高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

リストラ考

2009-08-11 08:45:59 | 学校の呪術

「あなたの代わりに若い人2人雇える」

 先日、古い新聞の切り抜きの整理をしていたら、リストラについての記事があった。不当だというのである。突然リストラにあったのだ、と。そのときの人事課の言いぐさはこうだというのだ。

「貴方にやめていただければ、若い人を2人雇える」

 この文章につきあたったとき、私は深く頷く声を自分のなかに聞いたのである。というのも、自分を棚にあげていわせてもらえば、この言葉をかけてやりたい教員は、・・・いやそうでない教員を探すのが大変だ、というのが私の偽らざる実感だ。40才から上の教員は概ねこの声をかけられて、「失礼しました」以外の言葉を返せないだろう。もらっている給料と今の労働需給を併せ考えたとき、私にはどう考えても

「ヤバイ」

としかいいようがない。その自覚もない、教員の傲慢を毎日見続けるよりないのが現実だ。
 定時制勤務のとき、平仮名がやっと読めるという生徒に赤点がつかない。国語の教員がどうしてつかないかを説明した。授業中やった提出物を全部出せば、赤点はつかない、というのである。早い話しが、

写せばいい

のである。この教員の労働は、多分、デキのいい中学生にはできる!大学生ならおつりが来る。この教員が一体いくら金を貰っているか。おそらく半分以上はムダ金だとカウントされる。
 私が常々にがにがしく思っていることがある。それは、教員2年目ぐらいの人間があたかも十年選手のような面をして授業をしている姿を見るときである。いや、この稼業はできてしまうのである。部活動もやり、クラス担任ももち、生徒会の顧問ももち、平然と2年目の教員が授業をやれているのである。彼らは、しかし、あることに実は気付いていない。

クーポン券制

 私は会う人会う人に、学校は民営化するよ、と言っている。大体財政がもたない。竹中平蔵が義務教育の民営化ということについてふれていた。彼が言っていたのはクーポン券制というシステムである。要するに、義務教育の無償というコンセプトを維持したまま、民営化するのである。バウチャ-というク-ポン券を保護者は手にする(もちろん、学区なんぞないことは自明の前提)。親は複数の学校を選択肢として持ち、選べる。良いと思った学校にバウチャ-を提出する。学校はそのバウチャ-をもとに自治体から資金を獲得する。そうしたらどうなるか、今の公立学校の英語の先生と塾の先生をくらべてみればいい。よけりゃあ塾へバウチャ-を払う。

激安店の論理

 私たちはディスカウントストアというコンセプトを持っている。家電のコジマが静岡へと進出するということで地元は色めきたっていた。しかし、大店舗法失効後の流通業界においては、コジマだってわかったものではないのだ。大手のス-パ-とて一寸先はわからないと言われているのだ。
 私たちはコジマが地元に進出し、地元の商店街が衰退していくと聞いてある哀愁の念を生理的に懐く。しかし、一方で私たちは激安店に足繁く通うのである。

「あなたは安いの嫌いですか?」

なのだ。ここで考えてみよう。なぜ、激安店は安いのか?
 なぜ安いのか?
 話しは簡単なのである。

 若い人なら2人雇える仕事に今まで年寄りを雇い高い金を払っていた

 ということなのである。そこで、年寄りを切り落とし、さらに若い人間を一人にしただけのことなのである。

学校の両極分解

 民営化は両極分解を生む。
 学校の激安店が一方で登場する。それは簡単である。

 「若い

 ということで売るのである。それは現在、基本的な状況として存在して――きわめて遺憾なことながら!――学校において用意されている。今、学校は生徒に直結する業務をかなり20代の教員になすりつけ、若年の講師で授業も相当数まわしている。しかも、それで成り立っている。年をとった人間が本来熟練を要するという仕事から逃避し、それで成立しているのだ。
 さらに、進学校と非進学校=職業高校とでみてみよう。進学校へ進むことを前提として考え、大学へと進むことも当然と考える保護者は経済的に余裕がある層が多い。実際、高額の家庭教師や塾へと子供を通わせる。つまり、カネをかけてもいいと考えている。良いものには投資をしていい、いいものがほしいと考える。それに比較すれば、一般的には経済的に非進学校志望者の父兄は経済的に弱い層が多い。
 一方は、安いものを指向する。最低限を破格な値段で提供してくれるものを志向する。非熟練労働=肉体労働的な教育労働を求める。それは、

一生懸命、丁寧に、プラクティスを反復してくれる

というようなものである。当然、それは「若い」という基準へと落ち着いてゆく性質のものだ。

「ぴちぴちしたやさしい、おねえさんとお兄さんと老人臭ただよう威張るのが特技のおじいさん、おばあさんとではどっちがいい?」

なのだ。
 それに対して他方は、品質としていいものを指向する。カネは惜しまない。目的に沿ういいものをということになる。それは「若い」という条件かもしれないが、それだけでは包摂しきれない性質のものである。それは、文字通り市場での成功を保障してくれるものである。いや、保障してくれるという確証を与えるものである。現在これは予備校の講師がやや変質した形だが実現している。

二つの姿勢

 ふたたびリストラの場面に戻ろう。
「あなたは要りません。あなたのかわりに二人若い人が雇えるから」こういわれたのであった。あなたならこのとき何というか。
 たいていの人はこう言うしかない。
「なんでもやります。置いてください」
あるいは、やけになって
「殺しやがれ」
と尻っぱしょりでもするか。つまり「やめません」とあらゆる方法で戦う。しかし、これは退職の条件を限り無く悪くし、結局いじめたおされてしまうことになる。
 さて、こうして考えてゆくとき、絶対にあり得ないのが

そうですか、それなら、次の場所で自分を売るまでです

という言葉である。
 以前プロ野球で「野村再生工場」という言葉がはやった。プロ野球の選手はまがりなりにも「再生」できる。この「再生」という現象はとても興味深い。野村監督は、少なくとも彼の好きなデータをもって一人の選手を再生目的で獲得する。その際に、当然だが、本人の主体的なガンバリズムだけにもとづいて選手を獲得しようとするのではない。外的なデータというものをもとに彼は判断する。それはともかくも選手本人が外的な判断材料をもっているということだ。教員にはこういうものは一切ない。それはひとつには市場がないということであり、もうひとつはぽっと出の学士さんでも務まる程度の未熟練労働なのだということである。とりわけ、非進学校ではこの傾向ははなはだしい。
 私たちはもう少しリストラという現象をまじめに考えるべきである。若いころは「なんでもやります」でいけたのである。早い話が「奴隷」になることが価値であった。こうして勤めあげれば、50になると楽ができる。これが、実は日本的システムだったのである。しかし、それがもたなくなった。そこで、残ったのが〈能無しの年寄り〉というスクラップにして残飯としての45才から60才だったのである。客観的にみてみよう。財政状況は悪いのだから、しかも働きが悪いのだから、当然年寄り一人切って若い人ふたり雇えるところを一人  これで経費節減は当然だろう。
 年寄りに残された道はなにか。一つは、いかに奴隷だったかを数え立ててみよう。「これだけ自分は奴隷だった、評価せよ!」と。そして労働組合をつくるのである。さもなくば、いさぎよく熟練を今からできる熟練を自らの身体に習得させるのである。パソコンをやりたまえ。エクセルとワードぐらいは自由に使いこなせ、いやめんどうくせえランニングして体力つけろ・・・・。

〈冬構え〉としての横断的力能

 (「野球部監督」+「教科」+「クラス担任」+「生徒課」)÷4=x

 この演算式の答えxはもちろん「奴隷的未熟練労働」である。それはいいかえれば体力さえあれば誰でもできると言い換えてもいい。実は民間のリストラ劇はこうした実態を明るみに出したのである。日本の労働市場には横断性がまったくない。それはいいかえれば職能の徹底した軽視である。処女のまま操を捧げ、尽くし――ピンカラトリオで実は日本はやってきたのである。
 私ははじめに、若い人がいくつもの仕事をかけもち、それがいったいどういうことを意味しているのか、彼らは気付いていないというようなことを書いた。それはあなたも年をとるんだよ、ということである。これから十分教育の世界にもリストラの可能性はありうる。そのときの〈冬構え〉を今からしておかなければいけないはずなのだ。横断できる力能を蓄積できるのはせいぜい30代前半からが限界である。
 30代から下の諸君はもう一度問うてみよ。

 売り物にしうる何が君にあるのか?

 それは、この県をやめて、もう一度外部へと自らを問うというように考えてみるといい。そうしたとき、はたしてなんでもかんでもやっていいのかという問いが自然に起きてくる。私は50才までにはたして転職できる何かが自分の内部に蓄積できるか、その準備をこれまで考え努力してきた。それは徹底して現場に就くことからしかはじまらないだろう。具体的にいえば授業だ!一にも二にも授業だ!今の50代はまったくそういうことを考えずにきた。そして、リストラに会い、うろたえることになるだろう。その生は実は今の若い人にも現在しているのであり、50代の試練はいわば必然といっていい。

マルクスと中岡哲郎

 労働の二極分解の問題を本質的な問題として提起したのはマルクスである。また、わが国では中岡哲郎の『人間と労働の未来』(中公新書)がこの問題を真っ向から問題にしている。これから、日本社会は規制緩和という問題と本気で向き合うことになるだろう。それは「合理化」の問題といいかえてもいいが、この二極分解の問題は避けて通れない問題となるだろう。『資本論』に安易な解答はみつけられない。ひたすら現実をみつめる角度をマルクスからもらうだけである。
 私たちは「安い」ことを歓迎する。しかし、「安い」ということは同時に、労働の二極分解を徹底的に行うことである。それは、一方で単純労働に能う限りおきかえてゆくことを意味する。それを「若年労働化」とも(差別を恐れずにいうなら)「婦女子の労働」に置き換えてゆくことであるともいえるだろう。おそらく、学校はすぐにでも「パート労働」や「フリーター」への代替がが可能である。いや、私たちは自らこのことが可能なシステムをつくり、維持することに加担しているのである。初期マルクスの用語でいう自己疎外の世界である。
 かつてヨーロッパでは資本主義の初期に「ラッダイト運動」があった。また、「クラフトユニオン」がたちあげられた。これらはすべて「労働の未熟練化」「機械化」への抵抗運動であった。予言的にいえば日本社会ではこうした運動は起こらない。これが私の悲観的観測である。なぜって?日本の労働者は、労働者ではないからだ。

なんでもります、授業だけでいいのでしょうか?分掌も、・・・なんでもやります

という単なる未熟練奴隷だからだ。
 


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