城郭探訪

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戦争遺産 【八日市飛行場跡地】

2013年04月04日 | 観光ボランティアガイド

八日市飛行場跡地

八日市大凧記念館此処の云われ~
1914~1945間に大日本帝国陸軍の飛行場として
使われたとか。

※大戦末期には此処から鈴鹿山地を越えて四日市に空襲に来る米国機に局地戦闘機で迎撃したと伺いました。

此処にも飛行第三連隊正門跡地の碑・飛行部隊の門柱

飛行第三連隊正門跡地の碑

無題1.png

滋賀県‎東近江市にあった「八日市飛行場」。

上図は他に資料が見つからず、1946年の地図(下記リンク参照)を参考に造りましたが、かなり大雑把です。

 

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・A地点。

玉園中学前に設置されている碑。

 

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碑の裏側。

沿革(説明部分のみ) 昭和十二年十二月十日第八飛行団隷下で 旧満州國牡丹江省海浪 飛行第十六連隊より 部隊編成に依り(第八飛行教育隊)が設立され 昭和十二年徴収兵を第一期とし 飛行兵としての特業 基礎教育が実施され 昭和十六年二月九日改正に依り 中部第九十八部隊(第八航空教育隊)として 滋賀県神崎郡御園村に移駐 昭和二十年八月十五日 終戰に至る迄 此の地に於いて幾萬の兵士が 航空機の技術を修得し護國の念に燃え 南溟又北満の戰場に飛び立って行った土地である。(以下芳名録省略)

 

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・B地点。

有蓋掩体壕が現存しています。

説明板(全文) 飛行機 掩体壕 この掩体壕は、大戦中の昭和19年(1944年)米軍による日本本土空襲が激しくなることが必至と見られるにいたり、軍部では飛行機を空襲から守るために、各航空基地の周辺に急いで作られたものです。この掩体壕は小型機用のもので、八日市市には現在この他もう1個所残っており、八日市飛行場の語り部として貴重な存在です。
注釈 掩体壕は至近弾の破片は防ぎましたが、爆弾の直撃には耐えられませんでした。一方、上空から隠蔽(隠す)する目的もあったので壕の上部は土で覆い、草木が植えられてありました。応急の道路が作られましたが、地盤が軟弱な箇所ではタイヤがめり込んで大変でした。それで軟弱な所へは栗石を大量に投入したり丸太を敷き詰めて急場を凌ぎました。また警戒警報が発令されると、総出で飛行機を掩体壕まで押していき、警報が解除されると再び飛行機を飛行場へ戻す作業が毎日繰り返されたのでした。現在、大阪の八尾飛行場の付近にもこれとほぼ同規格の掩体壕が残されています。八日市市

 

D20_0058.jpg八日市飛行場掩体壕(ピンの位置に掩体壕があります)

全国に掩体壕が残されてます http://uroneko02.com/entai_top.htm

八日市飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:滋賀県‎東近江市‎尻無町‎
座 標:N35°05′44″E136°13′13″
着陸帯:1,450m×1,000m
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1914年09月 八日市町の沖野ヶ原を整地した臨時の飛行場にて「飛行会」を開催
1915年04月 八日市町、飛行場の造成に着手
      06月 「沖野ヶ原飛行場」完成。利用がほとんどなく、軍を誘致することに
1922年01月  陸軍の「八日市飛行場」に改称、航空第3大隊の開隊式が行われる
          その後部隊の変遷、敷地の拡張が続く
1945年07月 米軍機との戦闘が行われる
      08月 終戦、接収後一部は地主に返還、 外地からの引揚者に農地として払い下げられる

 

軍飛行場跡地の開拓

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
⇪軍飛行場として使われていた沖野原。写真中央に滑走路、遠景に太郎坊山が見える。

  軍の飛行場が開設された八日市は、軍隊と共に大いに繁栄しました。年1回の冲原神社の祭礼では、日本一の大凧が揚げられ、その活況ぶりが伺えます。

 戦争の拡大と共に飛行機の重要性が叫ばれ、八日市の軍飛行場は国防上、重要視されるようになり、飛行機の大型化や高性能な機種が必要になりました。これに伴い、長い滑走路を備えた飛行場へと拡張されていきました。

 いよいよ本土決戦か、との苦境に比例して飛行場は拡張に次ぐ拡張が行われ、松林を伐採、農地は固められ、さらに蛇砂川までもが付け替えられるなど、目一杯拡げられました。荻須憲一氏の回顧録に「当時、何千人もの人が工事にかり出された」との記述があります。

 当時、地主の人達は、国に半強制的に土地を買い上げられ、坪当たり3円という安い地価で提供を余儀なくされたと聞いています。これにより飛行場は2キロ四方の広さになりましたが、沖縄戦の突入、連日の大都市空襲、広島と長崎の原爆投下など、国内の被害は甚大なものになり、昭和20(1945)年8月、悲惨な戦争に終止符が打たれました。

 終戦を迎えた八日市飛行場は、残っていた飛行機を滑走路に集め、GHQの将校が手にしたライター一個の火によって焼却されていきました。このようすは、悲喜交々、筆舌に記しがたしものがありますが、黒煙を上げて燃え盛る炎が、すべてを呑み込み終演の幕を引きました。

 終戦を迎えた日本は、異国の地で戦った軍人、軍属、そして外地より多くの人が引き揚げ、人口は日毎に増加しました。国内の政局は混迷、人の心は荒廃、国民生活もどん底という状況の中で、人々は生きる望みを探っていました。

 心に戦争の悲惨な、そして大きな傷を負いながら、国家再建を目指した政府は、食料確保に乗り出し、緊急食糧増産対策法を樹立。各地に開拓地を設定した開拓事業をスタートさせました。

 滋賀県では、県庁内に「開拓課」を設置し、県内に10カ所ほどの開拓地を選定。八日市飛行場と近くの長谷野がその一つに決まりました。

 飛行場の開拓は、総面積361・9ヘクタール、入植地90ヘクタール、残り271・9ヘクタールは増反地として1、260戸の農家に配分され、そのうち沖野の開拓は、90ヘクタールに入植63戸で計画されたが、発足当初は52戸にとどまりました。

 終戦から3ヶ月後の1945年11月、11人が飛行場跡の沖野原に仮入植。まずは、飛行機を焼き払った残骸が残る滑走路近くから測量が始まりました。雪深い寒い冬だったことを覚えています。

 開拓事業は、翌年から本格的にスタートし、八日市開拓農業組合が発足。町内会各戸の開拓地が抽選で決定されました。

 もともと、石原だった飛行場跡から農地を生み出す開拓は、入植者が予想しなかった苦難の日々の始まりでした。

 当時は、拓士等の大半は、家がなかったため、旧兵舎に集まり生活をしていました。当時の冬は雪深く、厳寒に耐える暮らしを強いられていました。キツネの遠吠えを
耳にしながら、雪を集めて風呂を沸かしたことを思い出します。開拓の精神に燃える入植者たちは、増反地を含め測量に精を出しました。幾度も身体を休めては「広いなあー」と思ったものです。

                                                                ▲終戦直後の冲原神社。多くの兵士が手を合わせた社は、敗戦ともに荒廃した。

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