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「反貧困」書感

2012年06月07日 17時35分11秒 | 社会
湯浅誠「反貧困-「すべり台社会」からの脱出」読了。
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時あたかも、「生活保護」について喧伝されている昨今。
ただ騒いでいる側も、結局「貧困」なるものをきちんと見ずに取り上げている、印象があり、
そのあたりがこの本を読んで、改めて整理できたように感じる。

本の構成は
「貧困問題の現場から」と「「反貧困」の現場から」に大分される。

以下、読みながらtweetした内容を単純に羅列してみる。

〈まえがき〉
・「弱者など存在しない」言説の大部分は、自分で勝手に目を瞑って見えないことから「存在しない」と言っているんだろうな。
・「強い社会」という表現はあまり好きではないなあ。「強い」という言葉そのものが感覚的に好みではないのかな。

〈第Ⅰ部 貧困問題の現場から〉
[第一章 ある夫婦の暮らし]
・派遣・請負業の中間マージンの上限設定、か。今回の派遣業法改正で派遣料公表が義務付けられるんじゃなかったっけ?これ、あまり取り上げられていないが、けっこう大きな話なのでは?何か上手く誤魔化せる手を打っているのかな。
・夜通し街を歩いて、昼間公園で仮眠を取る、というのが初めての「野宿」。
・人々が貧困化する構造的な要因。

[第二章 すべり台社会・日本]
・非正規労働者の方が雇用調整を受ける可能性が高いのに、失業給付を受けられない、という事実。契約期間の縛りはほぼなくなったとは言え、週20時間や6ヶ月の継続雇用、はハードルとして高いやも。例えば特定受給資格に該当する場合は1ヶ月でも失業給付を受けられる、という手はあるかも知れない。
・生活保護の「捕捉率」、当てにならないとは言え今では発表されているんだな。しかし、「掬えていない人を掬うために、生活保護の減額が必要」という言説が論外なこと、言うにや及ばず。予算から「最低限文化的な生活」を定義する、なんてロジックはムチャクチャでしょう。
・「濫給」と「漏給」、どちらをより重大な問題と捉えるか。より目に付く「濫給」が叩かれており、黙ったまま死んでいく「漏給」は黙殺される、或いは見過ごされている状況と感じるが、それは正しいのか。
・日本は税と社会保障移転による相対的貧困率削減効果が非常に小さい。今まで格差が小さかったのは元々の格差が小さかったからであり、政策のおかげではない。
・三重のセイフティネットと思いきや、最初の破れに足を取られたらそのまま奈落の底にまで転落する構造。
・「刑務所が第四のセーフティネットになっている」。65歳以上の高齢受刑者の約7割が、出所後に罪を犯して再入所、って、かなりの数字。しかし、年金もなく、生活保護も受けられないのであり、前科の有無が何にも影響しないのであれば、確かに「刑務所」は一つの手だわな。
・「公的なセーフティネット」が政府以外であっても良い、と思いつつ、NGOや民間に押し付けて済ませるようになるのも拙いか、とも思いつつ。
・生活保護法19条1項「…次に掲げる者に対して、この法律の定めるところにより、保護を決定し、かつ、実施しなければならない。」2号「居住地がないか、又は明らかでない要保護者であつて、その管理に属する福祉事務所の所管区域内に現在地を有するもの」ので、住所不定だから、と拒否するのはNG。

[第三章 貧困は自己責任なのか]
・教育課程、企業福祉、家族福祉、公的福祉からの排除、さらに「自己責任論」を被ることで発生する「自分自身からの排除」。意図的に排除させ、それを国家や政府への「帰依」に結び付けるのが権威主義的な手法か、と勘繰ったりして。
・「自由な選択が可能な状態にする」というあたりが、リバタリアニズムと社会保障の整合性の取り方か。無論前提条件がゼロにはなり得ないから、「文化的な最低限度の生活」のレベル、という辺りであり、それが例えば「週40時間仕事をして賃金を受ければ、生活できる」などかな。
・貧困とは選択肢が奪われていき、自由な選択ができなくなる状態、と後の方に書いてあった。前提の「自由な選択ができないか」に気付くかどうか、で非難するかしないかが変わるのか。
・「貧困に陥らないための十分な所得とは、個人の身体的な特徴や社会環境によって異なる」。完全に個別対応できる訳ではないし、するべきでもなかろうが、視野に入れておく必要はあるか。
・「溜め」。「すべり台社会」の途中で止まる手がかりのようなものか。これに助けられている、という意識すると、他人を「自己責任」として斬るのが天に唾するもの、と感じるか。自分自身に「自己責任」を求める精神姿勢が悪いとは思わんが。
・経済的に上位にある者の目には、貧しい人々の姿はほとんど映らない仕組みになっている。濫給は無論是正されるべきだが、それを強調することが本来受給すべきだった人から生活保護を取り上げ、当然漏給は是正されないことにつながる恐れを常に見ておかなければ。
・「予算が限られている」から、不正受給を減らせばその分もっと必要な人に生活保護が行き渡る、と思われているのか?それよりも、不正受給を減らすための手続により、本来受給すべき人が受給できなくなる恐れの方が強い。北九州のように、また犠牲者が出ないと風潮は反転しないのか?
・それでも申請できず、亡くなっていく方はいる。申請が多いから、と言って「生きていけない」額にカットしたり、ハードルを上げたりするのは論外。
・そもそも海外の「生活保護」の申請・承認の仕組みはどうなっているのだろう。前提も制度も違うからそのまま適用する訳にはいくまいが、参考にはなるだろう。
・今度は北九州のように漏給で餓死者が出ても、「要らん奴に生活保護支給していたから、要る人に回らなかったんだ!」という方向に怒声が飛びそうで空恐ろしい。
・為政者、権力者、民主主義政体下での多数派は、目を閉じ耳を塞ぎ、都合の悪いものを「ないこと」にすることで、兵糧攻めにし餓死させて、実際に「なきもの」にすることができる。それだけの力を持っていることを自覚せねば。
・頑張るためには条件「溜め」が要る。誰もが同じように頑張れる訳ではない。
・貧困はあってはならないものだから、目をつぶって見たがらない。目をつぶって何もせず、皆餓死してくれたら貧困はなくなる、とでも思っているのか?

〈第Ⅱ部 「反貧困」の現場から〉
[第四章 「すべり台社会」に歯止めを]
・社会の一員としての立場から社会的に必要と感じられることを自主的に行う「市民」。
・住所不定状態にある人たちに対するアパート入居時の連帯保証人提供で、金銭的トラブルになるのは約5%前後。
・「貧困」と「貧乏」の違い。人間関係による「溜め」がないことによる貧困。「貧しかったが、親や周囲の人に助けられて勉強を続けることができた」と言うのは「貧乏」であり、「貧困」は全く質の違うもの、と認識する必要があるだろう。
・社会との結び付きがない時、自分が日本人であることを「繋がり」と感じ、排外的なナショナリズムに走る。権威主義的な人間が「自己責任」と叫んで貧困対策をとろうとしないのも、排外主義の支持者を増やすための手立てだったりして。
・生活保護申請に、第三者が同行することに意義がある、か。

[第五章 つながり始めた「反貧困」]
・競争が働かないところでは、中間マージン比率を公開したところで仕方ないのかなあ。自主規制だったら良い、とも言えないように感じるし。
・最低賃金が想定しているのは「お小遣い」。その収入で一家を支える水準ではない。
・生活保護基準が「最低生活費」を現実には定めている。これを切り下げることによる地方税・保険料などへの影響。
・「下向きの平準化」に留まらず、「貧困化スパイラル」が起こる。生活保護を叩く(裕福な人が喋っている)マスコミに乗っかり、同様に非難する人々は、それが自分の足元を掘り崩す自殺行為だ、と気づかねばならんのだが。
・「地域間格差の是正」を名目とした実質的な切り下げ。相変わらず強行されそうな雰囲気だなあ。

[終章 強い社会をめざして-反貧困のネットワークを-]
・手近に悪者を仕立て上げ、末端で割りを食った者同士が対立し、結果的にはどちらの利益にもならない「底辺への競争」。この本が書かれた4年前からも、何も学んじゃいない。
・若者を戦争に駆り出すために、まともに食べていけない、未来を描けない、という閉塞した状況に追い込み、他の選択肢を奪ってしまうことにより、「志願して」入隊してくる。中国を市場とする経団連などの動きからは、まだ衣の下から鎧は見えないが。


同じ感想を繰り返し持っているようでもあるが。

昨今の「生活保護」叩きは、
「濫給」を強調してハードルを上げることにより、
「漏給」を隠蔽したり、生活保護水準を切り下げたりする動きに見える。

対抗勢力の力を削ぐ一つの方法は、「内輪揉め」させることだろう。
見えづらい「貧困」を再発見して抉り出して見せ、
最低生活費と最低賃金がリンクしていることに目を凝らさなければ、
自らの手足を自ら食べることになりかねない。

そのあたりを考える上で、ベースになる本だと思う。
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