近江の城郭探訪

「近江を制する者は天下を制する」と京の都を目指す天下取りには、近江は京都の護りの最大の砦で、最後の砦。1300余の城館跡

穴太城 近江国(坂本)

2017年04月21日 | 

やっと見つけた【穴太城】

お城のデータ

所在地:大津市坂本本町 map:http://yahoo.jp/jNTQLk

現 状:山林

区 分:砦

築城期:織豊期

築城者:織田信長軍

陣 主:明智光秀をはじめ、簗田広正・河尻秀隆・佐々成政

遺 構:掻揚土塁(銃座か?)・平削地(曲輪)、空堀・竪堀・

標 高:225m   比高差110m(旧街道より)

目標地:湖美が丘自治会館

駐車場:湖美が丘自治会館

訪城日:2017.4.20

お城の概要

 穴太駅から急斜道を登ると、雛壇状の「湖美が丘地区」の住宅開発がされいる、「湖美が丘自治会館」を目指す。

「湖美が丘自治会館」の西側の丘陵が、幸い間伐直後で遺構がはっきりと確認できる。

砦頂部は自治会より40m程だが、北側は「四ツ谷川」・南側(宅地)は空堀と土塁。

穴太町「湖の美が丘地区」の北側、旧白鳥越えの峠道沿いにあったとされる。
『滋賀県中世城郭分布調査』具体的な場所は特定されていないが、「湖美が丘自治会館」の背後から西へ、山に入ると複数の平削地が確認できる。

 

お城の歴史

比叡山延暦寺攻めのために織田氏が構築した砦のひとつ。 1571年、延暦寺攻めの指揮を任された明智光秀が辛崎・穴太・田中に城砦を構築。 穴太には明智光秀をはじめ、簗田広正・河尻秀隆・佐々成政らが入城した。

 信長公記 巻三 元亀元年

 10、志賀の陣  志賀御陣の事

 9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山に陣を取った。
 このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打して約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。

 信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
 田中には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎の砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
 叡山西麓の将軍地蔵山の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。

 10月20日、信長公は朝倉勢へ菅谷長頼を使者に遣わし、「いらざる時を費やすをやめ、一戦をもって勝敗を決さん。日時を定めて出で候え」と申し述べさせた。しかし朝倉勢からの返答はなかった。そののち朝倉勢は交戦を中止して講和を申し入れてきたが、信長公は是が非にも決戦して鬱憤を散らすべしとして、これを蹴った。

 信長公が叡山に釘付けとなっている間、・・・云々。

湖美が丘自治会館

参考資料:遺跡ウォーカー、さきろぐ、『信長公記 巻三(元亀元年)9月25日条』『城郭分布調査1』

本日の訪問ありがとうございす!!

 

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