まなざしの声
以下の文章は、私の倫理の授業の受講生が「まなざしの声」について書いたものです。みなさんも心当たりがあると思います。どこからともなく聞こえてくる声なき声
「バカじゃねえ!」
「うざい!」
「黙れ!アホ!」
という声です。
3
声の正体は自己の持つ被害妄想による警告である。社会には、六法から始まり、身近なとこでは拘束などわれわれの自由を縛る「法」が存在する。これらは常に一部の権力者によって決定されている。そして、教室という小さな社会においての権力とはより野性的なものであり、その有権者とはいわゆる「不良」である。つまり、教室の後方に座ったり、発表の挙手ができないというのは、真面目を良しとしない不良によって生み出された慣習法なのである。そして、この法を犯しそうになったときの警報としてまなざしの声は発せられるのである。
4 ヤシの木
まなざしの声の正体は自分のプライドである。よーいどんで皆の前で転んだとする。その行動は「情けない、バカみたいだ」と、とても自分のプライドを傷つける恥というものである。周りの視線や空気から聞こえているように思えるが、実際は恥と思った時の自分の心の声なのである。現実、人の恥をみて気分が良くなるのが人間なので同時に外からも声があるのであろう。プライドのせいである。
5 中央生
何だとは言えない。言えないがそこに居るのだ。それはフラフラとやってきて、その場を支配する。強い強い力を持っている。でも一方で、半数、もしくは近くの“それ”に逆らえる人間が現れた時に、一目散に逃げ出してしまう弱さも持っている。“それ”はきっと自分の中にも自分の外にも住んでいて、逆らおうとすると声を発するのだ。
「私に逆らってはいけない」と。
“それ”は集団を意識することによって生まれ、独りになった時に死ぬもの。目には見えないが、いつもそこに居るもの。ほら、あなたの後ろに・・・。
6
この授業では特にですが、割と多数の人が自主的に発言をしなくて、進んで発言する人が何人かいますね。進んで発言する人の意見が、私はすごく嫌いです。というか、不愉快です。見ていて。自分が発言して他人が不愉快になる可能性があるなら、もしくはそうなったら申し訳ないので私は発言しません。発言の内容によるかもなんですが。
英語力に関する文章の最後のものとして、このまなざしの声について考えてみたいと思います。
ルサンチマンを超えろ
ニーチェは、嫉妬やねたみ、足の引っぱりといった情念をルサンチマンと呼びました。まさに、教室に蔓延しているのはルサンチマンです。
英語の時間に、先生が英文を読みますね、そのあとを生徒が復唱する。発音の練習なんでしょうか?
その後に続く声が、なんともダレた声だったり、やる気のないものだったりするのです。しかし、そこには、実はルサンチマンの地獄があるわけです。
「お前のようなアホがまじめぶって、何、英語の発音してるんだよぉ!アホ」
という足の引っ張り、ある意味で私たちの教室はこのルサンチマンが充溢する空間なのです。
やる気がない、のではありません。やる気を示してはいけないという掟が存在するのです。それに背けばどうなりますか?
そこには、制裁が待っているのです。大体、できの悪い人間が、がんばってなおできが悪かったとき、もう
「お前!根っからのバカじゃん!」
というバカの証明をしてしまうことになるのです。
私たちはこういう呪縛をどう解くのか、という問に英語の授業でも逢着するのです。
そのときに、生徒を侮蔑し、やる気がないのを叱り、さらし者にするということも、嫌がらせのように赤点者に、苦役を課すことも、それは、単なる教授者の怨念をはらす、ルサンチマンの域を出ないのです。
私たちはこのルサンチマンをどのように超えるか、という問いと向かいあわなければなりません。上のような教員の対応は、たんなるヒステリーを出ません。ルサンチマンを超えるメッセージを私は英語の教員に期待したいのです。この課題に鈍感であっては、中から下の学力の学校の生徒の教科指導はできません。そして、私はそこに鈍感な教師をイヤと言うほどみてきています。
【参考】
・まなざしの声 1 空気を読め
・まなざしの声 2 その正体は何か?
・英語力 1 問題の所在
・英語力 2 英語がむずかしいってのがおかしいのだ
・英語力 3 英語はゼニになるぞ
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自分自身、その復唱に参加しない理由は「自分の発音の程度が低く、またそれが自分で分かるのだけど直しようが無いから」。発音なんて、舌を上あごにつけて・・・などと説明されたって出来っこないじゃないか。
とにかく、発音がうまく出来ない自分が嫌だから、それを自分自身で聞きたくないから、だから私は復唱しない。邪魔なプライドですね。
しかし、国語の授業でも復唱はやらされます。これこそ英語の復唱よりも行う必要性に疑問を感じますが・・・。
ここでも率先して教科書を読む人はいない。
そこにはやはり「馬鹿臭い・恥ずかしい・そんな事できない」というプライドが存在するのかもしれません。
今のところ、ルサンチマンには同意できません。
いいと思わない英語の先生?
少なくとも嫌いな人にとっては神経を逆撫でされる思いでしょうが。恐らく授業に来なくなってしまうのがオチですね。
どうすればこのような中で教育活動を円滑に行えるのか、悩みました。
まずは関係づくりからはじめましたが、そこまでの道のりが長かったです。
「とにかく、発音がうまく出来ない自分が嫌だから、それを自分自身で聞きたくないから、だから私は復唱しない。邪魔なプライドですね」と書かれ、「少なくとも嫌いな人にとっては神経を逆撫でされる思いでしょうが。恐らく授業に来なくなってしまうのがオチですね」と書かれているのは、あなたが否定されたルサンチマンが原因だと僕には見えますね。周囲の人間の足の引っ張り、侮蔑があなたの内省となって内面化されていると考えればまさに、ルサンチマンなんです。■みっともねえわけじゃないですか。で、何でみっともねえのか、それを見たら笑うやつがいるってことでしょ。変な話ですが、自分一人でフルチンになってうんちしってたって、恥ずかしくはないですよね。でも、人がみてるから、恥ずかしいんです。自分の発音を聞きたくないのは、あなたが他者として自分を見ているからです。その他者の視線こそがルサンチマンなんです。■さて、僕は、ある程度市場を学校に入れろというか、入れる中で救済があると考えています。そうでもしなければ、英語力がない人間を学校は考慮しませんね。そういう人間の困難を見ることはないと思いますね。■それにしたって、大変な問題なんですよ。
たしかに、他者は自らを映す鏡であるというのと一緒で、私は自身をどうも他人の様な視点から見ている節があります。
髪型を変えてそれが自分自身似合っていると思っていても、他者がそれを「ダサい」といえば、その髪型はダサくなってしまうのと同じ。
ルサンチマンとは私の場合、形を変えて存在しているのですね。
そもそも、何故あなたは英語教育にこだわるのですか?私自身、英語教育の重要さの答えは持っていますが、貴方が私をナルホドと満足させる理由をもっているのか、知りたい。
金になる、だけですか?
ご質問に本文でお答えしました。私のこのコメントの名前のところをクリックしてみてください。