高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

キルケゴールのソクラテス

2006-07-15 06:18:49 | 社会科学・哲学



キルケゴールの逆説

 キルケゴールはクリスチャンである。しかし、彼はソクラテスが大好きである。ことあるごとに彼が立ち戻るのはソクラテスである。「無知の知」という言葉のもつ逆説を彼はこよなく愛するのである。彼は知るという行為のもつ逆説性を強調する。知るってのは知らねえから知ろうとするのだろう?ところが学校の先生がそうなんだけど、テメエが知っているから知っていると思いこんでいる傲慢がある。答えを伏せて、生徒に言ってみな、と問い、言えねえのをみて、見下す。そのおまえさんの知識には、知らないから知るのだという魂がないだろう?とキルケゴール=ソクラテスは言うのだ。知るという真下に知らないという突き上げがある、そこではじめて知ることは重くなる。知ることと知らないことが同居する、それが知るということなのではないのか?しかし、この思考はきわめて危険なのだ。だから、ソクラテスは殺されたのだ。

学校の先生がメシが食えるわけ

 学校の先生が禁圧するのは新しいことである。新しいというのは、現在ただ今の〈知らない〉ということである。先生が知らないでは話にならないではないか。だから、先生は現在テメエが知っていることが、生徒が知らないことでなければ困るのである。
「これ、知っている?」と生徒に問うて生徒が全員「知っている」となったとき、先生は失職することになる。つまり、先生が抑圧することは自分が〈知らない〉ということであり、それを生徒が知っているということである。
 そうして積み上げられていくのが、空っぽの魂が脱落した抜け殻の知識である。知らないという突き上げ、そのなかから飢えや渇きとなって突き上げられていく知への意志、それこそが知そのものから脱落していくのである。そして知を大伽藍のように組上げ、その頂点に達することそれ自体が自己目的となっていく。そこから知識の当初の出発点であり、着地点である〈無知〉が脱落していくのである。大学教員と対面していてつくづく感ずるのは彼らには私がどういう突き上げで知識を求めていくかといういわば、私の問に対する無関心である。それが自分たちのアカデミズムのどの形態にはまるのか、彼らの関心はそれだけである。私の指導教官がよくいうのが「それは(自分の知識の体系からしたときには)間違いだ」という言葉である。私にはそんなことはどうでもいい、としか思わないのだが、彼らにはそれが大事なのだ。それにしても、この大伽藍が形成されていくなかでいくつもの大学が作られ、いくつものポストが配当され、そこにカネが張り付いていく。そこには生活があるのである。そこには研究者先生とやらの恋が、セックスが、ガキが張り付いていくのである。そうよ、大学という表の世界には裏の下半身が剥き出しでぶらさがっているのだ。だから、彼らはネクタイをはめ、背広を着、隠すのよ。いっそのこと、それでズボンもパンツもはかねえといいんだが、しゃれとしては。

躓きと立川談志の〈古きもの〉

 談志は高座でよく、新しい物にはロクなものはねえという。だから「古典落語」、とまあこうなるのだ。談志は古典が生き残ってきたその生命力を見るのである。しかし、その談志が旗印として掲げてきたのが皮肉にも〈古典を現代に〉である。ここに談志の壮絶な闘いがある。談志はもちろん、古典の〈笑い〉こそ〈笑い〉の原点だと見る。しかし、彼が古典にその生命力の原点を見るのはそこに現在がたえず吹きこまれてきたという演者の努力を重ねてみた上でのことである。だから、彼は古典をそのまま演ずる演者を否定する。そのつど、躓き、客のシラケと対面するなかからしか〈笑い〉は出てこない。この〈シラケ〉と〈笑い〉の同居こそが談志の壮絶なる努力なのである。人はその事態に容易には耐えられない。〈笑い〉の真下に〈シラケ〉を飼いつづける精神だけが笑いを持続させつづけられるのである。
 キェルケゴールが重視するのは躓きである。知るには人は躓かねばならぬ。躓きをたえず経由し、無知なるものに対面しつづける人間にのみ知は授かるのだ。無知という河を泳がずには人は知には至れない、こういう風景を彼は執拗に描くのである。無知の河はもちろん足が河底には着かない。着いたのでは話にならぬ。そこに必死の根拠がある。しかし、溺れてもならぬ。それは死を意味するから。と。しかし、まあ、これはいうのは簡単だが、それは大変なことである。
 私はその大変さを知ったうえで、知識の伽藍に住むあたりの知性が良心かと思っている。人はしょせん、抜け殻を誇り、その伽藍のどのあたりを登っているかなんてことで、得意になり、生活の糧を得ようとする。スミスはそんなものだよ、人間は、というのだ。彼はそこに開かれた市場があれば、人間はテメエの食い扶持で頭が一杯ぐらいがちょうどいいのだ、というのだ。変に正義の、公共の、世界平和の、環境の、と気味の悪い利他心がはびこるより、利己心あたりがちょうどいいのだ、と。それがまじめな姿なのだ、と。
 ところが、日本のアカデミズムにはそのまっとうな市場がまるでない。大学教員を久しぶりに見たがその堕落のひどさは癌細胞末期という姿である。だから、学部上がりの学生の枯れ方がひどい。彼らは学問が自分の問いという無知から発するのだという当初がまるで念頭に無い。それを剥奪しているのはだれあろう、教授たちである。
 小泉改革もけっこうなこったが、無知と知が同居する世界をいかに、教育の世界に復権させるか、それは、いかにして今のバカ教育者をリストラするかという問いと同じである。実はアダム・スミスがその答えを出している。そして、それは日本の社会の答えにはならない。私はだから、沈むことだと思っている。日本経済がもっともっと沈むことだ。それ以外にない。堕ちよ、堕ちよ!


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