城郭探訪

yamaziro

仮称:奥田城 近江国(八日市) 

2017年04月05日 | 平山城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)中羽田 map:http://yahoo.jp/SJFc2L

現 状:山麓

区 分:居城

築城期:織豊期

築城者:奥田孫右衛門

遺 構:曲輪・土塁・堀

目標地:多聞院

駐車場:多聞院

訪城日:2017.4.4

お城の概要

中羽田集落に東端に「後藤館  近江国(八日市)」が、石垣・土塁・堀等遺構が残存する。

中羽田集落の西に雪野山の多聞院の南に位置し、山麓館には城郭遺構が残存する。

末裔の 供養塔:「浅野内匠頭家頼四十六義士・奥田孫太夫重盛、同貞右衛門行高」

 

お城の歴史

奥田氏

奥田三左衛門の時に、最初尾張国奥田庄に住んでいたが、のち奥田七郎五郎道家の時に美濃国茜部に移住し、堀太郎左衛門尉秀重属し 、土岐氏の家臣となった。

堀太郎左衛門尉秀重は、はじめ斉藤道三、次いで織田信長に仕え、近江坂田郡に3000石、ほかに2000石の合計5000石を与えられた。嫡男の秀政は信長の寵愛を受け、信長死後も豊臣秀吉に重用されて大名にまで栄進、秀重もその下で主に代官的な政務補佐を担当したが、1590年に秀政は早世。奥田氏か近江国へ度々合戦へ赴き手柄を立てた。近江の佐々木一門との合戦で、奥田孫右衛門は佐々木氏滅亡後豊臣秀吉に仕えた。

と塁穂地背後の土塁土塁孤軍

 供養塔:「浅野内匠頭家頼四十六義士・奥田孫太夫重盛、同貞右衛門行高」

和泉式部の歌碑

尾張国奥田が本領地でのちに、奥田孫右衛門は、近江の佐々木氏に仕えた。佐々木滅亡ごは、豊臣秀吉に仕えた

女坂の入口近くの山麓にあり、忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士のうち、奥田孫太夫とその養子・貞右衛門をまつる。事件より49年後、寛延3年(1750年)に当地に建てられた。

建立者は、孫太夫の本家筋にあたる奥田元長・元統兄弟で、現在もその子孫にあたる中羽田町の奥田氏が管理されている。

奥田孫太夫重盛は、赤穂四十七士の一人であり、長太刀の使い手としてその名をよく知られている。赤穂城主・浅野内匠頭長矩の馬廻役・武具奉行をつとめ、江戸詰で百五十石を給されていた。馬廻役というのは主君の警護役であるから、彼が武芸に秀でるとともに内匠頭の信頼を得ていたことを伺わせる。

 孫太夫には男子がなく、一人娘に養子を迎えていた。貞右衛門行高という。貞右衛門は野洲郡比留田村(現・野洲市)の近松家出身で、赤穂藩の加東郡勘定方をつとめていた。貞右衛門には清十郎という二歳になったばかりの子どもがいたが、貞右衛門も討ち入りに参加している。切腹したときは、二十六歳であった。

孫太夫・貞右衛門、二人の供養塔が東近江市中羽田町の雪野山山麓にある。供養塔は杉木立に囲まれており、地元の人以外にはあまりその存在が知られていない。

 供養塔の表には「浅野内匠頭家頼四十六義士・奥田孫太夫重盛、同貞右衛門行高」「元禄十六癸未二月四日」と刻まれている。裏側には、供養塔の建立年代と建立者の名前が彫られている。風化してすこし分かりにくいが、「寛延三年十月二十五日」「奥田元長・奥田元統」とよみとれる。

 供養塔の表面に刻まれた元禄十六年(一七〇三)二月四日は、赤穂浪士たちが切腹した日である。「家頼(家来)四十六義士」とあるのは、討ち入り後に姿を消した寺坂吉右衛門が、当時、義士としては数えられていなかったためである。供養塔が建立された寛延三年(一七五一)は、浪士たちの討ち入りから四十九年もあとのことである。

 奥田孫太夫・貞右衛門の供養塔が中羽田にある。四十九年も経ってから、孫太夫たちの供養塔が建てられたのはなぜか。建立者の「奥田元長・元統」と孫太夫の末裔。

古墳古墳

 参考資料:『滋賀県中世城郭分布』Wikipedia

本日の訪問ありがとうございす!!

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 奥田館 近江国(八日市) | トップ | 倉橋部城 近江国(近江八幡) »
最近の画像もっと見る

あわせて読む