城郭探訪

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多賀城 近江国(多賀)

2015年10月07日 | 城郭寺院

多賀城遺跡(たがじょういせき)

 

所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀546 map:http://yahoo.jp/n3TYnfこの地図のURL

区 分:平城 
現 状:宅地・多賀交差点  
築城期:鎌倉期
築城者:多賀氏
城 主:河瀬主馬(多賀大社の神官)
遺 構:土塁・堀・ 西徳寺石碑
訪城日2015.10.4 
 
 
お城の概要
平成14年滋賀県遺構地図には、多賀交差点周辺を比定しているが、(国道307号線と県道227号) 

多賀町の城

 多賀町内に存在する中世の城館跡は21を数えます。城館と一口にいっても城と館では性格が異なっています。館とは、おおむね平野部や丘陵のすそ部などの居住に最適な地で、交通・軍事のかなめにあたるところにつくられた屋敷のことです。水堀や土塁をめぐらしており、緊急時には防御施設になります。
 一方、城は山や丘陵の自然地形を利用し、堀や土塁を築いた軍事施設で、非常事態に立てこもるという性格が強いものです。ただし、久徳城のように平野部に城が築かれ、城と館の区別が明確ではない場合もあります。
 滋賀県内の城館跡は1300カ所と、全国でも有数の城館数を誇っています。多賀町は以外に少なく感じられるかもしれませんが、平均くらいでしょうか。多賀町の場合、多賀社、敏満寺などの社寺が大きな勢力を持っており、ほかの地域に比べて特殊な様相を呈していたと考えられます。
 今後、多賀町内に所在する城をご紹介していきたいと思います。

さ307号沿いの土塁?
お城の歴史

河瀬氏の支城。城主に多賀大社の神官「河瀬主馬」の名が。
河瀬氏は河瀬城を拠点に犬上郡に勢力を持つ一族で、織豊期には「多賀大社」の大神主であった。

江州佐々木南北諸士帳』に、「多賀 一宮士 川瀬主馬・二宮士 川瀬斎宮・三山田宮士 大岡玄蕃」とある。

・西徳寺(さいとくじ) 多賀町多賀 承和二年法相宗から天台宗に改宗。建長七年親鸞聖人三日間滞在。永正二年浄土真宗に改宗。

元亀元年織田浅井の兵火により焼失。元亀四年顕如の命を受け、僧證慈門徒760人をもって石山合戦に参加し討ち死に。

 多賀氏

  多賀氏は、古代より多賀地方および近接の甲良地方に土着の豪族であり、多賀社を氏神にしていたと考えられる。しかし、家系図の上では公家の中原氏と結び付けられ、天武天皇皇子・舎人親王の末裔である中原真人長谷に始まる江州中原氏が、多賀社の神官を務め、多賀氏を名乗ったのが始まりであるとされている(旧説では、江州中原氏は崇峻天皇皇子・定世親王の後裔と見なされていたが、今では仮冒[他人の名を語る偽称]と判じられている)。

いずれにしても、多賀氏は鎌倉初期から中期にかけて多賀と甲良に勢力を張る氏族であり、室町時代には犬上郡および坂田郡にて同族間で争いながらも隆盛であった。

 戦国期には、甲良の下之郷城に居城した多賀高忠を始めとする幾人かの著名な武将の名が見え、織田政権下・豊臣政権下でも為政者に直仕する、堀氏と縁戚関係になるなどして有利に活動していたが、関ヶ原の戦いの際、敗軍となる石田三成方についたことが禍し、戦後、所領を没収されて没落した。

 多賀氏であるが愛知大領成行なる人物から5代目信景が多賀へ移って多賀神社の神官を勤めたことから多賀姓を名乗った、平安時代中央官僚の中原氏が愛知郡の大領に任じられ長野郷に住したので長野姓を名乗り秀定の時多賀姓に変えたなどの説があるがもともとは多賀神社を氏神にする土豪だったらしい。その後侍所京極持清によって若宮氏と交替で京都所司代を勤めた。しかし多賀氏は豊後守系と出雲守系とに別れた。出雲守清直が失脚後、京極高数の次男が多賀家を継ぎ豊後守高忠となり持清を助け、六角氏の湖北侵略に対抗した。持清の存命中湖北は安定していたが、その死後失脚した清直が下坂家の内紛に介入して再び表舞台に出てきた。その子宗直は三田村定元の協力を得て高忠に勝利して湖北を支配した。これに対し持清の遺児秀綱が宗直に反発する勢力を集結、反撃に出て宗直・定元を破って湖北を奪回した。
高忠の子孫が貞能である。信長のもとで働くが本能寺の変で明智光秀についたため没落した。貞能には男子がなく、信長の側近だった堀秀政の弟を養子に迎えた。

西徳寺(さいとくじ) 多賀町多賀

承和二年法相宗から天台宗に改宗。建長七年親鸞聖人三日間滞在。永正二年浄土真宗に改宗。

元亀元年織田浅井の兵火により焼失。元亀四年顕如の命を受け、僧證慈門徒760人をもって石山合戦に参加し討ち死に。
西徳寺 西徳寺

慶照寺

多賀の古代・中世
奈良時代
  • 和銅5年(712年、奈良時代初頭) :この年に編纂された『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあり、後世の多賀神社(多賀大社)のことと考えられる。
  • 天平宝字3年(759年)頃か :坂田郡側の霊山(現・霊仙山)山麓にて霊仙(長じて日本で唯一の三蔵法師となる人物)が生を受けたと伝えられる。この後、奈良の興福寺に入山する15歳頃までは霊仙山にある寺院(松尾寺など)で修行に励んだという。
  • 奈良時代 :霊山(現・霊仙山)山頂に霊仙寺(非現存)が建立されたと伝えられる。
平安時代
  • 天安2年(858年) :惟喬親王が藤原良房の追討を逃れて京の都から逃れる際、犬上郡の鞍掛峠(現・多賀町大君ヶ畑〈おじがはた〉の鞍掛峠)にて馬の鞍を外して休憩をとらせたと伝えられる(鞍掛峠および大君ヶ畑の地名由来)。
  • 延長5年(927年、平安時代後期) :この年に編纂された『延喜式神名帳』に「近江国犬上郡 多何神社二座」とあり、後世の多賀神社(多賀大社)のことと考えられる。
鎌倉時代
  • 鎌倉時代 :胡宮神社(このみやじんじゃ)が天台宗・敏満寺の鎮護として繁栄し、48伽藍120坊の規模を誇った。
室町時代
  • 明応3年(1494年、室町時代中期) :神仏習合が進み、多賀神社境内に神宮寺として不動院(天台宗)が建立される(多賀大明神の隆盛期の始まり)。
  • 永禄5年(1562年) :浅井長政の攻撃を受ける久徳氏に味方した敏満寺が長政に攻められ、焼き討ちに遭って120以上あったという堂宇が炎上焼失する。
安土桃山時代
  • 元亀3年(1572年) :命に応じなかった敏満寺を織田信長が攻め、残りの堂宇をことごとく焼き討ちにした上、寺領も取り上げ、これによって敏満寺は廃寺に追い込まれる。唯一残った福寿院が胡宮神社の別当寺院となったが、胡宮神社も被害甚大で衰退期を迎える。
  • 天正年間(1573-1592年) :胡宮神社の再興の願いに対して豊臣秀吉の許可が下り、社殿と大日堂が再建される。
  • 天正16年(1588年) :多賀神社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため、社殿改修を行い、大名に与えるに等しい1万石を寄進する。
  • 慶長年間(1596-1615年) :敏満寺跡地に残った礎石が彦根城普請のために運び去られる。
  • 慶長4年9月15日(1599年10月21日) :関ヶ原の戦いに敗れた西軍の武将・島津義弘が関ヶ原から犬上郡の五僧峠(現・多賀町五僧の五僧峠)を越えて高宮(現・彦根市高宮町)の犬上川河畔で一泊し、翌日、信楽経由で大阪の堺まで敗走する。
江戸時代
  • 寛永年間(1624-1645年) :3代将軍・徳川家光の庇護の下で大造営が行われ、現存する本殿・大日堂・観音堂が寛永15年(1638年)に建立される。
  • 寛永15年(1638年) :大僧正・慈性が多賀神社境内正面にて石造りの太鼓橋を造営し、以後、橋は太閤・豊臣秀吉と当社の縁に由来する「太閤橋」の名で呼ばれるようになる(現存)。

 

参考資料:

『江州佐々木南北諸氏帳』『滋賀県中世城郭分布調査報告「旧愛知・犬上郡の城」』・ 滋賀県の遺跡:遺跡ウォーカー

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