか」
「そりゃあ、怖いから」
「しかしね、力が弱くても、いえ、仮に、こちらが勝てないとしても、それでも自由のために闘ったという美談は、世界にいくらでもあります。なぜ、いじめの世界に、「怖い」くらいのことで、その美談が成立しないのでしょうか?」
もちろん、このいじめられる対象となる「1人」のいじめられっ子で「きたねえじゃねえか」 といえる人はいないだろうと思います。くどいようですが、では、なぜ、言えないのでしょうか?
「じゃあ、先生、言ってみたらどうです?」
これに対して、木村はこう答えています。
「僕も言えません」
沈黙させられる正義
さて、そこで、問をこうしてみましょう。教室という世界には、この
「きたねえじゃねえか、寄ってたかって、ひとりを大勢でいじめやがって」
という言説を消す主体がいることだけはまちがいがありません。それは、何ものなのだろうか。それは、特定できるのだろうか?そして、この言説を打ち消される人間は、まちがいなく、この言説を発することさえ禁じられているのです。なぜ、いえないのだろうか。その構造と意味を考えなければいけません。
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この言葉を言えない理由を挙げます。
1.今度は、自分が標的にされる恐れあり
2.単にかかわりを持ちたくない(関係ない)
3.自分に勇気がない
4.どうしても言えない空気(雰囲気)が存在して、身動きが取 れない。
について考えるのは、今後いじめという現場を客観的に見ていくとき、あるいは直接自分がいじめの当事者になったとき、どう自分の心がいじめの背後に在るこうした傾向を理解していけるのか、という「理解する」考え方に切り替えていくことが可能になるような気がします。
つまり、自分に当てられることを誰もがいちばん恐れているのであって、まるで大勢でハンカチ落しをしているような「まさか自分じゃないよな」みたいな確率的にはかなり低いけど、でもびくびく感、ひやひや感、といった感じはどうしてもある。
そういうゲームのような心理状態がとても圧迫するんですよね。
と。
大きな目で見れば美談になるかもしれない「きたねえじゃねえか、テメエら」の台詞もそのイジメの輪の中に居る人たち(もちろんイジメを見ているだけでなにもしない傍観者含む)の輪の中では「なにカッコつけてるんだろう?」「どうせこんなことしたって自分が標的になるだけなのに」とバカにする(間接的イジメの的になってしまう)かもしれません。
友達1人がイジメのターゲットになるのを傍観する
自分がターゲットになって友達にも敬遠されてしまう
カードの切り方が人生だ、どーするよ俺!!
僕は高校生の授業でこういっています。ここにいるのが、全員パンパースをはめている3歳児で、そいつらがいじめをしてたとしたら、君たちは止めないか?と。
他人がいじめられている、それがだれであれ、自分とは関係ねえとか、助けたいと思う相手ではない、と自らがその悲劇から目を背けることの正当化をみずからに強いる、その構造と理由こそが問題なのだ。と。
昔その昔のそのまた昔、この国にもこういう階層がいたのだ。死ぬことよりも大事なことがある。それは名誉だ、と。そういう生き方があるかもしれないのです。それに対して、大したことではない、とか自分には関係ねえとか、見て見ぬふりとかという人間が存在するのだ。と。なぜ、そのような人間が存在するのか。それを考えたいのです。その向こうに人権という思想がこの国に根付いていくかもしれない、かすかな可能性が見えるのかもしれないのです。私の名前のところをクリックすると関連した文章に至ります。